2010~2011年度 8月例会 「日本の民族文化から見た但馬の民族文化の特色 」
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-
■□ 但馬学研究会 2010~2011年度 8月例会報告

──────────◇◆ テーマ ◇◆─────────────────────────
日本の民族文化から見た但馬の民族文化の特色
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-
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日時:平成22年8月28日(土)12:00~
場所:但馬長寿の郷 (和室)
講師 : 大森恵子氏(日本宗教民俗文化史総合研究会代表・仏教大学非常勤講師他)
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講師の大森恵子さんは京都在住ですが、但馬の生まれで「方言は文化である」と京都弁を使わず、但馬弁で話されました。但馬弁で話されるので言葉の威力というのか、聴く側に強い印象をもたせるお話でした。
豊岡高校在学中に郷土史に興味があった数学の先生に勧められて大谷大学に入学、民族学で有名な五来重先生について「竹野蓮花寺のざんざか踊り」というテーマで卒論を書く。大学時代、能の面白さに夢中になったことも加えて、念仏踊りなどを中心に全国をまわられて調査、研究を続けられています。




今回は民衆信仰と関わる祭り、温泉湯治という切り口でお話しいただきました。
〇神社とお寺について

神仏集合
平安時代の終わりから明治まで神仏習合であった。
徳川幕府は庶民の取り締まりにお寺に寺受け制度を設ける。
区役所の役をする、いわゆる戸籍謄本がお寺にあった。
お寺は江戸幕府の政治機関であった。

神仏分離
明治政府、神仏分離令(明治元年に。)を発令。
支配者が変ったということを一般市民に言うために寺を弾圧する、破壊するのが妥当であると判断した。天皇は神様の子孫であるという伊勢神宮の思想を中心に明治神宮などを造営する。
寺を弾圧する時代になる。
しかし一般庶民は神社がお経を唱えようが念仏唱えようが構わなった。

第二次世界大戦以後、元の状態が神仏習合だったということで神社もお寺さんも隠していたものを出してくるようになる
1、(ふりゅう)太鼓踊りについて(資料から抜粋)

・風流とは、趣向を凝らした風情ある造り物や仮装した状況を表す。
・風流踊りとは美しく飾った造り物(花笠・風流傘・大団扇・花シデなど)を付けたり、さまざまな衣装を着て仮装して踊る踊りを指す。
・ 太鼓踊りとは、腰や胸の部分に太鼓を付け、前後左右に足を移動させながら踊る踊りをいう。

. 但馬の風流太鼓踊り
・久谷ざんざか踊り(新温泉町)
・ 轟の古代太鼓踊り(豊岡市竹野町)
・ 虫生の笹囃子(豊岡市但東町)
・ 佐々木の笹囃子(旧出石郡但東町 廃絶)
・ 中藤の笹囃子(旧出石郡但東町 廃絶)
・ 九鹿のざんざか踊り(養父市八鹿町)
・ 三谷のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 青山のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 万々谷のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 大杉のざんざこ踊り(養父市大屋町)
・ 若杉のざんざか踊り(養父市大屋町)
・ 寺内のざんざか踊り(朝来市和田山町)
〇念仏踊りについて
お寺が仏教の教えを広めるために念仏踊りで教えた。
但馬では僧侶が踊りのリーダーをやっているのを残している。
踊りを先導する人(お坊さん)がいて、芸能を観ることも楽しみ、お参りすることも、踊ることも楽しみという、それぞれの目的が一致する。
ほめ念仏、お祝儀の念仏、死者を供養する、災いを避ける、雨を請うなど。
踊り歌中で南無阿弥陀仏と言っていたのがナミヤミントウやナミントウと呪文みたいになった。

播磨、但馬の辺りは木地屋さんがいる。木を切って作ったものを売る。
そういう人達は一方では山岳修験者だった。
但馬は大屋を中心に一つの宗教圏があった。
山を越えたところに聖の入場した塚などがあり、念仏色など、古風の形態を残していた。
修験道、山伏の文化を伝え、大谷、大杉の場合も、歴史的に遡ると、古い神仏の形を現代の祭礼の中で伝えている。
〇盆踊り
お坊さんが鉢を叩いて念仏に合わせて踊るのが、もともとの踊り。
その年、亡くなられた方の位牌を踊り場に持ってきて必ず念仏を唱えてから踊る。
板塔婆を背中に負ぶって親族の人が踊る。
それがだんだん踊るということが楽しむということだけになり、そこで誤解が生じて今はやっていない。何にも楽しくなく悲しいのに踊ってもらわなくて良いと阻止した家があった。本当の意味を知らないから、誤解が生じた。

