2011年~2012年度 5月例会報告 「但馬が生んだ文壇の鬼才 山田風太郎の世界」
日時 : 2012年5月27日(土)    12:00~16:00
場所 : 山田風太郎記念館(養父市関宮605-1)
講師 : 有本倶子 様
      ・関宮在住の作家・歌人。歌集、前田純孝や山田風太郎の評伝、編著書等多数。
      ・山田風太郎の会副会長

■テーマの狙い
知る人ぞ知る山田風太郎。忍者もの、怪奇もの、明治もの、エッセー、日記文学等々で一世を風靡した但馬関宮が生んだ稀代の小説家である。関宮の医家で生を享け、多感な20年を但馬で過ごした。東京で医学生の時作家としてデビューし、大成してからも常に望郷の人であった。風太郎の虜になり、山田風太郎記念館の建設に奔走し、「あんたぼくより、ぼくのこと詳しいねぇ」と氏をして言わしめた作家、歌人でもある有本倶子さんから山田風太郎の世界をひもといてもらう。

■レポーター峠のひとり言
このレポートを綴るに当たり、唐突で我ながら古いとは思うが、はしだのりひことシューベルツの「風」を口ずさんでいるところだ。昭和44年、いまから43年前に大ヒットしたフォークソングである。そんな昔、まだ生まれていないという会員もいらっしゃるかもしれない。♪人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴりさみしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ♪ 勿論、山田風太郎とこのフォークソングとは何の関係もない(と思う)。後期高齢者の峠の感傷に過ぎない。齢をとると午前中何をしたか日記を書くときさっぱり忘れているが、昔のことは結構覚えているものだなと我ながら不思議でならない。それでは、メモと記憶と若干の資料を頼りに、思い出すまま、思いつくままをレポートすることにする。



1、山田風太郎略歴

 1922年(大正11年)1月4日、兵庫県養父郡関宮村(現・養父市)生まれ。本名・誠也。父は医者、母は医者の娘。父は1927年(昭和2年)に死亡、享年41歳。風太郎5歳。母は、後に父の弟と再婚したが、風太郎が中学1年から2年に上がる春に死亡、享年38歳、風太郎まだ16歳。後年、この当時を振り返ると「魂の酸欠状態」だったようだ。1943年(昭和18年)夏、家出。東京の沖電気に就職、医学校進学を目指し、仕事の傍ら受験勉強を続ける。昭和19年、召集令状が来るが、「肺湿潤」により徴兵検査不合格、即日帰郷。直後に受験、医学校入試合格、東京医学専門学校(後の東京医科大学)に入学し、医学生3回生、24歳の時、探偵小説専門誌「宝石」に「達磨峠の事件」が入選し、探偵小説家山田風太郎が誕生。卒業後、結局医師にはならず作家生活に入った。2001年(平成13年)7月28日肺炎のため東京都多摩市の病院で死亡、享年79歳。



2、風

(ア) 風太郎にとって、「風」とはなんだったのか。風はどこかで生まれ、どこかに消えてゆくもの。裕福ではあっても淋しい境遇で育った風太郎は、そんな風を自分だと思ったようだ。豊岡中学校時代、四人の仲間をつくり、この仲間同士がお互いに連絡するのに、それぞれ雨、風、霧(想とも)、雷と言う隠語を使った。風は風太郎であった。「風」は「ふう」ではなく「かぜ」であり、世に出たころは「かぜたろう」と自分では称していたのだが、世間では「ふうたろう」と読まれ出したので、まあいいやと言うことになってしまったようだ。むしろ風太郎自身「ふうたろう」が気に入っていたかもしれない。自分の戒名に「ふうふういん」などと読ませている。なお、当時の豊岡中学校は、但馬一円から秀才が集まる名門校だった。

(イ) 遺書に、葬式はするな、坊主は呼ぶなとあったとか。生前の平成8年8月30日の「週刊朝日」に自筆の死亡記事が掲載されている。それによると、戒名は「風〃院風〃風〃居士」と自分で作ったとある。事実その通り、風太郎の墓は、東京都八王子市上川霊園にある。墓石には「風ノ墓」、墓誌には「風〃院風〃風〃居士」と刻まれている。近くには、戦後のラジオドラマ「君の名は」の菊田一夫の「忘却とは忘れ去る事なり、忘れ得ずして・・・」と刻まれた大きな墓があり、なんとも対照的だったとは有本さんの感想。

