2010年~2011年度3月例会報告『「但馬のくみ」か「丹後のくみ」か』~「一遍聖絵」を中心にして~
日時 : 2011年3月26日(土)     12:00~16:00
場所 : 立誠舎(養父市八鹿町八鹿610番地)
講師 : 大森惠子氏(日本民族学会評議員、説話・伝承学会委員、旧浜坂町出身)

《会場について》
 大森先生のお話の前に、会場である立誠舎の改修に奔走された八鹿地区自治協議会会長山根功暉氏から、その概要について説明を受けた。立誠舎は、但馬聖人池田草庵が開いた幕末の漢学塾で、後の青谿書院の前身施設である。池田草庵は、いずれ当会としても人物シリーズで是非とも取り組みたいテーマでもあり、今回はその予告編として位置付けている。なお、山根氏には、会場の無償提供や奥様までお手伝いをいただくなど多くのご配慮をいただいたことを附記し、感謝申し上げたい。

《予備知識として》
 この例会報告を初めてお読みいただく方には、若干の予備知識があった方が分かりやすいと思い、2点ばかり解説しておくこととする。(出典:角川日本史辞典)
① 一遍 鎌倉時代の僧。時宗の開祖。伊予の豪族河野通広の子。各寺で修行、巡拝して他力念仏の確信を深め、勧進帳と念仏札を携えて、死に至るまで全国各地を念仏遊行し250万人に結縁、世に遊行上人といわれる。その間、宗教的感興にまかせて踊念仏を勧め、特に農民・漁民などの尊信を集めたが、同時に禅的傾向をも有していたため、武士層もまた一遍に近づいた。
② 一遍上人絵伝(一遍聖絵) 絵巻。時宗の開祖一遍の教化遍歴の生涯を描いたもの。(中略)伝記としても、芸術的にも歓喜光寺本がすぐれ、特に自然描写は宋元画の描法を摂取して傑出、鎌倉時代、社会・風俗研究の好資料。

《但馬のくみか丹後のくみか》
 さて、本論である。何ともミステリアスなタイトルで、門外漢の私は「くみ」は「くに」の間違いではないか、失礼ながら大森先生たる方が何というミスをされるのかと思った。   
しかし、周到で豊富な資料をいただき、お話をお聞きするにつれ、私の不明を認識するに至った。素人とはいえ汗顔の至りである。

 学問というものは、謎解きだと思ってきたが、民俗学もとりわけ大森先生の歴史民俗学の系統のなかでは、資料で検証し、現地で確認し、頭であれこれと想定していく時間のかかる世界だと思った。それだけに謎が解けだしてきた時は雀踊りし、まして学会で一定の評価を得られるとなるとそれこそ研究者冥利に尽きるだろうなと感じた。

『一遍聖絵』のなかの「くみ」の地と龍の宗教性

◇『一遍聖絵』のなかの「くみ」の地
 
1 「丹後の久美」と「但馬のくみ」をめぐる諸説

 一遍聖絵 第八の中で、『(前略)「同八年五月上旬に丹後の久美の浜にて念仏申給けるに、龍なみの中より出現したりけり。(中略)又同年但馬国のくみといふ所にて、海より一町あまりのきて道場をつくりたりけるに、おきのかたより電のするをみ給て、龍王の結縁にきたるぞとの給て(中略)因幡国をめぐり給けるに、或老翁結縁のこころざし(後略)』の記述がある。この下線を引いた箇所が今例会のメインタイトルの元になっている。

 さて、この一遍聖絵に記載された道場所在地「久美」と「くみ」はどこか。①「但馬国」は「丹後」国の書き間違いで、2か所とも丹後国の久美浜とする説、②但馬国の時宗寺院として有力な竹野町竹野の興長寺とする説、③「但馬国のくみ」は「但馬国のいぐみ」と仮定する説などがある。結論としては、「丹後の久美」は今の京丹後市久美浜の浦明(うらけ)であり、「但馬のくみ」は現在の新温泉町居組だろうと大森先生は言われる。

