2012,12,05, Wednesday
◆ 12月忘年会のご案内 ◆
日 時 : 2012年12月8日(土) 15時~
場 所 : 民宿(ロッジ)翠山荘(すいざんそう)
養父市別宮290 TEL079-667-8420
場所は、「東鉢スキー場」にあります。
順路としては、八鹿方面から来た場合、9号線村岡区福岡の「道の駅ハチ北」を左折
→すぐに県道69号線にぶつかりますのでそこを左折
→1本道ですが村岡区大野
→大野峠
→葛畑→東鉢スキー場「翠山荘」
15時 ~ 『どぶろくと別宮の大カツラ』
※別宮には、大カツラという幹周14.50m高さは20m以上の大木があります。
その横から湧き出る水が小川となり、目の前には棚田が広がる景色を
たのしんでください。どぶろくに使われているお米や水がその棚田や湧き出る水から
出来ているそうです。
※どぶろく特区を取得して自家生産のお米と水で作る氷ノ山どぶろく「鉢伏の泉」。
宿のご主人から、どぶろく作りのお話を聞き、カツラの木への案内もしていただく
予定です。そして、地元産の食材で作った郷土料理「鉢伏鍋」で夕食の予定。
宿泊付きで行います。
日 時 : 2012年12月8日(土) 15時~
場 所 : 民宿(ロッジ)翠山荘(すいざんそう)
養父市別宮290 TEL079-667-8420
場所は、「東鉢スキー場」にあります。
順路としては、八鹿方面から来た場合、9号線村岡区福岡の「道の駅ハチ北」を左折
→すぐに県道69号線にぶつかりますのでそこを左折
→1本道ですが村岡区大野
→大野峠
→葛畑→東鉢スキー場「翠山荘」
15時 ~ 『どぶろくと別宮の大カツラ』
※別宮には、大カツラという幹周14.50m高さは20m以上の大木があります。
その横から湧き出る水が小川となり、目の前には棚田が広がる景色を
たのしんでください。どぶろくに使われているお米や水がその棚田や湧き出る水から
出来ているそうです。
※どぶろく特区を取得して自家生産のお米と水で作る氷ノ山どぶろく「鉢伏の泉」。
宿のご主人から、どぶろく作りのお話を聞き、カツラの木への案内もしていただく
予定です。そして、地元産の食材で作った郷土料理「鉢伏鍋」で夕食の予定。
宿泊付きで行います。
| comments (0) | trackback (0) |
2012,12,04, Tuesday
日時:2012年11月24日(土) 12:00〜16:00
場所:[昼食]平家の里(平家そば)香美町香住区余部2980
[例会]香美町香住区御崎 御崎公会堂
講師:岡辻増雄さん(御崎地区語り部)
■語り部
講師の岡辻さんは大正14年生まれの88歳。子どものころから歴史が好きで、おじいさんの語ってくれる昔話を何度も聞いて育った。それが頭に残り、求められて話をするようになり、今ではそれが生きがいとなっているという。耳が少し遠い、声にも張りがないとおっしゃりながら、背筋をピンと伸ばし、筋道立ててわかりやすくお話してくださった。
今回資料に使わせていただいた小冊子『御崎 平家村のおはなし』も岡辻さんのお話をベースに作られたものだ。
■平家落人の里
1185年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将が散り散りに落ち延びた。そのうち、門脇宰相平教盛、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門の乗った小舟が季節風によって西へ流され、伊笹岬の突端を曲がったあたりで山中に煙が上がっているのを見つけてたどり着いたのが、当時修行の場であった美伊神社である。そこで出会った森本浄実坊という荒野聖に諭され、この地に落ち着くことになった。三氏は当初、別々に分かれて住み、折に触れて集まっていたが、400年ほど経ったころ「源氏の追手が来ることももうないだろう」との判断で集まって住むことになり、今の御崎村が形成されたという。詳しい内容は上記小冊子を参照されたい。