(ウ) もう一つ「風」について書く。風太郎の通った関宮尋常小学校は一部は残っているが廃校になり、国道9号をはさんで反対側に移転している。鉄筋コンクリート造りの立派な校舎であるが、今は隣の小学校に併合されてこれまた廃校になっている。その校門の近くに、関宮小学校創立百周年記念の堂々たる記念碑が立っている。碑文には、「風よ伝えよ 幼き日の歌」「山田風太郎題文 細川泰翆書」。裏側には「昭和五十五年二月 同窓生一同建之」とある。細川泰翆氏は、風太郎の小学校時代の恩師、風太郎の実家の近くに下宿しており、風太郎はいつも遊びに行き可愛がられた。細川氏は後年、豊岡の書道教室「風信」の創始者となり、子息の二代目細川翆楠氏は、風太郎の墓石の「風ノ墓」の題字を書いている。なお「風信」の「風」と、風太郎の「風」とは全くの偶然で、関係はない。



3、山田風太郎記念館

(ア) 風太郎が少年時代に通った旧関宮尋常小学校の跡地に、平成15年(2003)に建てられた。小さいながらも明治時代の蔵風の建物である。地元の有志15人が結成した「山田風太郎の会」が1年半運動をつづけ1年半かかって完成した。銀杏や桜の古木がいかにも学校跡らしい。入館料、大人(高校生以上)200円、小、中学生100円。年間の入館者は約3000人。記念館の管理、運営は、「山田風太郎の会」が養父市から委託されている。市からは6000人をめざせと言われている。館内では、ロビーで大画面のテレビで晩年の風太郎の映像を見ることができる。生前の風太郎から寄贈を受けた初版本、直筆原稿、創作ノート、書簡、写真、衣類など約1500点の資料のほか、執筆に使われていた机、椅子、書棚も寄贈され、書斎の一部も再現されている。小学生時代、誰も裸足かぞうりの時代に、風太郎が身に着けていた衣服、革靴、ランドセルなど如何にもハイソサエティの生活ぶりだったかが分かる。それで友達からいじめを受け、身に着けるのを嫌がり、そのお陰でお蔵入りになっていたのがいま日の目を見たとのこと。

(イ) 記念館建設の立役者である有本さんは多くは語られないが、成就までには地元サイドの理解を得るまでに相当の苦労があったようである。まず時間の経過もあって山田風太郎その人に対する関心、なじみが薄くなっていたこと、知っている人でも多くが、関宮に居た頃の風太郎が豊岡中学校を何回も停学させられたりする相当の悪(わる)だったことやお色気映画の原作者としての誤解もあったようである。20歳で地元を離れ、大成後も殆ど帰省せず、地元唯一の山田医院も閉鎖されている。氏は郷土を嫌っているのではないかとか、郷土のために何もしてくれていないではないか、税金を使って作るべきではないなどの意見もあった。さらに、平成の市町村大合併を控えて、各市町とも施設建設事業が縮小されている時期的な悪条件もあった

(ウ) 風太郎自身も、記念館なんて恥ずかしい、記念館に飾れるような本は書いていないし、地元には何の貢献もしていないので、受け入れてもらえないだろうと謙遜されていたが、とても楽しみにされていた。町長や議長、教育長、担当課長などを建設目的を理解してもらうために風太郎邸に連れて行ったら、風太郎は大変喜んで会っていただけて、町長たちも一遍に風太郎フアンになってしまった。結局記念館の完成は平成15年4月で、風太郎の没後2年が経っていた。



4、風太郎に関する覚書あれこれ

(ア) 豊岡中学校時代、寮の屋根裏に秘密の隠れ家を作り、悪の仲間たちとたむろした。風太郎は絵が上手で女の裸の絵をかいて、屋根裏からそれを糸でぶらさげ、それを覗いた下級生から観覧料をせしめた。右手の中指にペンだこができたのは、当時絵を書きすぎたからで、仲間は風太郎は画家になるものと誰も思っていた。当時の絵が豊岡中学校の達徳会発行の機関誌「達徳」の表紙を飾っている。勿論、女の裸の絵ではなく、鎧と刀の絵である。風太郎の絵の才能は、母方の祖先が鳥取藩のお抱え絵師の小畑稲升であったと言う血筋を引いているのかも知れない。