 2か所とも丹後国とする説はご当地思いのご愛嬌のようであるが、「又同年但馬国の…」と「又」とあるので、丹後以外の地を指すと思われる。しかし丹後の久美の浜は間違いなく丹後の国だろう。竹野の興長寺は古来、但馬の有力な時宗寺院で今なお現存しているので、同寺所在地を「但馬のくみ」などと誤記することは考えられないので採らない。大森先生の恩師五来重氏が地名と竜神の祠をもとに、新温泉町の居組と推定されているが、この説に同意したいと先生は言われる。

 中世の丹後国における時宗の道場

 宮津市妙立寺は、貞和以降天文のころまでは遊行派に属する「橋立の道場」だったと推定されている。同寺の厨子裏屏風腰板部分には、丹後の久美浜の東側に当たる浦明に「臨阿弥陀仏」の法名を名乗る宗教者が存在し、浦明に念仏の道場があったことが明らかになった。つまり、天橋立道場と久美浜の浦明道場の交流から、文殊菩薩が教化した竜神の説話伝承も久美浜へ伝播されていったと思われる。

 中世の「丹後国の久美」の地と「但馬国のくみ」の地

丹後国の久美浜
 京丹後市久美浜町。丹後国の西端、但馬国との境界線に該当する地域。古代は「久美郷」中世には「久美庄」と記録されている。京の長講堂(後白河法皇の御所六条殿内の持仏堂)の所領だった。久美庄には「十楽」の地名もあり(今でもある)港町として楽市楽座が存在していたことが窺え、陸路、海路の交通の要地だった。。

但馬国のくみ
 居組は鎌倉時代は京都の長講堂領大庭庄の一部に該当。「但馬国太田文」には「伊含浦」とある。居組の浜辺に道場があった史料はないが、丹後国の久美浜も但馬国の伊含も、鎌倉時代には京都の長講堂の所領であったことから、「伊含」と時宗の道場があった久美浜の浦明との間で交流があった可能性も考えられる。居組は因幡国に隣接する港である。弘化2年(1845)「但馬国村々船往来運上取立一村限帳」(久美浜 東稲葉家文書)によると、但馬国村々の廻船数が記録されており、竹野の56艘に次ぎ居組の24艘が第2位であった。今日の居組港の状況から考えると、近世末期に廻船の出入りで賑わった港とは到底想像できないが、「一遍聖絵」巻八に描かれた「くみ」の地が居組であった可能性がある。

ここまでの報告者(峠)の感想
 聖絵の作者は「但馬国のくみ」と書いただけで、これだけ後世に話題を提供しているとは思いもしないだろう。「くみ」=「居組」に至る研究者たちの研究の足どりが分かった。講義をお聞きしながら、私も貧弱ながら想像力が湧いて、当時「居組」「伊含」は公式には「いくみ」と発音するのだが、普段は「い」を省略して「くみ」とか「ぐみ」などと発音していたのかも知れないなどと思った。

◇「一遍聖絵」のなかの龍と踊り念仏

1 「九世戸縁起)の中の文殊菩薩と龍

 なぜ「一遍聖絵)の丹後の久美の浜にまつわる詞章で、一遍上人の前に出現した龍が語られ但馬のくみの浜の場面に龍が描かれたのか。宮津市字文殊の智恩寺が所蔵する「九世戸縁起」では、天橋立における文殊信仰について説いている。風雨を生じ、海難事故を引き起こすのは龍神が暴れるからだと信じられていたが、文殊菩薩がその龍神を鎮め海の安全を保障した霊験譚である。丹後には文殊信仰に関わる伝承地が多い。

2 文殊・善光寺・薬師の各信仰と龍宮の龍神・龍王

 文殊菩薩は、龍王(龍神)や龍女(乙姫)を鎮める功徳を持つ仏、海上交通の安全祈願に霊験あらたかな仏として信仰されていた。再度、海難を引き起こす龍神に戻らないように、一万巻のお経を納めて祈願した場所を「経ケ岬」と呼ばれている。また、丹後久美浜付近は古くから浦島伝説が流布している。興味深いことに、但馬の居組周辺もそうである。