■ 平家蕪(かぶら)
昼食に出されたお漬け物は平家蕪。この地に古くから自生している蕪で、森林を切り開いたところにも自然に生えてくる。農業試験場が持ち帰って栽培を試みたこともあったが同じものはできなかった。漬け物の商品化も試みたが、今でも山に入って採ってくる必要があるため量産できず、訪れたお客さんに提供する程度しか作られていないそうだ。岡辻さんの長男のお嫁さんが切り盛りされている蕎麦処「平家の里」でいただくことができる。
■ 百手(ももて)の儀式
毎年1月28日に行われる「百手」の儀式。平家の再興を祈念して、源氏に見立てた的に向けて101本の矢を射る行事である。地区の平内神社で行われるが、岡辻さんによると神事ではなくあくまでも「訓練」であるとのこと。「百手」という名前には「何回も繰り返して矢を射る」という意味があるそうだ。各地の平家村にも同じような行事が伝わっており、本数も様々だが、御崎の場合は、打ち初め(1本)+33本×3家(門脇・伊賀・矢引)+打ち終い(1本)で合計101本となっている。源氏がどうのという思いは今となってはまったくないが、これで負けん気が養われたのは確かだという。ちなみに、儀式の際などに使われる旗には揚羽蝶の紋が描かれているが、3家のうちの伊賀家の家紋を村の紋として使用しているという。
■ 近年の暮らし
現在、御崎地区には16世帯、約70人が住んでいる。昭和20年頃は48戸あったが、次第に減り、昭和35年頃までに35、6戸に。その後一気に24、5戸まで減ったが、近年の減少は緩やかである。現在住んでいる人は一度村を出て帰ってきた人も多く、そういった人は村に誇りを持っている。若いお嫁さんが意外と多い。御崎の子供は、小学校3年生まで余部小学校の御崎分校に通い、4年生からは本校に通う。現在の分校の児童数は小1、小2がひとりずつ。来年は各学年1人ずつになる予定だ。
村の大きな収入源になっているのは山椒の葉。山で自生している山椒を採って個人で出荷していたが、現在は苗を育てて栽培し、農協を通じてまとめて出荷している。岡辻さんはハウス栽培の先駆けでもある。ハウスで栽培すると10日早く出荷できる。トゲがあるので収穫が大変だが、少量で高い値が付くという。村全体で7、8haほど栽培している。例会後、案内していただいた平内神社への参道脇にも山椒が栽培されていた。
漁業は、2ヵ所(御崎と鎧)に定置網を設置しているが、近年は収入が減っている。観光客もそれほど来ない。
昔から水が貴重な地区で、火事は大きな被害になっていた。昭和11年に上水道が敷設され、今ではその問題は解消している。
自動車道の計画は昭和24年からあった。昭和45年に砂利道が敷設され、舗装道路が完成したのは昭和49年。昭和63年には灯台から浜坂までの海岸道路も開通し、便利になっている。
昔は烽火を上げて安否を確かめ合ったという話を聞いたことがあるが、自分の手で上げたとか実際に見たという話は聞いたことがないという。役場の方から、落人村として知られる畑、御崎、田久日でやってみようかという話が上がっているそうだ。
■ 歴史とともに
各地の平家落人村には同じような伝承が伝わっている。遠い昔のことでもあり、真偽のほどはよくわからないというのが正直なところだ。そのことについての岡辻さんの応えは明快だ。「歴史は信じるものです」。家でも地区でも歴史は大事。信じないことには地区の活性化もないですよと。ブームに乗じて作ったようなものでなく、家々に代々伝わってきたものを真摯に守り伝えている村の誇りがしみじみと伝わってきた。
