2011年~2012年度 5月例会報告 「但馬が生んだ文壇の鬼才 山田風太郎の世界」
日時 : 2012年5月27日(土)    12:00~16:00
場所 : 山田風太郎記念館(養父市関宮605-1)
講師 : 有本倶子 様
      ・関宮在住の作家・歌人。歌集、前田純孝や山田風太郎の評伝、編著書等多数。
      ・山田風太郎の会副会長

■テーマの狙い
知る人ぞ知る山田風太郎。忍者もの、怪奇もの、明治もの、エッセー、日記文学等々で一世を風靡した但馬関宮が生んだ稀代の小説家である。関宮の医家で生を享け、多感な20年を但馬で過ごした。東京で医学生の時作家としてデビューし、大成してからも常に望郷の人であった。風太郎の虜になり、山田風太郎記念館の建設に奔走し、「あんたぼくより、ぼくのこと詳しいねぇ」と氏をして言わしめた作家、歌人でもある有本倶子さんから山田風太郎の世界をひもといてもらう。

■レポーター峠のひとり言
このレポートを綴るに当たり、唐突で我ながら古いとは思うが、はしだのりひことシューベルツの「風」を口ずさんでいるところだ。昭和44年、いまから43年前に大ヒットしたフォークソングである。そんな昔、まだ生まれていないという会員もいらっしゃるかもしれない。♪人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴりさみしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ♪ 勿論、山田風太郎とこのフォークソングとは何の関係もない(と思う)。後期高齢者の峠の感傷に過ぎない。齢をとると午前中何をしたか日記を書くときさっぱり忘れているが、昔のことは結構覚えているものだなと我ながら不思議でならない。それでは、メモと記憶と若干の資料を頼りに、思い出すまま、思いつくままをレポートすることにする。



1、山田風太郎略歴

 1922年(大正11年)1月4日、兵庫県養父郡関宮村(現・養父市)生まれ。本名・誠也。父は医者、母は医者の娘。父は1927年(昭和2年)に死亡、享年41歳。風太郎5歳。母は、後に父の弟と再婚したが、風太郎が中学1年から2年に上がる春に死亡、享年38歳、風太郎まだ16歳。後年、この当時を振り返ると「魂の酸欠状態」だったようだ。1943年(昭和18年)夏、家出。東京の沖電気に就職、医学校進学を目指し、仕事の傍ら受験勉強を続ける。昭和19年、召集令状が来るが、「肺湿潤」により徴兵検査不合格、即日帰郷。直後に受験、医学校入試合格、東京医学専門学校(後の東京医科大学)に入学し、医学生3回生、24歳の時、探偵小説専門誌「宝石」に「達磨峠の事件」が入選し、探偵小説家山田風太郎が誕生。卒業後、結局医師にはならず作家生活に入った。2001年(平成13年)7月28日肺炎のため東京都多摩市の病院で死亡、享年79歳。



2、風

(ア) 風太郎にとって、「風」とはなんだったのか。風はどこかで生まれ、どこかに消えてゆくもの。裕福ではあっても淋しい境遇で育った風太郎は、そんな風を自分だと思ったようだ。豊岡中学校時代、四人の仲間をつくり、この仲間同士がお互いに連絡するのに、それぞれ雨、風、霧(想とも)、雷と言う隠語を使った。風は風太郎であった。「風」は「ふう」ではなく「かぜ」であり、世に出たころは「かぜたろう」と自分では称していたのだが、世間では「ふうたろう」と読まれ出したので、まあいいやと言うことになってしまったようだ。むしろ風太郎自身「ふうたろう」が気に入っていたかもしれない。自分の戒名に「ふうふういん」などと読ませている。なお、当時の豊岡中学校は、但馬一円から秀才が集まる名門校だった。

(イ) 遺書に、葬式はするな、坊主は呼ぶなとあったとか。生前の平成8年8月30日の「週刊朝日」に自筆の死亡記事が掲載されている。それによると、戒名は「風〃院風〃風〃居士」と自分で作ったとある。事実その通り、風太郎の墓は、東京都八王子市上川霊園にある。墓石には「風ノ墓」、墓誌には「風〃院風〃風〃居士」と刻まれている。近くには、戦後のラジオドラマ「君の名は」の菊田一夫の「忘却とは忘れ去る事なり、忘れ得ずして・・・」と刻まれた大きな墓があり、なんとも対照的だったとは有本さんの感想。

(ウ) もう一つ「風」について書く。風太郎の通った関宮尋常小学校は一部は残っているが廃校になり、国道9号をはさんで反対側に移転している。鉄筋コンクリート造りの立派な校舎であるが、今は隣の小学校に併合されてこれまた廃校になっている。その校門の近くに、関宮小学校創立百周年記念の堂々たる記念碑が立っている。碑文には、「風よ伝えよ 幼き日の歌」「山田風太郎題文 細川泰翆書」。裏側には「昭和五十五年二月 同窓生一同建之」とある。細川泰翆氏は、風太郎の小学校時代の恩師、風太郎の実家の近くに下宿しており、風太郎はいつも遊びに行き可愛がられた。細川氏は後年、豊岡の書道教室「風信」の創始者となり、子息の二代目細川翆楠氏は、風太郎の墓石の「風ノ墓」の題字を書いている。なお「風信」の「風」と、風太郎の「風」とは全くの偶然で、関係はない。