3 葬具の龍頭に見られる宗教性

 但馬や丹後地方では、葬列の葬具である龍頭(たつがしら)は木製の龍の頭に紙製の舌や胴体を張り付けたものを親族が手に持って野辺送りをする。五来重氏は、龍頭は死者の霊が浮遊しないように、この中に納めておく容器ではないかといわれている。つまり龍(龍宮の主である龍王)は「霊」を象徴したものである。
 次に中世の面影を残す但馬海岸部の墓地についてみると、海辺に埋め墓、高所に詣り墓を持つ両墓制があった。海辺に遺体を埋葬する。時には遺体が海に流されることもあろう。漁場では遭難することもある。だから現在でも漁村地域では海上・海中他界信仰が盛んである(大森先生は、いくらあの世でも空気がないと生きていけないので岩のトンネルの底の世界::岩中他界と造語されている)。この宗教観念が中世でも存在していたので、「一遍聖絵」に描かれたような一遍上人や時衆が海中に足を浸した状況で、空中に出現した龍のために一心に踊り念仏を修し、龍の供養を行っている姿が描かれたといえよう。
                              
                                    【文責 : 峠 宗男】

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2010~2011年度 10月例会報告 「伝統野菜から新野菜まで ~ 気比をこよなく愛する若者の挑戦 ~」
■□ 但馬学研究会 2010~2011年度 10月例会報告

──────────◇◆ テーマ ◇◆────────────────────────

伝統野菜から新野菜まで ~ 気比をこよなく愛する若者の挑戦 ~

気比の野菜は有名で、豊岡の青空市場や、城崎温泉、丹後民宿街の野菜供給地となっている
特に里芋は絶品で、昔から受け継いできた種芋は気比の宝だ
なぜ気比の根野菜は美味しいのだろうか、それは・・・

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日時: 平成22年10月23日(土)12:00~
場所: ファームハウスのの花(豊岡市気比2373 tel 0796-28-3237)
http://www.nonoka.org/(音が出ますので注意してください)

講師: 留田幸大(とめだゆきひろ)氏 (ハッピーベジタブル代表・野菜アーチスト)
http://tano41.com/yasai/

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●食事でも留田さんの作っている野菜が使われました
・皮付き孫芋(里芋)の煮物
・焼き白ナスと小芋(里芋)、味噌添え
・ほうれん草のカルボナーラ
・サツマイモ(紅芋)ご飯
・サツマイモのヴィシソワーズ



●はじめに
「虫食いの見た目の悪いサツマイモ」と「見た目のきれいなサツマイモ」みなさんならどちらを買いますか?(2種類のサツマイモの袋を掲げて)と質問。見た目のきれいな方に多数の手が挙がる。「…後でもう一度聞きます」。

●農業に取り組むまで
昭和53年、気比生まれ。大学時代は地元を出ていたが、帰郷して就職。郵便局や販売の仕事などを経験した後、2007年頃より野菜作りを始めた。もともと親戚が農業をしていたため、その畑仕事を手伝うなど、幼い頃から畑仕事は身近なものだったが、子供に手伝えることと言えば、苗を運ぶ、穴のところに配置する、草刈りなど単純で簡単なことばかり。農業はそういう地道な作業の積み重ねなのだけれど、飽きてしまうこともしばしばだった。子供の頃、浜のほうにある畑に一人残されて草刈りを命じられたことがある。それは、大変心細かった思い出として強く心に残っている。だから草刈りは今も嫌い。

何をしようかと迷っていた時期、すぐそこに畑があった。それが農業を始めたきっかけ。親戚が農業をしていたので、支柱などの資材類を用意したり、農機具を買ったりという初期投資が少なかったのもよかった。また、自分で何かビジネスをやりたいという思いもあった。種をまき、水をやって自分が丹誠込めて育てた野菜。それなら他人が作ったものより自信を持って売れる。農業を始める前に経験した仕事も、いまの仕事に活かされている。



●気比野菜の魅力
「気比と聞いて、みなさんは何をイメージしますか?」参加者より「銅鐸、海岸、歌人、砂、湿地」などがあがる。
やはり気比の野菜の特徴は、砂地で作られること。砂の成分が多いと何が良いのか?乾燥に強い野菜が作れる。砂地では水をやるとスーッとすぐにしみ込み、乾くのも早い。肥料は効きやすいが、抜けるのも早いので、こまめにやらなければならない。
大根はエジプト、トマトはアンデスの山奥が原産。それぞれ祖先を辿ると、その野菜がおいしく作れる環境がわかってくる。