(文責:木村)
場所:[昼食]平家の里(平家そば)香美町香住区余部2980
[例会]香美町香住区御崎 御崎公会堂
講師:岡辻増雄さん(御崎地区語り部)
■語り部
講師の岡辻さんは大正14年生まれの88歳。子どものころから歴史が好きで、おじいさんの語ってくれる昔話を何度も聞いて育った。それが頭に残り、求められて話をするようになり、今ではそれが生きがいとなっているという。耳が少し遠い、声にも張りがないとおっしゃりながら、背筋をピンと伸ばし、筋道立ててわかりやすくお話してくださった。
今回資料に使わせていただいた小冊子『御崎 平家村のおはなし』も岡辻さんのお話をベースに作られたものだ。
■平家落人の里
1185年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将が散り散りに落ち延びた。そのうち、門脇宰相平教盛、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門の乗った小舟が季節風によって西へ流され、伊笹岬の突端を曲がったあたりで山中に煙が上がっているのを見つけてたどり着いたのが、当時修行の場であった美伊神社である。そこで出会った森本浄実坊という荒野聖に諭され、この地に落ち着くことになった。三氏は当初、別々に分かれて住み、折に触れて集まっていたが、400年ほど経ったころ「源氏の追手が来ることももうないだろう」との判断で集まって住むことになり、今の御崎村が形成されたという。詳しい内容は上記小冊子を参照されたい。
■ 平家蕪(かぶら)
昼食に出されたお漬け物は平家蕪。この地に古くから自生している蕪で、森林を切り開いたところにも自然に生えてくる。農業試験場が持ち帰って栽培を試みたこともあったが同じものはできなかった。漬け物の商品化も試みたが、今でも山に入って採ってくる必要があるため量産できず、訪れたお客さんに提供する程度しか作られていないそうだ。岡辻さんの長男のお嫁さんが切り盛りされている蕎麦処「平家の里」でいただくことができる。
■ 百手(ももて)の儀式
毎年1月28日に行われる「百手」の儀式。平家の再興を祈念して、源氏に見立てた的に向けて101本の矢を射る行事である。地区の平内神社で行われるが、岡辻さんによると神事ではなくあくまでも「訓練」であるとのこと。「百手」という名前には「何回も繰り返して矢を射る」という意味があるそうだ。各地の平家村にも同じような行事が伝わっており、本数も様々だが、御崎の場合は、打ち初め(1本)+33本×3家(門脇・伊賀・矢引)+打ち終い(1本)で合計101本となっている。源氏がどうのという思いは今となってはまったくないが、これで負けん気が養われたのは確かだという。ちなみに、儀式の際などに使われる旗には揚羽蝶の紋が描かれているが、3家のうちの伊賀家の家紋を村の紋として使用しているという。
■ 近年の暮らし
現在、御崎地区には16世帯、約70人が住んでいる。昭和20年頃は48戸あったが、次第に減り、昭和35年頃までに35、6戸に。その後一気に24、5戸まで減ったが、近年の減少は緩やかである。現在住んでいる人は一度村を出て帰ってきた人も多く、そういった人は村に誇りを持っている。若いお嫁さんが意外と多い。御崎の子供は、小学校3年生まで余部小学校の御崎分校に通い、4年生からは本校に通う。現在の分校の児童数は小1、小2がひとりずつ。来年は各学年1人ずつになる予定だ。
村の大きな収入源になっているのは山椒の葉。山で自生している山椒を採って個人で出荷していたが、現在は苗を育てて栽培し、農協を通じてまとめて出荷している。岡辻さんはハウス栽培の先駆けでもある。ハウスで栽培すると10日早く出荷できる。トゲがあるので収穫が大変だが、少量で高い値が付くという。村全体で7、8haほど栽培している。例会後、案内していただいた平内神社への参道脇にも山椒が栽培されていた。