(イ) 東京での医学校入学前の浪人生活中、受験雑誌「蛍雪時代」に何回か小説が当選し、賞金を得ている。ペンネームが今までの山田風太郎から「春獄久」になっている。受験雑誌の編集者が、風太郎の作品があまりに大人びており、プロの作家が受験生の名で投稿しているのではと疑っていると聞き、名を変えたとの説もあるようである。その春獄久の由来だが、有本さんは風太郎の両親の戒名ではないかと言われた。父親の戒名は慶昭院春獄瑞宝居士、母親は宝寿院徳慧照大姉。ここから春獄と寿をとり、寿を久に置き換えたのではないかと言われる。

(ウ) 風太郎が幼年のころから20歳で上京するまで暮らした元山田医院・母屋が今は義妹の名義で残されている。近村の陣屋を移設されたと伝えられる母屋は、重厚で文化財的建築物のたたずまいを今も保っている。車庫も残っている。お抱え運転手も母屋の2階に部屋が与えられていた。風太郎の家から小学校までは歩いて1分ばかりだが、遅刻の常習者だった。近くには関神社がある。関宮の語源ともいわれる、拝殿と本殿を構えた古い神社である。母屋の隣には明治から今も続く古い酒蔵、銀海酒造がある。風太郎のエッセ―にはしばしば登場する。

(エ) 家系は出石藩の仙石騒動と関係がある。仙石騒動の主人公仙石左京の姉の夫山田八左衛門(騒動に連座、中追放となり自刃)が風太郎の祖に当たる。風太郎は、この家系については有本さんから教えられるまでは知らなかったようだ。「それにしてもあんたぼくよりぼくのこと詳しいねぇ」と有本さんはこの時風太郎から言われたそうである(もう一人の山田風太郎)。

(オ) 平成22年に角川書店と角川文化振興財団の主催による「山田風太郎賞」が創設された。今年は生誕90年にあたり、神戸で1か月間「風太郎展」が開催される。地元の風太郎記念館では7月28日の命日に「風〃忌」を営む。その際、風太郎が豊岡中学校5年生の時書いた「橘伝来記」を紙芝居にして公開される予定。また7月28日には平凡社から「別冊太陽 山田風太郎」が発行される。

                            【例会担当者】 安達、久保、福井、峠
                            【文 責】   峠 宗男
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2011年~2012年度 2月例会報告  「幻想の野鳥に出逢う!」
■□  但馬学研究会 2011年度~2012年度 2月例会報告  □■

日時:2012年2月25日(土) 12:00〜16:00
場所:コウノトリ文化館 (豊岡市祥雲寺127)
講師:松島興治郎 氏 (コウノトリ文化館名誉館長)

【昼食】
コウノトリ郷公園内コウノトリ本舗食堂。ありふれた会席料理だがお品書きにも食材の生産者の氏名が書かれており主として北但・丹後の業者がかかわっていることがわかった。



【はじめに】
縁あってこの度特別天然記念物コウノトリの人工飼育と自然界放鳥に導かれたコウノトリ文化館名誉館長の松島興治郎氏、見方を変えればコウノトリに捕獲された人間松島興治郎氏のお話を伺うことができた。十分にまとめきれていないがその内容を感想も含めて記してみた。

【コウノトリ 一口メモ】
東南アジアからの渡り鳥でアムール川流域から行き来していた。中国南東部、朝鮮半島、日本に住む。
食べ物 魚類、ヘビ、カエル、ネズミ等を食す。
生 体  全長約110cm、羽根を広げると約200cmにもなる。
     1.まれに裏返しで空を舞うことがある。
     2.大きな赤松の樹上に巣を作ることから松上の鶴と云われることが多くあった。
     3.昭和34年豊岡地方で最後のヒナが生まれた以後、繁殖を見なくなってついに滅亡へと進む。
     4.コウノトリは風上に向かって立ちすくむ。
     5.平成元年(1989)飼育25年目、初めてヒナ誕生。
     6.平成17年(2005)9月24日最初の試験放鳥5羽。