本来、盆踊りは死者を供養する踊りである。だから死者の家に行き、縁側で踏んで盆踊りした。
踊る場合、踊っている人が手ぬぐいを被る、ほっかむりをするとかして顔を隠すのは簡単な
仮面で、現在の人間ではない。顔を隠してわからなくすることで帰ってきた祖先が自分の体に
乗り移ってくれている。

地面を蹴るのは土に無縁仏が悪さをする霊がいるので足で踏んで悪魔を払いをした。
お相撲さんの土俵入りと同じである。
土の神様に目覚めてちょうだい、豊作にしてちょうだいと願う。
土の神様は祖先ですから。
そんなような呪的な踊り方で、それが当たり前だった。



2、湯治場の習俗と信仰について

〇温泉湯治の話
温泉番付というのがあった。
江戸の中期から、きのさきは関脇である。
江戸の後期には 湯村温泉(播州湯河原の湯) の番付があがる。

〇温泉は山の神様の恵みである。
温泉の発見
動物が自然につくられた露天風呂で傷を治していた。
ホウ酸が含まれているなど、効能があることは温泉学会で実証されている。
城崎温泉の鴻の湯の発見はこうのとりである。
高僧が見つけた。空海、行基、連人、山伏など。

〇温泉と神仏
温泉のある場所には神仏がある。
病気を治す目的なので神仏に祈願する。
圧倒的に薬師如来が多い。
薬師如来80%、お地蔵さん、観世音菩薩、弁財天(厳島明神)などがある。
江戸時代は薬師堂に参詣してから湯に入っていた。
城崎温泉は温泉寺の十一面観音、観音堂にお参りする。
温泉寺の道智上人がまんだら湯が熱い湯だったので読経を唱えてぬるくしたと伝えられる。

〇奉納物(温泉寺)
高下駄、松葉杖など
足の悪い方が治ったというので奉納した高下駄がある。
高下駄は履いてきたのではなく、手に高下駄をして、山道を這って来た。
その高下駄を帰りには要らなくなったからと奉納していった。
奉納物は時代によって違う。

〇温泉の湯の管理は湯守がした
湯守は修験者であった。
誰かがけがれたものを入れたりするのを取り締まる
衛生面の管理をする。
入湯税を徴収をする。
勧進柄杓 金品をもらうときに受ける柄杓
ひしゃくを売る。それだけ寄付金が入ってくる。

〇明治以前は男女混浴であった。
明治になると男女別々に分かれる。
幕湯といわれ、幕で仕切る。
その後、一の湯は男、二の湯は女と時間で分ける。

〇湯かむり歌
岩井温泉では湯長の人が湯の表面を叩きながら。
城崎温泉ではしょうぶ湯の頃にやっていた。

3、観音信仰と銀山について

観音信仰は鉱山に関係がある(生野銀山、石見の大森銀山)
銀を採掘するということは生野と石見しかないのですから、お互いに情報提供しないとダメな面があった。
石見の鉱山神社に行くと岸壁にお祭りする山車がある。
今でも江戸時代からのものが含まれている。
浦島さんとも関係があるのではないか。
大きな亀が銀の鉱石を持って現れて銀を掘ってあたった。
亀は玄、玄の妙見山である。仏教の梵字で現すと弁財天、妙見山は同じ梵字である。
そういうところから、妙見山の信仰も伝わっていく。
現実に出雲大社の近くに妙見山がある。
そういうふうな繋がりがあって、銀山をもとにした信仰、お互いのやりとりがあったのではないかと思われる。

以上、興味深いお話の内容でした。
ひとつのテーマで研究していくと、そこからまた新しい興味が起こり、面白い方向に広がったり思いがけない繋がりを発見したりして尽きることがないと言われてました。とても説得力のある言葉として脳裏に残りました。
(報告者:浜野)

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