但馬学研究会 2010~2011年度 9月例会報告 竹田城を見直す~羽柴秀長の但馬侵攻 ~
□ 但馬学研究会 2010~2011年度 9月例会報告

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竹田城を見直す~羽柴秀長の但馬侵攻 ~

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日時: 平成22年9月25日(土)12:00~
場所: 山城の郷(朝来市和田山町殿新井土13-1)
講師:足立裕(あだちゆたか)氏 (但馬史研究会会長)
朝来市和田山町竹田417 079-674-2751
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はじめに
「竹田城を見直す」というタイトルで約1時間半、足立先生のお話を伺った。
冒頭に但馬史は中央史と密接な関係があることを、森尾古墳、池田古墳、応仁の乱、生野の変などの事例をもとに話された。
全体を通じて感じた事は、竹田城の歴史を再認識する事は、但馬の歴史を再認識することにもつながるということであった。
以下は先生のお話を、提供して頂いた資料をもとに、その内容をまとめたものである。

竹田城興亡史
竹田城は353メートルの山頂に築かれた山城で(虎臥城)とも言われる。
太田垣氏 7代 130年余
羽柴秀長    3年
桑山重晴    5年
赤松廣英     15年
地元には室町時代の1443年に山名宗全が13年かけて築城したという言い伝え(口碑)が残っている。最近の研究では、この時代には総石垣で天守をもち縄張りのこれほど整った城はなく、今見る竹田城は織豊時代の山城としての最終形態のものであるとみられている。

太田垣氏の時代
山名氏の四天王といわれた太田垣氏の居城となる。嘉吉3年、1443年の築城(口碑)であるならば、その2年前には嘉吉の乱があり、播磨の赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、領国播磨に帰り立てこもった。細川、山名軍は、この討伐に向かい、満祐は城山で自刃した。山名軍は但馬から生野峠を超えて播磨に入ったが、完成間近の竹田城は、その事件にかかわりをもっている。その後、赤松復興にからみ、生野峠付近で赤松軍と山名軍は何回か交戦している。

羽柴秀長の時代
天正5年10月、羽柴秀長は生野銀山、朝来郡、養父郡を攻略。今までは(信長公記)天正5年10月28日が基礎となり、羽柴秀吉の侵攻となっていたが、この時は秀吉は西播の上月城(赤松政範)を攻めていて、三日月に布陣しており、但馬には入っていない。前野家文書には、その時、加古川で行われた軍議のなかで、秀長の但馬進攻の状況が記録されている。(後述参照)

桑山重晴の時代
天正8年桑山重晴竹田城主となる。
天正13年桑山重晴和歌山に転封。桑山氏については「藩翰譜」(新井白石)によっているが、竹田地区には具体的な史料はほとんどない。重晴は、各地の城攻めに参加していて、竹田城にはほとんど在城していなかったと思われる。重晴の子供の過去帳、五輪塔が竹田に残っている。

赤松廣通(廣英)の時代
天正5年10月羽柴秀長が南但馬を攻めた時従軍していた。その後、秀長について各地の城攻めに参加していた。
天正13年竹田城主となる。朝鮮出兵、慶長の役、慶長5年(1600年)9月関ヶ原の戦には、西軍として丹後の田辺城(細川藤孝、幽斉)を攻める。(但馬の大名も田辺城攻めに参加)
慶長5年10月亀井茲矩からの要請を受けて、鳥取城宮部善祥房を攻め、その時の兵火が城下に移り、多くの民家を焼く。その責により慶長5年10月28日、鳥取真教寺で切腹、竹田城廃城となる。

竹田城の落城前後
吉田家(前野家)文書、昭和34年(1959年)9月26日伊勢湾台風の時、愛知県江南市吉田家(前野家)から発見された文書には、秀長が但馬攻めした時のことが詳述されている。
関係部分を抜粋して次に書く。

「但州竹田城主太田垣土佐守高所ニ城ヲ築キ立向イ候。御大将羽柴小市郎殿人馬之息不休逃集之一揆輩悉く切崩し追討在在火ヲ放竹田之城寄懸候処高山険祖ニ拠岩石投ゲ落シ手向イ候。寄手之面々不為物山谷打越諸手ヨリ鉄砲三百挺筒先相揃ヘ討入申候得バ遂不叶向降参城明退渡候也(以下略)」

