2008年1月例会 「北海道浦河町絵笛を開いた但馬人たち」

開催月日   2008年1月26日(土)
開催市町   豊岡市
テーマ   「北海道浦河町絵笛を開いた但馬人たち」
講 師    中奥 薫さん(豊岡市役所職員)山本晃司さん(移住者の但馬の縁故者)
場 所    豊岡市立図書館
参加者    岩本名、小川、衣川、木村、高石、谷岡、峠、戸田、友田、成田、西躰
       能登、守山、久保(14名)
       会員外5名(飯尾、宮本、城田、岸田、池田)
担 当    友田、峠(記録)、上田、中安

■ねらい
 北海道浦河町絵笛地区は、いまから120年ほど前の明治年間に但馬各地から開拓移住した人たちが切り開いた地である。既に移住者たちは3~4代目に移っている。但馬学研究会としても、いつか彼の地を表敬訪問し、先人の苦労を偲び、発展の姿を称えたいと思う。今回の例会は、その予備知識を得ることを目的とする。

■講師
中奥 薫さん ─ 豊岡市役所職員。今から15年前、市広報担当当時、関係者とともに絵笛を訪問された。
山本晃司さん ─ 北海道移住者の但馬の縁故者。豊岡市在住。関係者とともに絵笛を訪問された。

 

■内容

1. この例会を開いた動機と北海道開拓史のあらまし(メンバー:峠 宗男)

* 自分の住む村の家々の裏山に、苔むした、手入れされない墓地を見ることがある。お盆前だけ直接関係のなさそうな人が掃除に見えるので、この墓とどんな関係かと聞くと、よく分からないが北海道に行かれた家の墓と聞いているとのこと。その当主が亡くなると、もうその墓は顧みられなくなった。
* 行政マンで市民課長当時、市役所に北海道からルーツ探しにこられた人があり、偶然だが、自分の住む村の出身者だったことが分かり驚いた記憶がある。
* 北海道開拓移住から約120年、おそらく彼我ともに風化が進んでいるだろう。いつの日か、この但馬学研究会として、我々の先人たちが切り開いた北海道浦河町絵笛の地を表敬訪問したく思い、この例会を思いついた次第である。

2. H5浦河町答礼の旅の思い出(豊岡市役所職員:中奥 薫さん)

* 豊岡市広報(平成3年12月号:北海道へ移民 望郷の念100年 先祖たずねる巡歴の旅 但馬へ 平成5年9月号:但馬から北海道開拓の地 浦河町絵笛へ答礼の旅)のコピーをもとに、市広報を担当されていた当時に体験された但馬人と浦河町とのかかわりを話していただいた。なお、その広報は氏が執筆されたものである。
* 年譜
明治20(1887) 但馬人 北海道絵笛に入植 (豊岡市史では詳細は不明とある)
昭和53(1978) 絵笛より川越清夫氏、豊岡市河谷の本家川越匠氏を訪問
関係者の本家探し始まる
昭和57(1982) 絵笛開基百年
平成3.10(1991) 「絵笛但馬会」一行9人、来但、それぞれの本家訪問
平成5.7 (1993) 本家但馬人14人 絵笛を訪問
平成20(2008) 明治20年の北海道入植より約120年経過
* 絵笛但馬会一行の本家訪問に同道した。それまでは、せいぜい手紙の交換か、全く音信不通の関係だったが、本家訪問が叶い、北海道移住のいわくが刻まれた墓石に向かって慟哭されるシーンに感動した。本家が逼塞していないか、突然の訪問で迷惑がられないかなどと、不安な気持ちで来られただろうが、多くの皆さんは感動的な対面をされた。
* こちらからも、絵笛を答礼訪問した。浦河町農協幹部、浦河町長と幹部、絵笛の人たちと懇親会をした。絵笛には「但馬神社」も祭られていた。ご先祖の入植時の苦労を見聞きされた年代、世代としてはもう終わりだろう。3代、4代ともなると遠い過去のことだ。明治20 年、今から120年前とは、石川啄木が生まれたのが明治19年、前田純孝が生まれたのが明治13年だ。和船で津居山から渡ったとあるから、北前船だったのだろうか。着いた所が絵笛川、川沿いは密林だったとは今の絵笛からは想像できない。
* 答礼の旅で歓迎していただいた方とは今も交流をしている。当時の町長谷川弘一郎さんはまだ現職、役場の企画課長太田正克さんは今収入役さんで、今回浦河町の資料などを送っていただいた。しかし亡くなられた方も多い。世代は変わりつつある。
* 日本史は細かいことは書かない。自分史として尊い歴史を見つけていくことは大事なことだ。今絵笛で豊岡、但馬を意識する人は少ないだろう。それでも、浦河町絵笛の基礎を創った人は但馬人である。

