2005年10月例会 「田倉山火山と湧き水」
開催月日 : 10月22日(土)
開催市町 : 朝来市和田山町
テーマ   : 「田倉山火山と湧き水」
講 師   : 工藤 智己氏(日本鉱物学会会員)
         北垣 隆司氏(朝来市上水道課長)
         岡田 治一氏(兵庫県八鹿土木事務所)
場 所   : 石部神社(朝来市和田山町白井地区)~大森湧水~大路ダム
参加者   : 住吉・浜野・細見・能登・藤原j・峠・成田・高石・木村・小川
         島垣・友田・西躰・粂井 会員外1名
担 当   : 浜野(記録)、細見、住吉

京都府の夜久野にある田倉山(通称たから山)の噴火によって、夜久野は火山灰の豊かな台地ができ、その地層を潜って和田山町宮の石部神社に「衣摺の泉」と言われる湧き水が出てきています。湧き水は地域でどう活用されて今に至るのかを知りたいと訪ねました。

 

工藤 智巳さんの話
●衣摺の泉(石部神社の清水池)と田倉山
 和田山町宮区の石部神社に往古よりこんこんと清水湧く“神の池”がある。石部神社は、中世に刀我郷衣摺神社といったようだ。(「但馬の国大田文」)
 この水は山から谷へ寄せ集まってくる水でなくて、湧き水である。池の藻を見ると、水がきれいなところにだけ生える藻がある。少し黒っぽいが、ところどころに白っぽい斑点がある。ゆっくりと水を押し上げてきているので、そこだけ藻がにげている。日光など、湧き水がすごい勢いで湧く池では砂が踊っている。あれだけの圧力で上がってきてはいないが、毎秒何十トンという水がとまることなく、あの部分に出てきている。

田倉山火山について
 その源はどこか?田倉山の上まで上がってみたいのだが、その時間がないので図で説明される。田倉山はぽっこりと低い盾を詰めているようなかっこうになっている。火山にもいろんなタイプがある。これを楯状タイプという。流れて、流れて、溶岩になった元のどろどろを、玄武岩溶岩という。玄武岩の火山は、ずーっと持ち上げてゆっくりゆっくりと飴のように流れ、裾広く、広がって台地をつくる。夜久野高原は玄武岩台地である。海抜350メートルの山である。和田山の役場が海抜80mほどである。350mの、この上に、結構火口が残っている。直径が150メートルで、周囲を回ることができる。火口はすでに埋まっているが、20メートルぐらいあるらしい。所謂火山である。

 

いつこれが活動して、噴火したのか。
京都府は火山がほとんどない。この兵庫県の境、夜久野の田倉山(宝山とも呼ぶ)のみである。京大の地学部学生はここにきて勉強する。京大の中沢圭二教授は田んぼの土がどうして割れるか、毎日チェックして通い詰めて、何回噴火してあの形が出来たか、地殻を形成したか、ということを調査された。
最近になって、この火山は、30万年から35万年の間に、3回ほど大きな活動をしていることとわかってきた。3回、溶岩の大きな噴出しがあり、最後は、噴煙とか、埃とか火山砂を噴き上げて、それが乗っかっていく。だから、中は空かすである。4回活動する間に、何百万年かは、時間差があるわけだから、噴き上げた溶岩の台地が一回、固まって、その次にまた噴き上げて固まる。その吹き上げた上の表面は、いわゆる水をためる底になって、一番下に壷がある。2回目にこれとこれとの間にもまた、埃をためたところもあり、ここが一番水を含んでいる。

水はどこを流れるのか。
そしてその水がどこを流れるかが一番難しかったようである。吹き上げた台地が、どっちにどう傾斜しているのかを測量すると、水が貯まって自然に動いていく。重力で動いて行く。その道筋を見つけていく。そして、火山ではなく、もともと低い谷地形へ溶岩が流れた。その辺りに全部集まって、地下水として伏流している。そういう道がついているのだろう。その先端の1つが次の場所「大森湧水」である。

●大森湧水と田倉山
 和田山町白井区の東方に大森神社がある、この社の東方約100mに田倉山溶岩流の先端崖がある。
 この下部から溶岩末端湧水が流れ出している。往古より、里人は巨岩が立つこの湧水地を「出水の岩窟」と呼んでいる、(「東河誌」)