【兵庫県北部 コウノトリ生息数】(資料より抜粋)
天保年間1830~ 出石鶴山に一つがい営巣(仙石久利 絶対禁獲区とする)

明治初年頃~   鶴山付近に飛来するものあり
  25年(1892) 鶴山のコウノトリ捕獲の勅令
  27年(1894) 鶴山にひとつがい営巣
  37年(1904)   同上

大正 9年(1920)  30羽内外 3巣
  10年(1921)  鶴山天然記念物に指定

昭和 2年(1927)  11巣
   5年(1930)  100羽内外 10巣 親鳥32 ひな22
   9年(1934)  20巣 41羽
  10年(1935)  18巣 38羽
  18年(1943)  鶴山松樹伐採 19年からは1巣もなし
  31年(1956)  22羽 30年に円山川に30羽集合
  33年(1958)  10巣 21羽
  34年(1959)  11巣 20羽
  38年(1963)  14羽 文部省文化財保護委人工飼育保存決定
  40年(1965)  11羽 2羽を捕獲して人工飼育始める
  46年(1971)  野生最後の1羽が捕獲されるも死亡
  61年(1986)  捕獲飼育されていた最後の個体が死亡

平成24年(2012) 143羽(野生48羽 センター内95羽) (2月25日現在)

【捕獲したコウノトリ】(資料より抜粋)
豊岡市内
昭和40年(1965) 2月11日  2羽 豊岡市福田地内
   42年(1967) 1月11日 2羽 出石町伊豆地内
           2月1日 2羽 飼育所内(野上)
   44年(1969) 1月11日  2羽 出石町鳥居地内
   46年(1971) 4月15日  1羽 豊岡市香住地内で捕獲
          (小計)  9羽
その他での保護捕獲入数
昭和46年(1971) 2月28日  1羽 福井県武生市から
         3月1日   1羽 鹿児島県徳之島町から
         (小計)  2羽
捕獲した合計         11羽



【コウノトリ(鶴)の一声】(松島語録)
○ 昨今、自然のあり方(土水空気)をこわしているのは人間だけだ。鳥魚獣などの動物はそんなことはしていない。私はそんな人間の傲慢さは許せないと思っている。地球と云う生命共同体に優しい心で接してきた旧人類のそんな生き方に対して今後我々はどのような行動で答えていくべきか反省しないければならない。
○ 方法が分からない時は鳥に相談した。
○ 私は職人である。
○ 神の領域には手を出すな。

【質疑応答】
Q: 松島さんがコウノトリを今日まで育てられた功績の大きさは云うに及ばないが、今後どのように生きて行かれるのか?
A: 一市民として今後何が出来るか。お世話になった市民の方々に恩返しができればと思っているが、日々コウノトリの環境も変わってくる。それに対して人間が手助けをするしないと言うことに関しては肯定も否定もしない。

Q: 今までどんな思いでコウノトリと接して来たか、またそれを支えたのは何だったのか?
A: その時々の考え方を話すが、動物的な考えが下地にあったし、これはいけると思った。また引くに引けない場合が度々あったが自分の責任で行ったこともある。私はその頃から願えば叶うではなく叶うまで願う、と云う言葉を心の糧にしている。

Q: 今後野生に帰ったコウノトリが昔の様に松の樹上に巣を作ると思われるか?
A: 作らないだろう。なぜかと言うと赤松の樹が十分にない。赤松は大樹になるまでに永い年月を要する、それまでは他の樹に巣を作るしか方法はないと思える。(外国では白樺の樹に営巣している所もある。)

【あとがきにかえて】(後日余話)
○ 今回昔ながらの囲炉裏を囲んでの講演であった。体の暖は赤々もえる炭の火で心の暖は水辺で鮒、鯛、うなぎ等が体を休めるが如くにやさしく包む氏の話術で時を忘れた。これまでの道は二者択一といったそんなやさしい選択ではなく進む道は只ひとつ一所懸命(ひとつの所に命を懸けると云う意味)その仕事をするのみだったとキッパリと云われる口元からは「和して同じず」の何事にもぶれない強い姿勢が感じられる。(しかしそんな中でも母がくれたやさしさが全ての生き物に通じることが大切なんですよ、、、と云われた時はこぼれ落ちそうな笑顔であった。

