2006年5月例会 「水と農がつくる山村の暮らし風景 ~うへ山の棚田 ─ 日本の棚田百選」
開催月日 : 5月27日(土)
開催市町 : 香美町
テーマ   : 「水と農がつくる山村の暮らし風景 ~うへ山の棚田 ─ 日本の棚田百選」
講 師   : 田村哲夫さん(貫田区役員・香美町小代地域局農業担当)
場 所   : 美方郡香美町小代区貫田 うへ山棚田・吉滝キャンプ場管理棟
参加者   : 島垣、衣川、木村、谷岡、友田、中田、中安、成田、西躰
         能登、浜野、藤原博、守山
担 当   : 友田、藤原博、守山(記録)

■棚田百選のうへ山棚田
 小代の谷は国道9号から矢田川に沿って国道482号が走る。小代中学校を過ぎたあたりで右側に上ってじきに貫田の集落がある。正面に瀞川山系を望む東向きの傾斜地に民家がかたまっている。ヘアピンのカーブから集落を過ぎ山中をどんどん上る。途中猿の群に出会った。さらに上ると林間から、右側に田んぼが突然開ける。うへ山棚田である。
 うへ山棚田は約40枚、平均勾配1/5、面積3.1haを7軒の農家で耕す。休耕田はほとんどなく、よく管理されている。棚田を取り囲む自然環境もよく、背景の山並みと調和した景観が美しいことで平成11年に農林水産省から「日本の棚田百選」として認定された。海抜500メートル。
 但馬では、同じく香美町村岡区和佐父の「和佐父・西ヶ丘」も棚田百選に認定されている。

 

■湧き水
 うへ山棚田の水は、棚田の最上部に位置する湧き水を使っている。日量千トンの水が湧く。昔は湧き水があると、一鍬でも面積を広げたいと田んぼを開いた。でも今は「一鍬でも作りたくない」という風潮だ。
 現在はここの湧き水のほか、上の高原に引いている吉滝からの水のオーバーフローもパイプで引いている。ここの水は、うへ山棚田からさらに下の田んぼにも使って、合わせて15haを潤している。棚田の管理は水の管理と言っても言い過ぎではない。水源や田の水量、水路や田の水漏れ、畦の点検など、農民は田んぼと水に向き合っている。
 4月下旬に総出で水路掃除をする(「いで」掃除)のを合図に、水の取り口から近い田んぼから順に水を入れる。自分の都合で我田に引水をすることは許されないことである。うへ山の棚田の全体に水が行き渡るのは2日ぐらいかかった。上の田んぼの水がいっぱいになったら下の田んぼに流れる。「あてこし水」という。「なかいで」「おおいで」など湧き水からの水路にはそれぞれ名前がついている。
 しかしどうしても水が冷たいので収量は平地の7割ほどとのこと。水源にもっとも近いいちばん上の2枚は作っていない。野生化したわさびが生えていた。水を貯めて少しでも水温を上げたのかもしれない。また水路から水を取り入れたあたり(水口)の稲は実がつかない。このため田のなかに小さい畦をつくって、水を迂回させている田が多い。
これも水温を上げるための知恵だ。

 

■うへ山棚田の米づくり
  みんなの協力がないと田植えは出来なかったので、かつては人々は互いに田植えや稲刈りを手伝い、互いに「手間返し」をした。棚田は農業共同体の中で守られてきた。
 今ゴールデンウィークの後に田植えをするのは、都会に出ている若者が帰ってきて田植えをしてくれるからである。早い時期の田植えは水も冷たく米に実が出来ないためぎりぎりの選択である。昔は6月に田植えをしていた。今は軽トラがあるが、昔は弁当を持って村から歩いてうへ山棚田に稲を作りにきた。
 小屋があって弁当を食べ昼寝をした。できた米は背負って下りた。
自分の田んぼの周辺は他人の山でもかってに切ってもよいことになっている。日当たりをよくするための暗黙の了解だった。
 米作りは水の管理がいちばん大事。田村さんは「よその田んぼの水管理はむずかしい。ひとの田んぼを作ってみてよくわかる」という。水が抜けやすい箇所などよその田んぼのくせがわかりにくいからだろう。
現在うへ山棚田の作っている人の平均年齢は68歳。田んぼを維持する問題点は高齢化である。でも「田んぼを荒らすのは罪悪」という気持ちをみんな持っている。

■「ぬけ田」
  貫田(ぬきた)は「ぬけ田」が起源ではないかとのこと。山がぬけたところに田んぼをつくったということかもしれない。貫田地区は地下水が多く、10数カ所で水抜きの工事をした。「流れた山を棚田にしているので、棚田に水が溜まって村にどっと来ない。棚田が荒れたら村が、町が荒れる」。うへ山棚田から下に続く「流れ尾」の地名の田んぼもある。

 

■オーナー制度のこと
 貫田地区は農業体験・自然体験など都市との交流が盛んで、民宿も何軒かある。うへ山棚田もかつてはオーナー制度を設けていた。しかし米つくりには自分のパターンがあり、ひとに合わせることの煩わしさがある。また高齢化が進んだ。このため今は受け入れていない。

■但馬牛のこと
  小代は熱田蔓牛(雌)、中土井(雄・種牛)と但馬牛の名牛の里。子どものころは学校に行くまでに歩いて放牧地に連れていき、学校から帰ると連れ帰るのが日課だった。
 どの家も家の中で家族といっしょに暮らすのが当たり前だった。牛で田んぼを耕した。敷きわら・牛糞は乾かして肥料にした。今、貫田で牛を飼っているのは2戸だけになった。

■出稼ぎ
  冬期の酒屋への出稼ぎで小代は栄えてきた。農閑期の出稼ぎの現金収入は生活に大きな潤いを与えていたが、杜氏の仕事が機械化され、労働力を必要としない傾向にある。

■高原
  うへ山棚田からさらに上ると高原に出る。ここに吉滝キャンプ場がある。高原はかつては雑木林だったが、国のパイロット事業の補助金で開拓し、大根を作った。しかし連作障害がでて放牧地にした。
 高原の窪地に「しまち」と呼ぶため池があり、田んぼが周囲に作られている。ため池よりも上の田は、山の尾根の反対側の吉滝から水を引いて作っている。ここの田の水は佐坊の集落へ流れ、棚田が矢田川までずっと続いている。

 

■雑感
農地は作物の衣を着てはじめて美しい。過疎・高齢化の農村問題はいろいろあるが、純粋な農業生産で生活が出来るようにならないものか。都会のひとに迎合して右往左往すると農村はだめになる。
 相互扶助の農村共同体は、棚田を守り、水を守るためには不可欠の組織であったことをうかがった。美しい棚田を育んでいる人々の魂を忘れないようにしたいものだ。
 今自分たちの命の故郷でなにが起きているのか。私たちは何をしないといけないのか。大きな課題を感じながら棚田を後にした。帰路は貫田から佐坊集落を抜けた。雨の後の棚田の美しさが心に残る。
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