 ここの水は、火山が噴火した何回かの溶岩の底を鍋の底にした谷筋を通って来る。山の下を山陰線が通っている。かなり大きな工事になっていたが、トンネルの作業中に困ったことが起きた。水がやはり鍋の底に溜まっていて、圧力や重力ができて、動きやすい状態になっていた。鍋の底がちょっと破れたら、トンネルの方に行ってしまった。言わば水が動いた。そのために完全に減った。

 この水の温度は年中、15度C位、表面にくると輻射熱がくるから少しは違うがほとんど変わらない。この水は岩の下から、どんどんとでてきている。近くにいくと溶岩が泡の上にのっているように見える。これが田倉山溶岩の吹いた先端である。溶岩が押し出してきて先端で止まっている。こういう溶岩が押し出した先端をクリンカーという。

 

石部神社では緑の藻があったが、ここの石は赤いのではなく、石の上に藻がついていて赤く見えている。これを赤系統の紅藻という。紅の赤い藻は水の多いところでみられる。和田山では他でみられない。
 ここの水は火山の活動で鍋の底のような場所ができた上に溜り、次の鍋の底へと落ちながら、きていると思われる。地下水は一回目に噴出した溶岩が固まった広い鍋の底に、貯まってきて、上からの圧力が出来て、ある角度でこのクリンカーに集まって出てきている。一日に、200トンぐらいが出ている。

北垣 隆司さんの話
●上水道として
 大森湧水は現在、この湧水は出水口で濾過槽に受け、地下タンクに一旦貯水、これを比高差数10m高い貯水タンクにポンプアップし、減菌して市が管理する上水道に水源になっている。
 昭和52年に東河地区に五つの村々に簡易水道があった。山の木々の成長に伴い、谷の放流水が少なくなってきた。水源を確保するということで、簡易水道をまとめて、大きな水源にした。
 田倉山の噴火活動によって、地盤が隆起し、溶岩が噴出し、すでにあった近辺地形の谷や沼地を堰きとめ、一時的に「湖」ができたという説がある。
 田倉山の活動が起きる前は、今のような高原地形はなく、直見の谷や白井の北東部の谷々から集まった雨水は直見谷を延長した山東町磯辺の谷に流れ下っていたと推定される。その川が火山の噴火により、堰き止められたことで水が貯えられ、湧水となって出てきている。

 

この辺りと夜久野の観光センターの周辺に水源がある。そういう状況のなかで、井戸を掘った。高原の上で、100メートルのボウリングをして、そこからも地下水を取った。しかし水量がトンネルの工事によって減り、現在は上のほうは使用せず、ここ一本だけである。ここの水を使って、280家、760人ほどの家庭に水を供給している。大変、水はきれいだが、やはり雨が降れば木々の関係から濁るので急速ろ過をして使っている。このままでも飲めるが、この真上、50mほど上がったところに上水場を設けて、そこで滅菌をしている。

岡田 治一さんの話
●大路ダムについて 見学
 この辺の人はこの水飲を使用している。
施設の概要 このダムの主な働きは、町の方々の生活を洪水から守り、上水道として利用し、灌漑用水として利用されている。特に、和田山町地区の水需要に対応するために、日に2,000立方メートルの水を供給できるように74,000立方メートルの容量を確保しています。ダム取水設備は、貯水池の表面に近い水を取水塔に取り込み、下流側にある放流バルブ室に運ばれた水は、ジェットフローゲートで流量を調整して、ここで水道水・農業用水と河川維持用水に分けられている。
ダムの高さは32.1m、ダムの一番上の長さは138m、体積は43,400立方メートル。生野のダムの方が大きい。下から見た時は大きくは見えなかったが、上から見下ろすと大きいという感想をもった。
 ダムの上部から側面にある階段を降りて、下部に行く。さすがに風で煽られると怖い。ダムの中に入ると冷気を感じる。この上に74,000立方メートルの容量の水があると考えると、ゾクゾクする。ところどころに水滴などが見えると突然、亀裂が入ったらなどと想像してしまう。

 

●大路浄水場(北垣隆司さんの案内で)
 隣接する大路浄水場の中を見学する。薬品沈殿池・急速ろ過池・配水池と排水・排泥池・濃縮槽・天日乾燥地などを見学する。
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2005年9月例会 『トーク&トーク「15周年事業に向けて」』
開催月日 : 9月24日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : トーク&トーク「15周年事業に向けて」
場 所   : 豊岡市神美台 豊岡市立出土文化財管理センター
参加者   : 島垣、中田、浜野、木村、能登、上田、西躰、峠、高石
担 当   : 峠、高石

