2005年8月例会 「SABO」砂防(さぼう)
開催月日 : 8月27日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : 「SABO」砂防(さぼう)
講 師   : 赤木新太郎 氏
場 所   : 豊岡市中筋 赤木邸(豊岡市引野)
参加者   : 島垣 太田 中安 椿野 中田 峠 浜野 中嶋 成田 能登
         木村ひ 衣川 西躰 守山 中尾 戸田 上田 岩本 会員外(2名)
担 当   : 太田 衣川 西躰

赤木家
所在地  豊岡市引野972
構 造  木造、3階建て、瓦葺
規 模  敷地面積 2,870平方メートル、 延べ床面積 1,150平方メートル
竣 工  明治3年

 先祖は山名宗全の部下で日高町上郷に城を持った赤木丹後守が初代である。代々大庄屋として大地主であり大山林王であった。安政年間、代官所は財政逼迫で年貢米は耐えられぬほど加重された。これではとても百姓は生きてゆけぬというところまできた。祖父甚太夫正隆(10代)は意を決して単身出府、紀尾井坂で将軍に直訴した。但馬の「佐倉惣五郎」である。赤木邸は、豊岡・出石・日高の正三角形の中心に位置している
 このあたりは天領で、生野と久美浜の代官所が交代で管轄していた。引野という地名は、低い野原に由来。
 昔から一度洪水になるとあたり一面は冠水してしまう。そこで屋敷全体は堅牢な石垣で周囲より高いところで約2m嵩上げされて造成されている。



円山川氾濫のとき水面は門階段の最上段まで達したと伝えられ、今も土蔵の軒下には、周辺の避難民に飲料水や炊き出しの食料を配るための木船が吊るしてある。
 赤木家がこの地域の防災の拠点であったろう。

  

水防林(竹藪)や堅牢な玄武岩の石垣、そうして2mほど嵩上げした宅地など、水防対策に基づいて設計されており、洪水に対し二重三重の防御策を備えている。特に飲料水の確保には気を遣い、深さの違う井戸が二本掘ってある。
 また、堤防が切れても、家は浸からないと言われていた。

 全国の砂防工事に於いて多大な功績を残し「砂防の神様」と呼ばれた、赤木正雄(明治20年生まれ)はこの家に育った。子どもの頃の環境が如何に大切であるか考えるところが大きい。

 当主自ら牛を飼う様な質素な家です。赤木一雄(12代、赤木博士の兄)は内村鑑三氏の影響を受けたようだ。曹洞宗の永平寺に修行に行っていた。京極杞陽先生に師事し、句会に参加したり、自ら催したりしていた。赤木一彦(13代)の言葉に、「うちの家は汗水垂らして働き、新田開発をしたり、養蚕をし て身代を築いて来た。けっして高利貸しなどで増やしたのではない、このことは誇りに思う。」とある

赤木正雄博士について
 明治20年(1887年)3月14日、引野村赤木甚太夫の次男として生まれた。明治41年、県立豊岡中学校(6期生)から一高に進み、ときの校長新渡戸稲造博士の訓話に感じて治水事業を志し、東京帝大卒業後、大正3年内務省に入った。

 “砂防”にかけた一生の始まりである。滋賀県瀬田川支流を手始めに吉野川・淀川・立山山系・飛騨山系・六甲山系など、自ら主任として指揮した砂防工事の足跡は全国に及び、この間にはウィーン農科大学に学び、京都帝大・日本大学では教鞭をとっている。

 昭和17年退官して、昭和21年貴族院議員となり、翌昭和22年には参議院議員に当選、建設政務次官などを歴任、昭和32年落選後は砂防会館を拠点に全国治水砂防協会専務理事として活躍した。
 昭和46年6月豊岡市名誉市民に推され、同年11月には文化勲章を授与された。
 昭和47年9月没。85歳。引野の生家に近く「生誕の地」碑が、円山大橋西端には銅像が立っている。甥の須留喜は都立大教授で、都政研究の権威といわれる。

豊岡市史(抜粋:原稿どおり)

 

赤木邸は明治・大正時代の代表的な但馬の農村大地主の住宅で、兵庫県の「住宅百選」に選ばれ、その中でも特に「住宅十選」に選ばれている。現在の豊岡市竹野町出身の宮大工、北条伝四郎による設計施工で、明治3年の竣工である。約130年が経過しているが、主屋をはじめ土蔵群・屋敷塀・門・番人小屋・作業
 場・傭人部屋等、殆どのものがしっかりとほぼ原形のまま残っている。

 東面には中央に番人小屋付の正門を置き、南側に作業場、東南角に籾蔵を続ける。正門より10m程敷地中央寄りに、東面して母屋を置き、母屋の背面北西角に離れ(北涼館)、背面中央にもう1棟の離れを突き出す。
 母屋北側に庭園を配置し、東面の番人小屋から北面を屋敷塀で囲う。母屋からは東面に向けて、庭境に仕切塀付きの中門・厠を置き、庭園と母屋前の庭とを仕切る。
 西面は、北西隅から下蔵・宝蔵等を一棟にした2階建の連蔵をおき、続いて南に味噌蔵・米蔵・倉庫、そして、西面南寄りに西門を開き、物置を付す。物置から矩折れに、東南角の蔵まで屋敷塀を廻す。

 

農村集落の景観と敷地の構成

田畑や濠に囲まれた、東西45m・南北65m・約900坪の広大な敷地は、水害に備えて嵩上げされ、西面と北面はこの近くの玄武洞から採取された玄武岩を水平に幅一尺くらいに空積みしてノミで面取り細工した精巧で珍しい仕上の石垣で覆い、正面及び濠のある南面は崩れ積みの石垣で覆われている。石垣は2・3年かけて積んだらしいが、当初は全て玄武岩の水平積みの予定だったが、あまりにも手間が掛り途中で仕様を変更したらしい。

 屋敷の西側を土蔵や物置でほぼ全面的に塞ぎ、他の3方を屋敷塀で囲み、東南の隅に土蔵と作業小屋及び正面に番人小屋付きの正門を配置し、敷地中央やや北よりに民家では珍しい懸魚が取り付けられた主屋を構え、樫、欅、松などの巨木で覆われた姿は、この地域の周辺環境に良く馴染み他に類を見ることのない景観である。

 

奥の間と庭

 「奥の間」を囲むように工夫を凝らした庭園がある。出石藩の家老屋敷にあったもので、牛車で運ばれて来た花梨の大木や、樫などのこの地域のシンボル的樹木、及び日高国分寺からもらったと言われる礎石の踏み石、実はこの石は踏んではならないそうである。所有の田圃から出てきた礎石。また枯れ山水の大きな石組みの川と滝、石橋など1級の庭である。

 「表門」は巾一間で脇に潜り戸が付くが、屋敷の大きさに比べやや小振りである。「身分相応」「質実剛健」と言う赤木家の家訓から来るものであろうか。

西門

 一繋がりの西側蔵群の南寄りに、「西門」を開く。「西門」の外側の盛土部には竹藪が設けられ非常時にこの竹藪の竹を切り、筏を組んだり、蛇籠に利用するための防災林の役割を果たしている。いわば「赤木の小森」である。

掘り抜き井戸(自噴水)

 野菜や農機具など、必要な場合、屋敷に持ち込む前に洗えるようになっていた。その排水が、あたかも郡上八幡にある宗祇水のような構造で、前の池に流れ込むようになっていた。また河川水位の目安にもなったようだ。





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