○ コウノトリ人工飼育事業の 歴史的変遷、組織、予算など人間相手のわずらわしさ無責任さにも笑顔でサラット触れられた。

○ 世にこんな俗謡がある「駕にのる人担ぐ人そのまたわらじをつくる人」コウノトリ事業の一連の快挙に駕にのる人担ぐ人はわんさといる。わらじをせっせと編んできた人松島氏にもやっと陽がさした。

○ 功なり名を遂げられた氏であるコウノトリ文化館名誉館長としての処遇は至極当然で、しかし氏には尻こそばゆく迷惑であろう「やはり野に置けれんげ草」である。我々は氏と接した3時間余りで野に咲くれんげ草黙々と「わらじ」を編む氏こそが良く似合うと思った次第である。
                                                                                                     【文責:飯尾】
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2011年~2012年度 1月例会報告                              「なんとなぁ、但馬の米って、そにゃあなことでしたんか。」                   ~知られざる但馬のお米のお話あれこれ~
■□  但馬学研究会 2011年度~2012年度 1月例会報告  □■

日時:2012年1月28日(土) 12:00〜16:00
場所:但馬米穀(株) (豊岡市)
講師:下垣 巧氏
    中西 寛氏



【中西氏】
まず、昔の但馬の稲作の話。大東亜戦争が終わる頃、とにかく食べるものがなかった。
三菱で魚雷艇の新型ロケットエンジンを造っていたが、空襲で焼け、悲惨な暮らしをし
ていた。餓死寸前という状況だった。これでは駄目だという事で、農業をすることにな
った。稲作は政府の方針で、「食味」より「収量」が優先されていた。たくさんとれる
お米22号・23号・ニホンバレを作っていた。コシヒカリは後に明石の試験場で出来たも
の。

当時はまだ牛で田んぼを鋤いていた時代。牛を動かすのにも、餌を食べさせた後、
牛の反すうを待って、複数ある胃袋の最初の胃袋より二番目から後に餌が移るのを待た
なければ、お腹がぶぅっと膨らんで、死んでしまう事になった。人から牛を借りて農作
業をしたが、牛のケアを心配され、なかなか思ったように仕事が出来ず、牛を買って飼
う事にした。牛に鋤かせた土は、干からびると、土の悪いバクテリアが死んだり、土の
成分が出て、多くの肥料を必要としなかった。今のトラクターでの耕運だと、土が干か
らびないので、そんな効果が無い。

当時の日本政府からは、机上での収量予測で、一反
あたり6俵の供出を求められたが、出来ずに困った。強権発動で、ひどい目にあったこ
ともある。しかし、多くとれる年もあった。23号のお米で、一反あたり9俵もとれた場
合も。それは、肥料でも農法でもなく気候によった。お金に余裕が出来、肥料をたくさ
ん撒いた場所もあったが、稲が吸収する養分は決まっているので、肥料の撒き過ぎはも
ったいないし、稲が倒れるし、病気にもなる。また、肥料が少ないと、収量が足らなく
なる。真ん中あたりで稲作をするのが良いと、昔から聞いている。

現在の稲わらを田ん
ぼにコンバインでまくやり方をやるだけで、土は肥えていく。堆肥はムラになってまき
にくい。田んぼ全体が同じように稲が育ちにくい。

稲は自家受粉。花が咲くのもわずかに2時間程度。それも、開花時が「まん」が良く、
晴れ。植物がその時期を何故か知っている。稲は、今の多くの種子がそうであるように
F1というわけではない。自家受粉の特徴だが、何世代か同じ種籾で稲作を続けると、そ
の親の種の特徴を帯びるようになる。今のコシヒカリという品種は、収量がとれだした
後、食味が求められて出来た品種。しかし今後変わっていくと思う。但馬でも、ツヤヒ
メなどの種が多くなるのではないかと思う。