気比で受け継がれている伝統野菜に「里芋」がある。
冷めてもしっとりとして、もちもちしておいしい。夏の間、土の中で過ごし、親芋の周りに小芋、そのまわりに孫芋ができる。来年用の種芋としても使える。里芋は夏場に雨が降らないと大きくならない。作物は7年くらい経つとその土地に合った性質に変わり、その後はそれが遺伝していく。土地の性質に左右されるので、同じ種で作っても、同じ味にはならない。土地の恩恵を受けて、その土地に適したものに変わっていく。

サツマイモは冬を越し、あたたかくなったら土に植える。自分のところで種芋を作っているところはどんどん少なくなってきている。何という品種か?と聞かれることがあるが、品種はわからない。種芋を使って代々作り続けている芋の場合は、「○○さんちのサツマイモ」としか言えない。

白ナスの種は種屋では売られていない。熟すまで放置して、種を取って増やしていく。皮が弱く擦れるとすぐに痛むため、店頭に並びにくい野菜。野菜はスーパーで売るのに適したものだけが大量に流通していると思う。品質がそろわないと市場には出せない。売れない野菜は作らないという農家が増えてきている。

異なる品種同士を掛け合わせて作った交配種は、親の長所を受け継いだ種ができる。形がそろう・虫に強い・日持ちする・病気に強いなど、市場に受け入れられやすい長所をもつ野菜を、交配種なら作ることができる。ただし、交配種は3代目になると隔世遺伝して先々代の性質が出てしまう。そのため、交配種は種屋から買わなければならない。交配種以外の種がない。

伝統野菜は店頭に並びにくい。消費者のニーズが野菜の見た目がきれいかどうかにある。売れるか・売れないかは見た目で決まる。それがわかってきたので、種屋から交配種を買って売れる野菜を作るか、自家製の種から不揃いの野菜を作るかジレンマに陥っている。
気比で作りづらいものは作っていないからよく知らない。ゴボウ・ニンニクなどは粘土質の方がよい。

●農村の変化
農作業従事者の多くは、おじいちゃん・おばあちゃん世代。気比では30代で農業をしているのは留田さんただ一人。昔は畑だったところが、草むらになっているということが年々増え続けている。畑に人は来なくなったが、夜になると鹿の群れがやってくる。森林守り隊によって鹿が人里へ出てこないようにする森の整備なども行われているが、イノシシや鹿が出てくる。
畑を荒らして困るので、ワナ猟免許を取得した。これでワナを仕掛けることができるようになった。けれど、鹿やイノシシを処分できる資格ではない。猟友会に入会するのも諸処の事由で難しい。鹿やイノシシは柵を壊してまで畑へ侵入してくる。捕獲できるようにするための手続きが厳しく、結局は獲れないので、今は柵を作って侵入を防ぐしか対策がない。

●農業で大変なこと
天候に左右されること。今年は秋に入っても暖かい日が続き、夏の終わりに蒔いた葉もの野菜が育たない。春と勘違いしたのか、レタスは花が咲いてしまったので、売り物にならない。ホウレンソウなどはシーズンだが、暖かいと葉が白くなるベト病が出る。
病気をいかに防ぐか?病気の初期段階で処置するために、必要に応じて農薬を使用している。野菜に対しての農薬回数は決めていて、木が元気な野菜を作るように心がける。だから無農薬野菜ということでは競っていない。

交配種なら肥料をやればどんどん育つ。けれど病気には強くない。農薬を使う前提で作られた種なのだと思う。
他との差別化を図るために、西洋野菜などの珍しい野菜を作ることにした。スパイラル、ホースラディッシュ、ポロネギ、西洋ゴボウなどがそれだ。知らない野菜に、消費者の反応はいまいち。食べ方がわからないから取っ付きにくいということもあり、食べ方も教えながら販売する。

一方、ホテルやレストランではこれらの野菜の受けがいい。地元の食材にこだわるという世間の流れも後押し。地元農家で珍しい野菜を作るところが少ないため、需要がある。外国の種なので、育てるのは試行錯誤の連続だ。もちろん交配種ではないので、大きさや出来もまちまちなものになる。
野菜そのもの+ストーリーを大事にしてきた。野菜作りを始めた頃は、「僕農人(ぼくのーと)」という冊子を作り、どんな気持ちでその野菜を作っているのかを書いていた。今はブログでも情報発信している。