3、山田風太郎記念館

(ア) 風太郎が少年時代に通った旧関宮尋常小学校の跡地に、平成15年(2003)に建てられた。小さいながらも明治時代の蔵風の建物である。地元の有志15人が結成した「山田風太郎の会」が1年半運動をつづけ1年半かかって完成した。銀杏や桜の古木がいかにも学校跡らしい。入館料、大人(高校生以上)200円、小、中学生100円。年間の入館者は約3000人。記念館の管理、運営は、「山田風太郎の会」が養父市から委託されている。市からは6000人をめざせと言われている。館内では、ロビーで大画面のテレビで晩年の風太郎の映像を見ることができる。生前の風太郎から寄贈を受けた初版本、直筆原稿、創作ノート、書簡、写真、衣類など約1500点の資料のほか、執筆に使われていた机、椅子、書棚も寄贈され、書斎の一部も再現されている。小学生時代、誰も裸足かぞうりの時代に、風太郎が身に着けていた衣服、革靴、ランドセルなど如何にもハイソサエティの生活ぶりだったかが分かる。それで友達からいじめを受け、身に着けるのを嫌がり、そのお陰でお蔵入りになっていたのがいま日の目を見たとのこと。

(イ) 記念館建設の立役者である有本さんは多くは語られないが、成就までには地元サイドの理解を得るまでに相当の苦労があったようである。まず時間の経過もあって山田風太郎その人に対する関心、なじみが薄くなっていたこと、知っている人でも多くが、関宮に居た頃の風太郎が豊岡中学校を何回も停学させられたりする相当の悪(わる)だったことやお色気映画の原作者としての誤解もあったようである。20歳で地元を離れ、大成後も殆ど帰省せず、地元唯一の山田医院も閉鎖されている。氏は郷土を嫌っているのではないかとか、郷土のために何もしてくれていないではないか、税金を使って作るべきではないなどの意見もあった。さらに、平成の市町村大合併を控えて、各市町とも施設建設事業が縮小されている時期的な悪条件もあった

(ウ) 風太郎自身も、記念館なんて恥ずかしい、記念館に飾れるような本は書いていないし、地元には何の貢献もしていないので、受け入れてもらえないだろうと謙遜されていたが、とても楽しみにされていた。町長や議長、教育長、担当課長などを建設目的を理解してもらうために風太郎邸に連れて行ったら、風太郎は大変喜んで会っていただけて、町長たちも一遍に風太郎フアンになってしまった。結局記念館の完成は平成15年4月で、風太郎の没後2年が経っていた。



4、風太郎に関する覚書あれこれ

(ア) 豊岡中学校時代、寮の屋根裏に秘密の隠れ家を作り、悪の仲間たちとたむろした。風太郎は絵が上手で女の裸の絵をかいて、屋根裏からそれを糸でぶらさげ、それを覗いた下級生から観覧料をせしめた。右手の中指にペンだこができたのは、当時絵を書きすぎたからで、仲間は風太郎は画家になるものと誰も思っていた。当時の絵が豊岡中学校の達徳会発行の機関誌「達徳」の表紙を飾っている。勿論、女の裸の絵ではなく、鎧と刀の絵である。風太郎の絵の才能は、母方の祖先が鳥取藩のお抱え絵師の小畑稲升であったと言う血筋を引いているのかも知れない。

(イ) 東京での医学校入学前の浪人生活中、受験雑誌「蛍雪時代」に何回か小説が当選し、賞金を得ている。ペンネームが今までの山田風太郎から「春獄久」になっている。受験雑誌の編集者が、風太郎の作品があまりに大人びており、プロの作家が受験生の名で投稿しているのではと疑っていると聞き、名を変えたとの説もあるようである。その春獄久の由来だが、有本さんは風太郎の両親の戒名ではないかと言われた。父親の戒名は慶昭院春獄瑞宝居士、母親は宝寿院徳慧照大姉。ここから春獄と寿をとり、寿を久に置き換えたのではないかと言われる。

(ウ) 風太郎が幼年のころから20歳で上京するまで暮らした元山田医院・母屋が今は義妹の名義で残されている。近村の陣屋を移設されたと伝えられる母屋は、重厚で文化財的建築物のたたずまいを今も保っている。車庫も残っている。お抱え運転手も母屋の2階に部屋が与えられていた。風太郎の家から小学校までは歩いて1分ばかりだが、遅刻の常習者だった。近くには関神社がある。関宮の語源ともいわれる、拝殿と本殿を構えた古い神社である。母屋の隣には明治から今も続く古い酒蔵、銀海酒造がある。風太郎のエッセ―にはしばしば登場する。

(エ) 家系は出石藩の仙石騒動と関係がある。仙石騒動の主人公仙石左京の姉の夫山田八左衛門(騒動に連座、中追放となり自刃)が風太郎の祖に当たる。風太郎は、この家系については有本さんから教えられるまでは知らなかったようだ。「それにしてもあんたぼくよりぼくのこと詳しいねぇ」と有本さんはこの時風太郎から言われたそうである(もう一人の山田風太郎)。

(オ) 平成22年に角川書店と角川文化振興財団の主催による「山田風太郎賞」が創設された。今年は生誕90年にあたり、神戸で1か月間「風太郎展」が開催される。地元の風太郎記念館では7月28日の命日に「風〃忌」を営む。その際、風太郎が豊岡中学校5年生の時書いた「橘伝来記」を紙芝居にして公開される予定。また7月28日には平凡社から「別冊太陽 山田風太郎」が発行される。

                            【例会担当者】 安達、久保、福井、峠
                            【文 責】   峠 宗男
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