漁業は、2ヵ所(御崎と鎧)に定置網を設置しているが、近年は収入が減っている。観光客もそれほど来ない。
昔から水が貴重な地区で、火事は大きな被害になっていた。昭和11年に上水道が敷設され、今ではその問題は解消している。
自動車道の計画は昭和24年からあった。昭和45年に砂利道が敷設され、舗装道路が完成したのは昭和49年。昭和63年には灯台から浜坂までの海岸道路も開通し、便利になっている。
昔は烽火を上げて安否を確かめ合ったという話を聞いたことがあるが、自分の手で上げたとか実際に見たという話は聞いたことがないという。役場の方から、落人村として知られる畑、御崎、田久日でやってみようかという話が上がっているそうだ。
■ 歴史とともに
各地の平家落人村には同じような伝承が伝わっている。遠い昔のことでもあり、真偽のほどはよくわからないというのが正直なところだ。そのことについての岡辻さんの応えは明快だ。「歴史は信じるものです」。家でも地区でも歴史は大事。信じないことには地区の活性化もないですよと。ブームに乗じて作ったようなものでなく、家々に代々伝わってきたものを真摯に守り伝えている村の誇りがしみじみと伝わってきた。
(文責:木村)
| comments (0) | trackback (0) |
2012,11,14, Wednesday
◆ テーマ 「へぇー、800年の時空を超えた平家の想い」 ◆
~ もう聞けない! 88歳の語り部が伝える歴史 ~
毎年1月28日、平家落人の里・御崎集落で行われる百手の儀式。かつては(源氏の)目玉を的にしていたといわれる、いわば弓道(武芸)修練の行事。「観光行事ではないのです」。その一言が全てを語る。
NHK大河ドラマ「平清盛」の視聴率が伸び悩む中、卒寿を目前にした古老が語る。観光目的でも歴史ブームでもない。「私たちの祖先は、800年も前から源氏憎しの思いだけでこの地に生きてきた。ただそれだけです」。
壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ、逃れ逃れてようようこの地に安住し、密かに暮らしてきた。平家のDNAを連綿と重ねてきた。
今、御崎地区には若者が多く残り、町外からも若い嫁さんが嫁ぐ。日本海が眼下に広がるこの村には、活力がある。平家の末裔であることを語ることもない。しかし、ここには平家の魂が生き続けている。
日 時 2012年11月24日(土)午後1時~午後4時まで
場 所 昼食 : 平家の里(平家そば) ℡ 0796-34-0100
(香美町香住区余部2980)
例会会場: 御崎公会堂 (香美町香住区御崎)
講 師 岡辻増雄 氏(御崎地区 語り部)
日 程
12:00~ 集合・昼食 平家の里(平家そば)→御崎地区公会堂へ移動
13:00~ スタディー例会
15:30~ 会員トーク
16:00~ 閉会、お買い物ツアー(道の駅あまるべ)
出欠の〆切
11月22日(木)夕方までに
例会幹事
木村、住吉、高石
~ もう聞けない! 88歳の語り部が伝える歴史 ~
毎年1月28日、平家落人の里・御崎集落で行われる百手の儀式。かつては(源氏の)目玉を的にしていたといわれる、いわば弓道(武芸)修練の行事。「観光行事ではないのです」。その一言が全てを語る。
NHK大河ドラマ「平清盛」の視聴率が伸び悩む中、卒寿を目前にした古老が語る。観光目的でも歴史ブームでもない。「私たちの祖先は、800年も前から源氏憎しの思いだけでこの地に生きてきた。ただそれだけです」。