●現地視察へ。留田さんの畑を見て回る。

現地視察後は留田さんの野菜直売会。里芋・大根・サツマイモ・白ナスなどが並ぶ。
見た目のきれいさよりも、生産者のストーリーに触れたことが、この日の購買意欲に大きく影響していた。
(報告者:西躰)

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但馬学研究会 2010~2011年度 9月例会報告 竹田城を見直す~羽柴秀長の但馬侵攻 ~
□ 但馬学研究会 2010~2011年度 9月例会報告

──────────◇◆ テーマ ◇◆───────────

竹田城を見直す~羽柴秀長の但馬侵攻 ~

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日時: 平成22年9月25日(土)12:00~
場所: 山城の郷(朝来市和田山町殿新井土13-1)
講師:足立裕(あだちゆたか)氏 (但馬史研究会会長)
朝来市和田山町竹田417 079-674-2751
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はじめに
「竹田城を見直す」というタイトルで約1時間半、足立先生のお話を伺った。
冒頭に但馬史は中央史と密接な関係があることを、森尾古墳、池田古墳、応仁の乱、生野の変などの事例をもとに話された。
全体を通じて感じた事は、竹田城の歴史を再認識する事は、但馬の歴史を再認識することにもつながるということであった。
以下は先生のお話を、提供して頂いた資料をもとに、その内容をまとめたものである。

竹田城興亡史
竹田城は353メートルの山頂に築かれた山城で(虎臥城)とも言われる。
太田垣氏 7代 130年余
羽柴秀長    3年
桑山重晴    5年
赤松廣英     15年
地元には室町時代の1443年に山名宗全が13年かけて築城したという言い伝え(口碑)が残っている。最近の研究では、この時代には総石垣で天守をもち縄張りのこれほど整った城はなく、今見る竹田城は織豊時代の山城としての最終形態のものであるとみられている。

太田垣氏の時代
山名氏の四天王といわれた太田垣氏の居城となる。嘉吉3年、1443年の築城(口碑)であるならば、その2年前には嘉吉の乱があり、播磨の赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、領国播磨に帰り立てこもった。細川、山名軍は、この討伐に向かい、満祐は城山で自刃した。山名軍は但馬から生野峠を超えて播磨に入ったが、完成間近の竹田城は、その事件にかかわりをもっている。その後、赤松復興にからみ、生野峠付近で赤松軍と山名軍は何回か交戦している。

羽柴秀長の時代
天正5年10月、羽柴秀長は生野銀山、朝来郡、養父郡を攻略。今までは(信長公記)天正5年10月28日が基礎となり、羽柴秀吉の侵攻となっていたが、この時は秀吉は西播の上月城(赤松政範)を攻めていて、三日月に布陣しており、但馬には入っていない。前野家文書には、その時、加古川で行われた軍議のなかで、秀長の但馬進攻の状況が記録されている。(後述参照)

桑山重晴の時代
天正8年桑山重晴竹田城主となる。
天正13年桑山重晴和歌山に転封。桑山氏については「藩翰譜」(新井白石)によっているが、竹田地区には具体的な史料はほとんどない。重晴は、各地の城攻めに参加していて、竹田城にはほとんど在城していなかったと思われる。重晴の子供の過去帳、五輪塔が竹田に残っている。

赤松廣通(廣英)の時代
天正5年10月羽柴秀長が南但馬を攻めた時従軍していた。その後、秀長について各地の城攻めに参加していた。
天正13年竹田城主となる。朝鮮出兵、慶長の役、慶長5年(1600年)9月関ヶ原の戦には、西軍として丹後の田辺城(細川藤孝、幽斉)を攻める。(但馬の大名も田辺城攻めに参加)
慶長5年10月亀井茲矩からの要請を受けて、鳥取城宮部善祥房を攻め、その時の兵火が城下に移り、多くの民家を焼く。その責により慶長5年10月28日、鳥取真教寺で切腹、竹田城廃城となる。

竹田城の落城前後
吉田家(前野家)文書、昭和34年(1959年)9月26日伊勢湾台風の時、愛知県江南市吉田家(前野家)から発見された文書には、秀長が但馬攻めした時のことが詳述されている。
関係部分を抜粋して次に書く。