羽柴秀長の南但馬侵攻
播州国府に集結天正5年10月30日(現行歴12月19日)赤松廣秀の合力総勢約4,000人生野峠より但馬に侵入。
岩州城攻め  11月1日(12月20日)―両日を待たず
竹田城攻め 11月2日(12月21日)
太田垣輝延 11月3日(12月22日)
11月2日(12月21日)「両3日」
11月3日(12月22日)
11月4日(12月23日) 


但馬の動向 天正5、6年
天正6年1月、羽柴秀長竹田城で越年。
前野長康岩州城で越年。生野銀山の採掘。
各武将それぞれ但馬で年を越し、占領地を固める。

羽柴秀吉(天正6年7月)
竹中半兵衛を伴って竹田城に来る。約1ヶ月滞在する。

藤堂高虎(天正6年12月)
前野九郎兵衛、丹羽寛左衛門等、鉄砲50丁、玉薬5駄分、竹田城に運び込む。

羽柴秀長の北但馬侵攻
天正8年4月、羽柴秀長北但馬を攻める。総大将羽柴秀長、先陣宮部善祥坊、前野長康、加藤作内、青木勘兵衛、藤堂与右衛門、堀尾茂助、山内猪右衛門ら総勢6,400有余人。出石、有子山城は一戦も交えず明け渡す。

竹田城周辺あれこれ
・羽柴秀吉は播州の国がほしかったのだが、戦争をして得るのでなく調略によって得たいと考えた。その調略役を命じられたのが黒田官兵衛であり、大いに貢献した。(注)調略とは戦争はせず、話し合いによって解決する事。仮に1万人の軍勢がいたとすれば、1人につき1日5合の米を食すとしても、1日に125俵(7.500kg)が必要となる。戦争をして多くの人、馬等の命を落とす事を考えるならば、もっとも平和的な戦法だと考えられる。
・羽柴秀吉や秀長の戦の勝因は鉄砲があったからだ。
生野銀山は大切な山である。そのため銀山で働いている人は殺してはならぬと命じている。(秀吉の御諚)
その後秀吉は天正5年に織田信長の安土城に生野の銀350貫目(約1300kg)贈った。信長は大いに喜んだ。
生野には堺の商人が入っていて、茶人津田宗及と云っているが、実は武将であったのではないかとも云われた。他にも千利休クラス(政治に通じている人物)がいたようだ。
・生野には個人蔵ではあるが雪舟(室町後期の水墨画の僧)の三幅対があると云われている。その画が国立美術館から修復の際に借用させて欲しいとの申し出がある。その他、池大雅や、平野国臣などの出入りもある。
・竹田城は400年の石垣に苔(ヒヨリゴケ)や蔦(チョウジュヅタ)が生えていたが、町教委が除草剤を散布して、ダメにしてしまった。


質疑応答
(Q)当時武士はどのように暮らしていたのか。
(A)その頃は平農分離ではなかったので、平時は武士も百姓等をしていた。

(Q)竹田城攻め当日は雪が降っていたと考えるが、降っていたか。
(A)その日は降っていなかった。(11月25日は降っていた。)

(Q)私たち但馬学研究会で今後地域史では何を学べばよいか。
(A)古墳地代、特に出石、但東、和田山を主に(50mクラスも各地に多くある)、古代の山陰道も調べてみられたらこれも面白い。

(Q)江原近くにも城があって、攻めを受けた。しかし口碑では、秀吉が攻めたと云っているが、それは秀長であったのか。
(A)その通り。

(Q)竹田城といえども3,000人の武士は生活できないと思われるが、他の人はどこで生活していたのか。
(A)城近くの土地で生活していた。その地も今は払い下げを受け、個人所有となっている。


時間的制約があり、質疑応答は短時間しか取れなかった。閉会後、メンバーからは、講師が竹田城の地元の人なので、城をめぐる伝承や生活のしきたりなど、現在にも生きている事柄なども教えて欲しかった、との声もあったことを付記しておく。
(報告者:飯尾、校正:峠)

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