壇ノ浦の合戦で源氏に敗れ、逃れ逃れてようようこの地に安住し、密かに暮らしてきた。平家のDNAを連綿と重ねてきた。
今、御崎地区には若者が多く残り、町外からも若い嫁さんが嫁ぐ。日本海が眼下に広がるこの村には、活力がある。平家の末裔であることを語ることもない。しかし、ここには平家の魂が生き続けている。
日 時 2012年11月24日(土)午後1時~午後4時まで
場 所 昼食 : 平家の里(平家そば) ℡ 0796-34-0100
(香美町香住区余部2980)
例会会場: 御崎公会堂 (香美町香住区御崎)
講 師 岡辻増雄 氏(御崎地区 語り部)
日 程
12:00~ 集合・昼食 平家の里(平家そば)→御崎地区公会堂へ移動
13:00~ スタディー例会
15:30~ 会員トーク
16:00~ 閉会、お買い物ツアー(道の駅あまるべ)
出欠の〆切
11月22日(木)夕方までに
例会幹事
木村、住吉、高石
| comments (0) | trackback (0) |
2012,10,25, Thursday
日 時 2012年10月27日(土)
場 所 香美町香住区 畑 (畑公民館)
講 師 青山喜一さん 畑区長 (香美町消防団長)
■テーマの狙い
全国で数多い平家伝説の地の中心で、史跡に指定されている所。この土地の人は、矢立の松と共に今日まで暮らしてきた。樹齢数百年を経た老松が海抜500m余の山頂に、どーんと陣取っていた。それは正しく平家の象徴、赤い幟旗とを重ね合わせた心の情景は、今も変わってはいない。通常平家の落人部落といえば「隠れ里」のイメージが強いが、畑地区は広々とした平地である。そのあたりを学ぶことにする。
■はじめに
平家の落人伝説のある地は,大概 あまり人も通わぬへき地にあるが、今回お邪魔した香美町畑地区は海岸から佐津川沿いに6キロ海抜100m、谷のゆったりと平らけたところにある。この谷の一番奥は、三川権現のある三川地区であり、畑はそのずっと手前にありへき地と言う感じはあまりない。それもそのはずで、平家伝説の地は、畑地区の背後の標高500mほどの山の中にあり、それがいつの頃からか現在地に移り住んだと言われている。今回は畑地区区長、青山喜一さんから、その伝説のことや地域の発展への取り組みの熱い思いを伺った。
■畑地区の状況
地区の入り口に「平家之史跡畑」の石碑が立っている。地名は養蚕から始っている。大綺里→大綺村→機→畑。昭和16年当地の将来を見越して、桑畑を水田に変え稲作を提唱され実現されたのが、当地区平家の末裔と言われる伊賀平内左衛門氏である。
当時サイホンの技術なども使って水路も整備され、桑畑はすべて今の田んぼにされた功労者であり畑公民館には「火 田 豊 寧」の額がかかっていた。何代か前の香住町町長さんの揮毫とお見受けしたが、畑の地名の言われつまり、焼畑→火 田→「畑は豊かで平和である」と言う意味だろうと解釈した。地区を見渡しても平家の落人伝説を思わせるものは全くない。畑地区はかって64軒あったが明治44年6月13日火災で19軒焼けた。土蔵で残っていたのは2軒、壁下は竹ではなく全て木であった。今は33戸である。川を挟んで西畑、東畑と称している。
■落人が住みついたと言われる所
畑地区の裏山の山頂近くを平家平と総称し、御所が平、お屋敷、矢立松、走る場、陣ヶ平、馬冷し場,峰火場、烏帽子岩、古屋敷、天神屋敷と呼ばれる場所がある、地籍上の小字名ではない、烏帽子岩は夜、武具等を干す夜干し岩という説もある。この辺りは約30ヘクタールあり、地区民の生活と結びついていた生産の場、焼畑などの場所で平家かぶらが採れた。墓はこの場所では見つかっていない。整地をしたら饅頭石が出土したことがある(墓は元禄以降でないと作らない)。鎧刺しや刀の折れたもの、つぼ、食器なども出土した。刀に禄の字が読める。鎧刺しは今もある人が所有している。