【下垣氏】
但馬の美味しいお米の条件
● 土質 蛇紋岩のある土はやはり美味しい。食味計でも、数字がでる。

● 気候 稲のでんぷん質が出来る時期に、夜の気温が25℃以下の暖かさがないといけ
ない。高いと、米が乳白米という白い状態になる。低いと不稔にも。年にもよるが、夏
の大事な時に熱帯夜が長く続くと悪い。しかし、但馬の気温差はむしろ良い。

● 水質と水温 円山川の水は、今は生活雑排水が入り込んだりして良くない。また、
六方田んぼの夏場の水温は、お湯のように高くて良くない。昔は、山田の棚田の方が美
味しくなかったものだが、温暖化も影響してか、棚田の水温が丁度良くなっている。生
活雑排水もなく、良い。神鍋や村岡などの標高が高いところが、美味しい。

農法あれこれ
V字農法 への字農法 あいがも農法と色々ある。それぞれ利点欠点がある。詳しくは
、ネットで調べる事が出来る。今の但馬では、無農薬より低農薬の方が食味は良い。

これから生き残る米農家
大きすぎる農家は、コストが合わないように感じる。小さすぎても合わない。2-3町歩
の規模が、日本の米農業に合っている。そんな農家が、但馬には多い。勘でやる農業よ
り、きちんとパソコンで計算して農業をすることが求められる。兼業農家や趣味でやる
農業は絶対に生き残る。TPPで米の関税が無くなることが考えられるが、大規模農家は
厳しいと思う。

アメリカやカナダでは日本の米が研究されていて、安いジャポニカ米が
入ってくる事は予想される。それを日本人が美味しいと思うかどうか、ふたを開けてみ
ないとわからない。日本で作る米がやはり美味しいと民衆が判断すれば、過度に心配す
ることもない。

【中西氏】
コウノトリ育む農法のお米について
豊岡市とJAの決め事に従った農法を実践し、許可を得ないと、そのブランドは認められ
ないが、農家なら誰でもブランドをとれる。問題は食味。あんなもの、美味しいはずが
ない。ブランド名が先走っている。食味は決して良いとは言えるものではない。まず、
作り方が問題。ほんとうに美味しいお米作りの条件では作っていない。野鳥などの生き
物の環境を良くするという物語があるので、それは人に伝えても良いと思うが・・・・
。(実際にコウノトリ育む農法のお米を人に食べてもらうと、ネガティブな意見が多い)

古い農家の方の意見は辛らつ。例えば、湛水にすることにより、土が乾かされて初め
て得られる養分の効果が期待できない。また、トラクターが踏み込んでしまう田んぼが
あるのも問題。このあたり、農家さんは言いたい事がたくさんあるようだが、言うに言
えない世の雰囲気だという。

JAに高く買い取ってもらおうと思えば、米の水分量を14.5%まで乾燥しないといけない
が、本当はそんなに乾燥させてしまうと、ガクンと食味が落ちる。16パーセントくらい
が良いが、それだと保存の関係か、JAは高く買い取ってくれない。

【下垣氏】
美味しいごはんの炊き方
とはいえ、但馬のお米は美味しい。ごはんの炊き方をきちんとすれば、なお美味しい。
今頃は昔と違い、精米が上手に出来ているので、ヌカがあまり着いていない。昔のよう
によくといで洗う必要はない。気になれば、ササッと洗って、冬ならせめて1時間は水
に漬けておくこと。普通の炊飯ジャーで、好みの水量で美味しく炊ける。但馬の米は但
馬の水で炊くのが美味しい。現在高額で高性能の炊飯ジャーが色々出ているが、あれは
まずいお米を美味しく炊くのには良いが、但馬の米を炊くと、表面がベチャベチャにな
って良くない。
                             【文責:岩本】
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2011~2012年度 12月例会報告
■□  但馬学研究会 2011年度~2012年度 12月例会報告  □■