「但州竹田城主太田垣土佐守高所ニ城ヲ築キ立向イ候。御大将羽柴小市郎殿人馬之息不休逃集之一揆輩悉く切崩し追討在在火ヲ放竹田之城寄懸候処高山険祖ニ拠岩石投ゲ落シ手向イ候。寄手之面々不為物山谷打越諸手ヨリ鉄砲三百挺筒先相揃ヘ討入申候得バ遂不叶向降参城明退渡候也(以下略)」

羽柴秀長の南但馬侵攻
播州国府に集結天正5年10月30日(現行歴12月19日)赤松廣秀の合力総勢約4,000人生野峠より但馬に侵入。
岩州城攻め  11月1日(12月20日)―両日を待たず
竹田城攻め 11月2日(12月21日)
太田垣輝延 11月3日(12月22日)
11月2日(12月21日)「両3日」
11月3日(12月22日)
11月4日(12月23日) 


但馬の動向 天正5、6年
天正6年1月、羽柴秀長竹田城で越年。
前野長康岩州城で越年。生野銀山の採掘。
各武将それぞれ但馬で年を越し、占領地を固める。

羽柴秀吉(天正6年7月)
竹中半兵衛を伴って竹田城に来る。約1ヶ月滞在する。

藤堂高虎(天正6年12月)
前野九郎兵衛、丹羽寛左衛門等、鉄砲50丁、玉薬5駄分、竹田城に運び込む。

羽柴秀長の北但馬侵攻
天正8年4月、羽柴秀長北但馬を攻める。総大将羽柴秀長、先陣宮部善祥坊、前野長康、加藤作内、青木勘兵衛、藤堂与右衛門、堀尾茂助、山内猪右衛門ら総勢6,400有余人。出石、有子山城は一戦も交えず明け渡す。

竹田城周辺あれこれ
・羽柴秀吉は播州の国がほしかったのだが、戦争をして得るのでなく調略によって得たいと考えた。その調略役を命じられたのが黒田官兵衛であり、大いに貢献した。(注)調略とは戦争はせず、話し合いによって解決する事。仮に1万人の軍勢がいたとすれば、1人につき1日5合の米を食すとしても、1日に125俵(7.500kg)が必要となる。戦争をして多くの人、馬等の命を落とす事を考えるならば、もっとも平和的な戦法だと考えられる。
・羽柴秀吉や秀長の戦の勝因は鉄砲があったからだ。
生野銀山は大切な山である。そのため銀山で働いている人は殺してはならぬと命じている。(秀吉の御諚)
その後秀吉は天正5年に織田信長の安土城に生野の銀350貫目(約1300kg)贈った。信長は大いに喜んだ。
生野には堺の商人が入っていて、茶人津田宗及と云っているが、実は武将であったのではないかとも云われた。他にも千利休クラス(政治に通じている人物)がいたようだ。
・生野には個人蔵ではあるが雪舟(室町後期の水墨画の僧)の三幅対があると云われている。その画が国立美術館から修復の際に借用させて欲しいとの申し出がある。その他、池大雅や、平野国臣などの出入りもある。
・竹田城は400年の石垣に苔(ヒヨリゴケ)や蔦(チョウジュヅタ)が生えていたが、町教委が除草剤を散布して、ダメにしてしまった。


質疑応答
(Q)当時武士はどのように暮らしていたのか。
(A)その頃は平農分離ではなかったので、平時は武士も百姓等をしていた。

(Q)竹田城攻め当日は雪が降っていたと考えるが、降っていたか。
(A)その日は降っていなかった。(11月25日は降っていた。)

(Q)私たち但馬学研究会で今後地域史では何を学べばよいか。
(A)古墳地代、特に出石、但東、和田山を主に(50mクラスも各地に多くある)、古代の山陰道も調べてみられたらこれも面白い。

(Q)江原近くにも城があって、攻めを受けた。しかし口碑では、秀吉が攻めたと云っているが、それは秀長であったのか。
(A)その通り。

(Q)竹田城といえども3,000人の武士は生活できないと思われるが、他の人はどこで生活していたのか。
(A)城近くの土地で生活していた。その地も今は払い下げを受け、個人所有となっている。


時間的制約があり、質疑応答は短時間しか取れなかった。閉会後、メンバーからは、講師が竹田城の地元の人なので、城をめぐる伝承や生活のしきたりなど、現在にも生きている事柄なども教えて欲しかった、との声もあったことを付記しておく。
(報告者:飯尾、校正:峠)