■矢立の松
陣ヶ平に1本そびえ立っていた樹齢300年の古松、武士たちが弓矢の的にして訓練していたと伝えられる松を言う。畑地区のシンボルだったが松喰い虫の被害にあい、昭和58年12月に村の関係者数人の立会いのもとに伐採された。その幹の一部が地区公民館に据え置かれている。
矢立の松は地区民の農林生産活動の拠点だった平家平に登る途中にあり、目印し、休憩場所、落ち合い場所、物の一時置き場所として地区民の生活に深く根付き愛着を持たれていた。
■伊賀平内左衛門家
文治元年(1185年)壇の浦で源平争乱のクライマックス、壇の浦の合戦で安徳天皇が入水し、侍大将の伊賀平内左衛門も戦死したと言うのが平家物語のストーリーだが、そうではなくて天皇も一部の公達、武士たちもうまく生きのび各地に隠れ住んだと言うのが、いわゆる平家落人伝説である。伊賀平内左衛門は、はじめ香住の御崎に隠れ住み、のちに畑の山中に移り住んだと言われている。そしていつの頃か山を下り現在の畑に住むようになったそうである。その当時畑は養蚕、織物で暮らしていた。六軒衆と呼ばれる家系があり今でも三軒が現存している。
畑地区内では伊賀家の分家があるが、伊賀ではなく「垣」を貰い「井垣」「谷垣」などの姓になっている。御崎や田久日は全村が落人の家という構成になっているようだが、畑では伊賀家一軒のみが平家の末裔であることが特徴的である。
畑の氏神様、八柱神社の境内の近くに、伊賀家先祖の墓と言われている台石のみ残る古墓がある。現当主は神戸に住んでおられ、畑では八柱神社の手前に広大な屋敷跡が残っている。伊賀家の家紋は本家分家とも同じである。
■今地元では
地区民の落人部落であるという関心はあまり高いとは言えないようである。伝統行事もなく落人伝説を通じて地区の振興に役立たせる振興組織もないが、区長の声かけには全戸が協力してくれている。町の補助により「平家落人の村?」という看板も立てた。
この佐津谷?の地区の運動会では、畑地区は赤い旗(平家の旗)で必ず優勝する、赤は戦う勇気を示す色である。それから伝説にもとずいて、畑、御崎、田久日の、のろし台からのろしを上げ合うイベント開催の話もある。実現すれば一躍脚光を浴びるであろう。
■ おわりに
但馬学研究会の平成24年度のテーマは但馬平家物語で、8月例会は海の田久日だったので今回は山の畑を選んだ、山と言っても畑は交通至便な平地で伝説の受け継がれ方の一つとして面白い地区だった。かっての士の夢の跡平家平へは、今では四駆車で登れるようなので、いつか番外編として登ってみたいと思っている。その際は皆さんのご参加をお願いしこのレポートを閉じることにする。
【担当者】久保、藤井、飯尾 【文 責】飯尾文男
場 所 香美町香住区 畑 (畑公民館)
講 師 青山喜一さん 畑区長 (香美町消防団長)
■テーマの狙い
全国で数多い平家伝説の地の中心で、史跡に指定されている所。この土地の人は、矢立の松と共に今日まで暮らしてきた。樹齢数百年を経た老松が海抜500m余の山頂に、どーんと陣取っていた。それは正しく平家の象徴、赤い幟旗とを重ね合わせた心の情景は、今も変わってはいない。通常平家の落人部落といえば「隠れ里」のイメージが強いが、畑地区は広々とした平地である。そのあたりを学ぶことにする。
■はじめに
平家の落人伝説のある地は,大概 あまり人も通わぬへき地にあるが、今回お邪魔した香美町畑地区は海岸から佐津川沿いに6キロ海抜100m、谷のゆったりと平らけたところにある。この谷の一番奥は、三川権現のある三川地区であり、畑はそのずっと手前にありへき地と言う感じはあまりない。それもそのはずで、平家伝説の地は、畑地区の背後の標高500mほどの山の中にあり、それがいつの頃からか現在地に移り住んだと言われている。今回は畑地区区長、青山喜一さんから、その伝説のことや地域の発展への取り組みの熱い思いを伺った。