日時:2011年12月3日(土)14:00〜17:00
場所:鷹野神社とその周辺・奥城崎シーサイドホテル
講師:山田寿夫(やまだとしお)氏

神誕生

 通称「猫崎半島」との付け根に『誕生』の碑が建っている。今、まちおこしの一環で「誕生の塩」が注目されている。この「誕生」の意味を探るべく山田寿夫氏にお伺いした。

 竹野駅から海岸方面に竹野川を超え、真っ直ぐ行くと、鷹野神社にぶつかる。ここに祀られている祭神こそ「誕生」の鍵を握る神(人物?)武甕槌神(タケミカヅチ)だ。彼の名は別名、建御雷男神(タケミカヅチオノカミ)または「鹿島神(かしまのかみ)」と呼ばれ、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の祭神で、また塚原卜伝が剣聖として全国に鹿島神を広めたことで今では武道の神様として知られている。

 プレヤマト王権時代、武甕槌神は経津主神(フツヌシノカミ)と共に高天原の使者として出雲へ赴き、大国主神の息子である建御名方神(タケミナカタノカミ)と戦い勝利し、これにより「国譲り神話」が出来上がるのである。

 晴れて使命を全うした武甕槌命は出雲から船で帰る途中に立ち寄ったのが猫崎半島の付け根であることから、ここが神誕生の地と言うことで「誕生」の碑が建てられた。猫崎半島というのは通称であり、本来は鹿島半島と呼ぶ。

 またこの鹿島半島の東は西風をよく防ぐので船の風除けとして、多い時は800艘もの船が係留したらしい。それほどの良港なので北前船の寄港地として栄えたのだとか。
また「誕生」の碑の裏には「誕生之浦」と書かれているが、山田先生によると本来は「神誕生之浦」と書かれるべきだったと話されていた。

 この他にも、鷹野神社に纏わることやら竹野の歴史を沢山お聞きしたのだが、今回は「誕生」に絞って報告させて頂いた
以上

文責 太田伸吾












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2011~2012年度 但馬学11月例会報告                           「へぇー、ほぉー、笑いと涙の香味煙物語」 ~ 村岡名物おじさんのしゃべりが炸裂~
日時:2011年11月26日(土) 13時30分~16時
場所:兎塚地区公民館

テーマ :  「 へぇー、ほぉー、笑いと涙の香味煙物語」 
        ~ 村岡名物おじさんのしゃべりが炸裂~


講師:生活工房香味煙 煙長 井上利夫さん

 最近「おはよう朝日です」に出た。すると電話とファックスがたくさんきた。普通は1月2月は仕事がないが、2月まで注文がある。
家の中では、これでいいのだ、としている。味噌汁が水くさくてええなぁ、しょっぱくてええなぁ、眉間に皺が寄ってええなぁ、と言って会話を楽しもうと思っている。



  学校卒業後に大阪の茨木に就職したが、親父の養鶏を継ぐために田舎に帰ってきた。養鶏は借金ばかりで、いったん借金の歯車に入るとどうしようもない。死ぬかとんずらするか考えたが、お金を追及する人生のむなしさ、はかなさに気がついた。死ぬのをやめて、人がやっていないハムづくり、燻製づくりに向かった。但馬でハム・燻製づくりは僕が初めてだ。「食が変われば経済が変わる」という高校の時の先生の言葉が蘇ってきて、取り組み始めた。

 しかし、売れなかった。味もしっかりしていない。それでも今日に至っている。やってよかった。死ぬほどの思いは必要だったと思う。但馬は燻製に適したところだ。また、但馬は各地に村が点在しドイツとそっくりだと言う人もいる。

 今、一番僕が一生懸命やっていることは「癒しの森」構想だ。そして、「ハーブ アンドスモーク」。ハーブ園を経営して高校生とハーブと煙で満たしたい。100年かかるかもしれないが、生徒にも日当を与えて一緒に検討する。(今、有害鳥獣が課題となっているが)鹿が近寄らない、ぶとが近寄らない、ムカデが近寄らない、蛇が近寄らないハーブなど、様々なハーブがある。また、心に病んだときにはハーブティーがいいし、胃や腸がおかしいときにはハーブで癒す。

但馬をハーブで満たしたい。その間にスモークが点在する。
癒しの森は、金儲けするかどうか分からん感じでやる。但馬は、真面目だけどがつがつしすぎだ。儲けとるか、儲けなあかん、が(商売人の間の)挨拶になっている。しかし、病院や行政に対してこのような挨拶はしない。使命感があるということだろう。
人が喜ぶものを出さないといけない。