例会会場である豊岡市出土文化財管理センターでは、「海を渡った水甕たち」という企画展が行われており、例会前に全員で見学、同センターの潮崎研究員から詳しく解説していただいた。これまで豊岡市内山本地区で焼かれていたと伝えられていた陶器の水甕が、じつは江戸期の越前焼きであることが分った。甕に残されている刻印から生産地の窯元名まで特定できるものが多く、福井県の陶器が日本海の回船や円山川の水運を利用して大量に当地に流通していたことが明らかになった。その水甕はいまでも民家の庭先で使われているものもあり、今回約80点が集まり展示されたとのことであった。同センターは、中嶋神社や森尾古墳・平尾家を眼下にした高台にあり、昨年の水害時には豊岡盆地のなかを渡来人が船で行き来していた古墳時代を想像させる風景が見られたという。

 

当日はコウノトリ放鳥と重なり、そちらに参加する会員もあり、参加が少なかった。例会参加者のほとんどが幹事であり幹事会の趣であったが、「15周年事業に向けて」の取り組みをどのようにするかを中心に話し合った。その概要は以下のとおり。(議題のみ)

議題1)「但馬カルチャー」の発行について
議題2)15周年記念研修旅行
議題3)記念講演
議題4)10月例会について
議題5)その他
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2005年8月例会 「SABO」砂防(さぼう)
開催月日 : 8月27日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : 「SABO」砂防(さぼう)
講 師   : 赤木新太郎 氏
場 所   : 豊岡市中筋 赤木邸(豊岡市引野)
参加者   : 島垣 太田 中安 椿野 中田 峠 浜野 中嶋 成田 能登
         木村ひ 衣川 西躰 守山 中尾 戸田 上田 岩本 会員外(2名)
担 当   : 太田 衣川 西躰

赤木家
所在地  豊岡市引野972
構 造  木造、3階建て、瓦葺
規 模  敷地面積 2,870平方メートル、 延べ床面積 1,150平方メートル
竣 工  明治3年

 先祖は山名宗全の部下で日高町上郷に城を持った赤木丹後守が初代である。代々大庄屋として大地主であり大山林王であった。安政年間、代官所は財政逼迫で年貢米は耐えられぬほど加重された。これではとても百姓は生きてゆけぬというところまできた。祖父甚太夫正隆(10代)は意を決して単身出府、紀尾井坂で将軍に直訴した。但馬の「佐倉惣五郎」である。赤木邸は、豊岡・出石・日高の正三角形の中心に位置している
 このあたりは天領で、生野と久美浜の代官所が交代で管轄していた。引野という地名は、低い野原に由来。
 昔から一度洪水になるとあたり一面は冠水してしまう。そこで屋敷全体は堅牢な石垣で周囲より高いところで約2m嵩上げされて造成されている。



円山川氾濫のとき水面は門階段の最上段まで達したと伝えられ、今も土蔵の軒下には、周辺の避難民に飲料水や炊き出しの食料を配るための木船が吊るしてある。
 赤木家がこの地域の防災の拠点であったろう。

  

水防林(竹藪)や堅牢な玄武岩の石垣、そうして2mほど嵩上げした宅地など、水防対策に基づいて設計されており、洪水に対し二重三重の防御策を備えている。特に飲料水の確保には気を遣い、深さの違う井戸が二本掘ってある。
 また、堤防が切れても、家は浸からないと言われていた。

 全国の砂防工事に於いて多大な功績を残し「砂防の神様」と呼ばれた、赤木正雄(明治20年生まれ)はこの家に育った。子どもの頃の環境が如何に大切であるか考えるところが大きい。

 当主自ら牛を飼う様な質素な家です。赤木一雄(12代、赤木博士の兄)は内村鑑三氏の影響を受けたようだ。曹洞宗の永平寺に修行に行っていた。京極杞陽先生に師事し、句会に参加したり、自ら催したりしていた。赤木一彦(13代)の言葉に、「うちの家は汗水垂らして働き、新田開発をしたり、養蚕をし て身代を築いて来た。けっして高利貸しなどで増やしたのではない、このことは誇りに思う。」とある

赤木正雄博士について
 明治20年(1887年)3月14日、引野村赤木甚太夫の次男として生まれた。明治41年、県立豊岡中学校(6期生)から一高に進み、ときの校長新渡戸稲造博士の訓話に感じて治水事業を志し、東京帝大卒業後、大正3年内務省に入った。