■畑地区の状況
地区の入り口に「平家之史跡畑」の石碑が立っている。地名は養蚕から始っている。大綺里→大綺村→機→畑。昭和16年当地の将来を見越して、桑畑を水田に変え稲作を提唱され実現されたのが、当地区平家の末裔と言われる伊賀平内左衛門氏である。
当時サイホンの技術なども使って水路も整備され、桑畑はすべて今の田んぼにされた功労者であり畑公民館には「火 田 豊 寧」の額がかかっていた。何代か前の香住町町長さんの揮毫とお見受けしたが、畑の地名の言われつまり、焼畑→火 田→「畑は豊かで平和である」と言う意味だろうと解釈した。地区を見渡しても平家の落人伝説を思わせるものは全くない。畑地区はかって64軒あったが明治44年6月13日火災で19軒焼けた。土蔵で残っていたのは2軒、壁下は竹ではなく全て木であった。今は33戸である。川を挟んで西畑、東畑と称している。
■落人が住みついたと言われる所
畑地区の裏山の山頂近くを平家平と総称し、御所が平、お屋敷、矢立松、走る場、陣ヶ平、馬冷し場,峰火場、烏帽子岩、古屋敷、天神屋敷と呼ばれる場所がある、地籍上の小字名ではない、烏帽子岩は夜、武具等を干す夜干し岩という説もある。この辺りは約30ヘクタールあり、地区民の生活と結びついていた生産の場、焼畑などの場所で平家かぶらが採れた。墓はこの場所では見つかっていない。整地をしたら饅頭石が出土したことがある(墓は元禄以降でないと作らない)。鎧刺しや刀の折れたもの、つぼ、食器なども出土した。刀に禄の字が読める。鎧刺しは今もある人が所有している。
■矢立の松
陣ヶ平に1本そびえ立っていた樹齢300年の古松、武士たちが弓矢の的にして訓練していたと伝えられる松を言う。畑地区のシンボルだったが松喰い虫の被害にあい、昭和58年12月に村の関係者数人の立会いのもとに伐採された。その幹の一部が地区公民館に据え置かれている。
矢立の松は地区民の農林生産活動の拠点だった平家平に登る途中にあり、目印し、休憩場所、落ち合い場所、物の一時置き場所として地区民の生活に深く根付き愛着を持たれていた。
■伊賀平内左衛門家
文治元年(1185年)壇の浦で源平争乱のクライマックス、壇の浦の合戦で安徳天皇が入水し、侍大将の伊賀平内左衛門も戦死したと言うのが平家物語のストーリーだが、そうではなくて天皇も一部の公達、武士たちもうまく生きのび各地に隠れ住んだと言うのが、いわゆる平家落人伝説である。伊賀平内左衛門は、はじめ香住の御崎に隠れ住み、のちに畑の山中に移り住んだと言われている。そしていつの頃か山を下り現在の畑に住むようになったそうである。その当時畑は養蚕、織物で暮らしていた。六軒衆と呼ばれる家系があり今でも三軒が現存している。
畑地区内では伊賀家の分家があるが、伊賀ではなく「垣」を貰い「井垣」「谷垣」などの姓になっている。御崎や田久日は全村が落人の家という構成になっているようだが、畑では伊賀家一軒のみが平家の末裔であることが特徴的である。
畑の氏神様、八柱神社の境内の近くに、伊賀家先祖の墓と言われている台石のみ残る古墓がある。現当主は神戸に住んでおられ、畑では八柱神社の手前に広大な屋敷跡が残っている。伊賀家の家紋は本家分家とも同じである。
■今地元では
地区民の落人部落であるという関心はあまり高いとは言えないようである。伝統行事もなく落人伝説を通じて地区の振興に役立たせる振興組織もないが、区長の声かけには全戸が協力してくれている。町の補助により「平家落人の村?」という看板も立てた。