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2010~2011年度 8月例会 「日本の民族文化から見た但馬の民族文化の特色 」
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-
■□ 但馬学研究会 2010~2011年度 8月例会報告

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日本の民族文化から見た但馬の民族文化の特色
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-
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日時:平成22年8月28日(土)12:00~
場所:但馬長寿の郷 (和室)
講師 : 大森恵子氏(日本宗教民俗文化史総合研究会代表・仏教大学非常勤講師他)
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講師の大森恵子さんは京都在住ですが、但馬の生まれで「方言は文化である」と京都弁を使わず、但馬弁で話されました。但馬弁で話されるので言葉の威力というのか、聴く側に強い印象をもたせるお話でした。
豊岡高校在学中に郷土史に興味があった数学の先生に勧められて大谷大学に入学、民族学で有名な五来重先生について「竹野蓮花寺のざんざか踊り」というテーマで卒論を書く。大学時代、能の面白さに夢中になったことも加えて、念仏踊りなどを中心に全国をまわられて調査、研究を続けられています。




今回は民衆信仰と関わる祭り、温泉湯治という切り口でお話しいただきました。
〇神社とお寺について

神仏集合
平安時代の終わりから明治まで神仏習合であった。
徳川幕府は庶民の取り締まりにお寺に寺受け制度を設ける。
区役所の役をする、いわゆる戸籍謄本がお寺にあった。
お寺は江戸幕府の政治機関であった。

神仏分離
明治政府、神仏分離令(明治元年に。)を発令。
支配者が変ったということを一般市民に言うために寺を弾圧する、破壊するのが妥当であると判断した。天皇は神様の子孫であるという伊勢神宮の思想を中心に明治神宮などを造営する。
寺を弾圧する時代になる。
しかし一般庶民は神社がお経を唱えようが念仏唱えようが構わなった。

第二次世界大戦以後、元の状態が神仏習合だったということで神社もお寺さんも隠していたものを出してくるようになる
1、(ふりゅう)太鼓踊りについて(資料から抜粋)

・風流とは、趣向を凝らした風情ある造り物や仮装した状況を表す。
・風流踊りとは美しく飾った造り物(花笠・風流傘・大団扇・花シデなど)を付けたり、さまざまな衣装を着て仮装して踊る踊りを指す。
・ 太鼓踊りとは、腰や胸の部分に太鼓を付け、前後左右に足を移動させながら踊る踊りをいう。

. 但馬の風流太鼓踊り
・久谷ざんざか踊り(新温泉町)
・ 轟の古代太鼓踊り(豊岡市竹野町)
・ 虫生の笹囃子(豊岡市但東町)
・ 佐々木の笹囃子(旧出石郡但東町 廃絶)
・ 中藤の笹囃子(旧出石郡但東町 廃絶)
・ 九鹿のざんざか踊り(養父市八鹿町)
・ 三谷のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 青山のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 万々谷のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 大杉のざんざこ踊り(養父市大屋町)
・ 若杉のざんざか踊り(養父市大屋町)
・ 寺内のざんざか踊り(朝来市和田山町)
〇念仏踊りについて
お寺が仏教の教えを広めるために念仏踊りで教えた。
但馬では僧侶が踊りのリーダーをやっているのを残している。
踊りを先導する人(お坊さん)がいて、芸能を観ることも楽しみ、お参りすることも、踊ることも楽しみという、それぞれの目的が一致する。
ほめ念仏、お祝儀の念仏、死者を供養する、災いを避ける、雨を請うなど。
踊り歌中で南無阿弥陀仏と言っていたのがナミヤミントウやナミントウと呪文みたいになった。

播磨、但馬の辺りは木地屋さんがいる。木を切って作ったものを売る。
そういう人達は一方では山岳修験者だった。
但馬は大屋を中心に一つの宗教圏があった。
山を越えたところに聖の入場した塚などがあり、念仏色など、古風の形態を残していた。
修験道、山伏の文化を伝え、大谷、大杉の場合も、歴史的に遡ると、古い神仏の形を現代の祭礼の中で伝えている。
〇盆踊り
お坊さんが鉢を叩いて念仏に合わせて踊るのが、もともとの踊り。
その年、亡くなられた方の位牌を踊り場に持ってきて必ず念仏を唱えてから踊る。
板塔婆を背中に負ぶって親族の人が踊る。
それがだんだん踊るということが楽しむということだけになり、そこで誤解が生じて今はやっていない。何にも楽しくなく悲しいのに踊ってもらわなくて良いと阻止した家があった。本当の意味を知らないから、誤解が生じた。