 

3. 移住者の但馬の縁故者の思い(豊岡市在住:山本晃司さん)
「豊岡の山本と絵笛の斉藤との縁について」と題したとても分かりやすい系図をもとに興味深いお話が聞けた。これから話すことは、祖母からそれとなく聞かされたのをなんとなく覚えていたことであるとの前置きがあった。

祖母かつは城崎の実家が北海道移住した明治26年頃一緒に移住したが、1年で帰ってきた。その頃は、もう大木を倒すことはなかったが、山仕事、畑仕事は絶え間なかった。津居山からは、「ばいせん」に乗って行ったといっていた。2回絵笛に行っているのだが、2回目は神戸から汽船に乗って行ったようだ。絵笛に行ったのは、「口減らし」のため。昆布、家事など仕事仕事の生活。20歳の時、近くの静内に嫁入りしたが、流産し、離婚。城崎に帰ってきて、山本弥蔵(晃司の祖父)に嫁いだ。

平成3年、川越匠さんが来宅、「絵笛に親戚があるか。向うから9人分の縁故者名簿の調べの依頼があった。」とのこと。そこで調査が始まったが、断りもあった。その結果、今まで年賀はがきのみの交流が、初めてあさぎり荘で対面できた。

対面の過程では、親や先祖から何も聞いていないこちらの縁故者では感動が薄く、儀礼的な対応のケースもあった。

私(山本)の縁故者斉藤 英さんが亡くなり、今は4代目になっている。競馬の飼育に忙しくなり、4代目とは全く交流はない。今まで送られてきた昆布も鮭も途絶えた。

昔の話を聞いたか、聞かないかで語り継ぎが出来るか、途絶えるかになる。関心があるか、ないかでも違う。今、自分の息子に話すと「ああそう」ぐらいでそっけない。

絵笛を訪問した時、印象に残ったことは、豊岡では「江谷 えだに」なのに絵笛では「江谷 ごうや」と呼び方が違っていたこと。理由は、豊岡を逃げて出てきたような状態なので、豊岡に迷惑にならないように無関係を装うために違う名乗りをしているとのこと。移住のさまざまな背景が見えるようだ。

120年間、世代交代が続き、開拓移住史は風化してきている。今後、北海道絵笛を訪問する機会があっても、迷惑になろうから、多分もう行けないだろう。

 

■フリートーク
(高石)絵笛は但馬人が開いた。北海道には他にもこんな例があるのか。

(峠)明治初年の北海道の人口は58,000人。今は570万人。開拓移住者で人口が増えた。東北、北陸からの移住が多いようだ。福祉先進市といわれる伊達市は伊達氏が開拓移住したのだろう。

(中奥)Tさん、血縁があってないような中で、仏壇を拝み、墓で移住のいきさつが刻まれた墓石を抱きかかえて泣いておられた光景には感動した。

(守山)時代の経過はいろんなものを消してゆく。

(山本)英さんはおばあさんの話をしている中で、但馬弁の「おっとろっしゃ」が話題になり、英さんは泣き出された。ことばも移住している。

(中奥)川越清夫さんは成功者で、この大地は先祖が開いてきたという気持ちがある。内地とは全く違う感覚がある。

(岸田)集落の生い立ちがはっきり証明されていることは貴重だ。

(峠)ふるさととは何か。ふるさとは遠くにありて思うものという詩があるが、豊岡市の振興計画のキャッチフレーズはコウノトリ悠然と舞うふるさとという。豊岡に住む者としては、ここでふるさとを使うのにはいささか違和感がある。

(守山)豊岡から離れた人へのフレーズだろう。

(飯尾)家を新築した際、叔母は古い前の家なら行くがと、新築の家には来なかった。大事な自分のふるさとは古い家だったのだと思う。

■その他の覚書

* メイン講師に予定していた川越匠氏が体調不良で欠席された。但馬の縁故者名簿整理に東奔西走された苦労話が聞けなかったのが残念だった。
* 浦河町の銘菓を取り寄せ、コーヒータイムに味わった。
* 食シリーズ番外編の例会ではあったが、昼食は豊岡の駅弁にした。案外地元の駅弁を食べることは少ないのではとの発想である。
* この例会は、「こころ豊かな美しい但馬推進会議」の補助対象事業として実施した。

【報告者 峠 宗男】

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