この佐津谷?の地区の運動会では、畑地区は赤い旗(平家の旗)で必ず優勝する、赤は戦う勇気を示す色である。それから伝説にもとずいて、畑、御崎、田久日の、のろし台からのろしを上げ合うイベント開催の話もある。実現すれば一躍脚光を浴びるであろう。
■ おわりに
但馬学研究会の平成24年度のテーマは但馬平家物語で、8月例会は海の田久日だったので今回は山の畑を選んだ、山と言っても畑は交通至便な平地で伝説の受け継がれ方の一つとして面白い地区だった。かっての士の夢の跡平家平へは、今では四駆車で登れるようなので、いつか番外編として登ってみたいと思っている。その際は皆さんのご参加をお願いしこのレポートを閉じることにする。
【担当者】久保、藤井、飯尾 【文 責】飯尾文男
| comments (0) | trackback (0) |
2012,10,18, Thursday
◆テーマ 平家物語(畑聚落編)◆
全国で数多い平家聚落の中で、史跡に指定されている所。
この土地の人は、矢立の松と共に今日まで暮らしてきた。樹齢数百年を経た老松が、海抜500メートル余の山頂に、どーんと陣取っていた。それは正しく平家の象徴、赤い幟旗とを重ね合わせた心の情景は、今も変ってはいない。
平家かぶらは、平家の聚落でしか育たない、と聞くが本当ですか?
そんな疑問にも答えて戴きながら、皆さんと一緒にお話を伺います。
日時 : 2012年10月27日(土) 12:00~16:00
場所 : 畑公民館 (香美町香住区畑)
講師 : 青山喜一氏 (畑 区長、香美町消防団長)
スケジュール
12:00~13:00 集合 ・ 昼食
13:00~15:00 講話
15:00~15:30 質問
15:30~16:00 会員トーク (閉会)
参加締切 10月25日(木)
例会担当者 久保 藤井 飯尾
※ 会場への道順
豊岡市街地から.鳥取、香美方面、178号線を進み江野トンネル、土生トンネルを下りると、直ぐ香住、余部へと続く道路が左側にある。
それが178号線になっているが、この道路には入らず直進する(柴山、佐津方面に向かう)これが256号線で、少し走ると左側にJAたじま、さづ支店のGSと、マーケットがある。そこを左に曲がる(256号線 三川権現)の標識がある.後は1本道で次の集落が、畑の会場となる。
全国で数多い平家聚落の中で、史跡に指定されている所。
この土地の人は、矢立の松と共に今日まで暮らしてきた。樹齢数百年を経た老松が、海抜500メートル余の山頂に、どーんと陣取っていた。それは正しく平家の象徴、赤い幟旗とを重ね合わせた心の情景は、今も変ってはいない。
平家かぶらは、平家の聚落でしか育たない、と聞くが本当ですか?
そんな疑問にも答えて戴きながら、皆さんと一緒にお話を伺います。
日時 : 2012年10月27日(土) 12:00~16:00
場所 : 畑公民館 (香美町香住区畑)
講師 : 青山喜一氏 (畑 区長、香美町消防団長)
スケジュール
12:00~13:00 集合 ・ 昼食
13:00~15:00 講話
15:00~15:30 質問
15:30~16:00 会員トーク (閉会)
参加締切 10月25日(木)
例会担当者 久保 藤井 飯尾
※ 会場への道順
豊岡市街地から.鳥取、香美方面、178号線を進み江野トンネル、土生トンネルを下りると、直ぐ香住、余部へと続く道路が左側にある。
それが178号線になっているが、この道路には入らず直進する(柴山、佐津方面に向かう)これが256号線で、少し走ると左側にJAたじま、さづ支店のGSと、マーケットがある。そこを左に曲がる(256号線 三川権現)の標識がある.後は1本道で次の集落が、畑の会場となる。
| comments (0) | trackback (0) |
TOP PAGE △