 山でも鹿でも利用したらいいが、町会議員や市会議員に頼ったらあかん。自分ですることだ。行政に頼ってもあかん。頼るから文句をいいたくなる。補助金をもらわずにやるのだ。県の部長や県民局長に宣伝のお願いはするが、補助金はいらん、見つめてください、と言っている。自分の人生だから自分でする。頼らない。

 学校の先生にも優秀な人間はいらんと言っている。落ちこぼれを送ってくれれば、学校・家庭で教えてくれないことをする。
 但馬中が色とりどりのハーブの香りと色があればすごいことだ。輸出もできる。サフランは花びら一枚3000円する。難しいからするのだ。ピーマンは簡単にできるが、儲からない。難しいから儲かる。1個5000円のメロンなどいいものを研究する。但馬牛は高価な餌がいるが、もっと安上がりで高級品を作るのだ。

 この話をしていたら、養父市の市長、副市長、農林課長がある晩に来た。大屋に第2香味煙を学校か養蚕の廃屋のどちらかに作らせてもらう、必要な資金は市が出す、と言ってきた。今の構想は、燻製大学、燻製道場を作ろうとするものだ。
香美町は反応がない。町長・町議も関心がない。銭がないと言うが、銭がなければ作れ、知恵がなければ出せ、と言っている。

 大切なのは情熱だ。落ちこぼれと一緒にバーと来年やる。例えば、ミントは鹿がきらいだ。ムカデや借金取りが近寄らないハーブがある。借金取りは儲けたら来ない。
但馬を天国みたいなところに変えよう、と思ってから楽しい。

 県の農政環境部長には宣伝をしてくれ、製薬会社や化粧品会社、百貨店をつないでくれと言っている。
 但馬がおしゃれでかっこいい、としたい。そして、視察に来てもらう。
観光型ハーブ園をすると言ったら、同級生や恩師から田んぼ(を貸してやろう)の声がかかっている。

来年から香味煙を株式会社にする。そして、必要な資金以外は、すべて従業員にいい目をさせる。従業員はベンツ、社長は軽トラとしたい。
 続いて煙の話だが、食物のすごさは木ごとに煙が違うということだ。うまく組み合わせたのが燻製。美しい花や葉っぱは心をいやす香りのいい煙だ。リンゴのような果物は、何とも言えない甘酸っぱい煙だ。栗は苦みがある。
今度、煙の不思議をご覧にいれよう。

 そして、水戸黄門の話。水戸黄門は自国を周る前に助さん格さんに宿を調査させたという。夫婦仲のいい旅館、店主と従業員の仲がいいところを選んだという。
 続いて武田信玄の話。彼は燻製の名人だ。戦いを制する人は食を制する。戦をするには、腸を活性化する食物が必要で、これが脳を活性化し、決断ができるのだ。梅干を燻製にしておにぎりにし、味噌をくるんで燻製にする。これが意思の力、直観力を育てる。梅干の燻製、味噌の燻製は400年前からあり、今でも食べられる。賞味期限をつけないといけないときに400年とつけようとしたら、保健所につけてくれるなと言われ、12か月とした。先を見通すためには過去を見ないといけない。



 質疑応答
質問)畜産のものと野生のものとどちらが多いか。
答え)豚、鶏が多い。
鹿肉はものすごくきれいで、C型肝炎はない。豚・牛にはある。山の木など健康食を食べているようなものだからだろう。
野生は鹿のみだ。だが、商売にならない。イベントやサンプルのみやっているだけで、力をいれるものではない。
質問)ハーブの用途は。
答え)瓶詰め、袋詰め、お香、お風呂に入れるものなど。収益性の高いものを作っていかないといけない。
質問)ハーブ アンド スモークでハーブとスモークの関係は。
答え)ハーブ園の中に工房を作っていく。燻製やハム、ソーセージにハーブを利用する。但馬農高とハーブをまぶしたチキンの燻製を作った。おしゃれな農業にして若者が帰ってくる形を作りたい。
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