本来、盆踊りは死者を供養する踊りである。だから死者の家に行き、縁側で踏んで盆踊りした。
踊る場合、踊っている人が手ぬぐいを被る、ほっかむりをするとかして顔を隠すのは簡単な
仮面で、現在の人間ではない。顔を隠してわからなくすることで帰ってきた祖先が自分の体に
乗り移ってくれている。

地面を蹴るのは土に無縁仏が悪さをする霊がいるので足で踏んで悪魔を払いをした。
お相撲さんの土俵入りと同じである。
土の神様に目覚めてちょうだい、豊作にしてちょうだいと願う。
土の神様は祖先ですから。
そんなような呪的な踊り方で、それが当たり前だった。



2、湯治場の習俗と信仰について

〇温泉湯治の話
温泉番付というのがあった。
江戸の中期から、きのさきは関脇である。
江戸の後期には 湯村温泉(播州湯河原の湯) の番付があがる。

〇温泉は山の神様の恵みである。
温泉の発見
動物が自然につくられた露天風呂で傷を治していた。
ホウ酸が含まれているなど、効能があることは温泉学会で実証されている。
城崎温泉の鴻の湯の発見はこうのとりである。
高僧が見つけた。空海、行基、連人、山伏など。

〇温泉と神仏
温泉のある場所には神仏がある。
病気を治す目的なので神仏に祈願する。
圧倒的に薬師如来が多い。
薬師如来80%、お地蔵さん、観世音菩薩、弁財天(厳島明神)などがある。
江戸時代は薬師堂に参詣してから湯に入っていた。
城崎温泉は温泉寺の十一面観音、観音堂にお参りする。
温泉寺の道智上人がまんだら湯が熱い湯だったので読経を唱えてぬるくしたと伝えられる。

〇奉納物(温泉寺)
高下駄、松葉杖など
足の悪い方が治ったというので奉納した高下駄がある。
高下駄は履いてきたのではなく、手に高下駄をして、山道を這って来た。
その高下駄を帰りには要らなくなったからと奉納していった。
奉納物は時代によって違う。

〇温泉の湯の管理は湯守がした
湯守は修験者であった。
誰かがけがれたものを入れたりするのを取り締まる
衛生面の管理をする。
入湯税を徴収をする。
勧進柄杓 金品をもらうときに受ける柄杓
ひしゃくを売る。それだけ寄付金が入ってくる。

〇明治以前は男女混浴であった。
明治になると男女別々に分かれる。
幕湯といわれ、幕で仕切る。
その後、一の湯は男、二の湯は女と時間で分ける。

〇湯かむり歌
岩井温泉では湯長の人が湯の表面を叩きながら。
城崎温泉ではしょうぶ湯の頃にやっていた。

3、観音信仰と銀山について

観音信仰は鉱山に関係がある(生野銀山、石見の大森銀山)
銀を採掘するということは生野と石見しかないのですから、お互いに情報提供しないとダメな面があった。
石見の鉱山神社に行くと岸壁にお祭りする山車がある。
今でも江戸時代からのものが含まれている。
浦島さんとも関係があるのではないか。
大きな亀が銀の鉱石を持って現れて銀を掘ってあたった。
亀は玄、玄の妙見山である。仏教の梵字で現すと弁財天、妙見山は同じ梵字である。
そういうところから、妙見山の信仰も伝わっていく。
現実に出雲大社の近くに妙見山がある。
そういうふうな繋がりがあって、銀山をもとにした信仰、お互いのやりとりがあったのではないかと思われる。

以上、興味深いお話の内容でした。
ひとつのテーマで研究していくと、そこからまた新しい興味が起こり、面白い方向に広がったり思いがけない繋がりを発見したりして尽きることがないと言われてました。とても説得力のある言葉として脳裏に残りました。
(報告者:浜野)

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