 “砂防”にかけた一生の始まりである。滋賀県瀬田川支流を手始めに吉野川・淀川・立山山系・飛騨山系・六甲山系など、自ら主任として指揮した砂防工事の足跡は全国に及び、この間にはウィーン農科大学に学び、京都帝大・日本大学では教鞭をとっている。

 昭和17年退官して、昭和21年貴族院議員となり、翌昭和22年には参議院議員に当選、建設政務次官などを歴任、昭和32年落選後は砂防会館を拠点に全国治水砂防協会専務理事として活躍した。
 昭和46年6月豊岡市名誉市民に推され、同年11月には文化勲章を授与された。
 昭和47年9月没。85歳。引野の生家に近く「生誕の地」碑が、円山大橋西端には銅像が立っている。甥の須留喜は都立大教授で、都政研究の権威といわれる。

豊岡市史(抜粋:原稿どおり)

 

赤木邸は明治・大正時代の代表的な但馬の農村大地主の住宅で、兵庫県の「住宅百選」に選ばれ、その中でも特に「住宅十選」に選ばれている。現在の豊岡市竹野町出身の宮大工、北条伝四郎による設計施工で、明治3年の竣工である。約130年が経過しているが、主屋をはじめ土蔵群・屋敷塀・門・番人小屋・作業
 場・傭人部屋等、殆どのものがしっかりとほぼ原形のまま残っている。

 東面には中央に番人小屋付の正門を置き、南側に作業場、東南角に籾蔵を続ける。正門より10m程敷地中央寄りに、東面して母屋を置き、母屋の背面北西角に離れ(北涼館)、背面中央にもう1棟の離れを突き出す。
 母屋北側に庭園を配置し、東面の番人小屋から北面を屋敷塀で囲う。母屋からは東面に向けて、庭境に仕切塀付きの中門・厠を置き、庭園と母屋前の庭とを仕切る。
 西面は、北西隅から下蔵・宝蔵等を一棟にした2階建の連蔵をおき、続いて南に味噌蔵・米蔵・倉庫、そして、西面南寄りに西門を開き、物置を付す。物置から矩折れに、東南角の蔵まで屋敷塀を廻す。

 

農村集落の景観と敷地の構成

田畑や濠に囲まれた、東西45m・南北65m・約900坪の広大な敷地は、水害に備えて嵩上げされ、西面と北面はこの近くの玄武洞から採取された玄武岩を水平に幅一尺くらいに空積みしてノミで面取り細工した精巧で珍しい仕上の石垣で覆い、正面及び濠のある南面は崩れ積みの石垣で覆われている。石垣は2・3年かけて積んだらしいが、当初は全て玄武岩の水平積みの予定だったが、あまりにも手間が掛り途中で仕様を変更したらしい。

 屋敷の西側を土蔵や物置でほぼ全面的に塞ぎ、他の3方を屋敷塀で囲み、東南の隅に土蔵と作業小屋及び正面に番人小屋付きの正門を配置し、敷地中央やや北よりに民家では珍しい懸魚が取り付けられた主屋を構え、樫、欅、松などの巨木で覆われた姿は、この地域の周辺環境に良く馴染み他に類を見ることのない景観である。

 

奥の間と庭

 「奥の間」を囲むように工夫を凝らした庭園がある。出石藩の家老屋敷にあったもので、牛車で運ばれて来た花梨の大木や、樫などのこの地域のシンボル的樹木、及び日高国分寺からもらったと言われる礎石の踏み石、実はこの石は踏んではならないそうである。所有の田圃から出てきた礎石。また枯れ山水の大きな石組みの川と滝、石橋など1級の庭である。

 「表門」は巾一間で脇に潜り戸が付くが、屋敷の大きさに比べやや小振りである。「身分相応」「質実剛健」と言う赤木家の家訓から来るものであろうか。

西門

 一繋がりの西側蔵群の南寄りに、「西門」を開く。「西門」の外側の盛土部には竹藪が設けられ非常時にこの竹藪の竹を切り、筏を組んだり、蛇籠に利用するための防災林の役割を果たしている。いわば「赤木の小森」である。

掘り抜き井戸(自噴水)

 野菜や農機具など、必要な場合、屋敷に持ち込む前に洗えるようになっていた。その排水が、あたかも郡上八幡にある宗祇水のような構造で、前の池に流れ込むようになっていた。また河川水位の目安にもなったようだ。





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