2006年1月例会 「但馬禿山考 ─ 里山・灌漑用水の管理と秩序」
開催月日 : 1月28日(土)
開催市町 : 朝来市和田山町
テーマ   : 「但馬禿山考 ─ 里山・灌漑用水の管理と秩序」
講 師   : 宿南 保氏 (朝来市史編纂室室長)
場 所   : 竹田コミュニティセンター(JR竹田駅前)
参加者   : 島垣・中田・峠・能登・中嶋・友田・衣川・粂井・守山・太田
         細見・西躰・小川・木村   谷下・谷岡・木村(会員外)
担 当   : 戸田、小川、木村

但馬の山は昔、禿山だった??
こんな話が飛び出したのは、昨年の12月例会。「昔の人は豊かな自然と共生していたとか思われがちだけど、実際には禿山だらけだったんでしょうね」…三田市にある「県立 人と自然の博物館」で案内役の三橋さんがつぶやかれた言葉に一同あっけにとられた。たしかに昔は薪の需要も多かったはずで、そのために木が伐られてたというのもうなずける。しかし、どの程度の「禿」だったのか。昔って、いつごろ?但馬一円の話?疑問はどんどん膨らんだ。そこで今回は、但馬全域の史実に詳しい宿南先生から、江戸時代の人々がどのように山や水を利用してきたか、お話を伺うことになった。

 

「赤山」、すなわち「禿山」
結論からいうと、江戸時代の山には禿山が多かった。山には個人の持ち山と共有山(入会山)があるが、禿山が多かったのは共有山の方である。明治十年代に設立された勧業会でも、暴風雨の際、赤山が崩れて谷川を埋めて困ると問題になっていた記録が残っている。赤山というのは、土がむき出しになった山、すなわち禿山である。

昔は焚き木の需要が多かったが、持ち山のない大多数の人は共有山に入って焚き木を取る。しかし、意外なことに、焚き木よりも「草」の方が切実だったそうだ。農家の人は山の草を刈り、積み上げて堆肥を作っていた(肥草)。したがって、草の生える面積が減るようなもの(行李柳など)の栽培を禁止した入会山もあったという。入会山の面積は個人所有の山よりもはるかに広かったが、もちろんすべてが禿山になったわけではなく、自然にまかせた山もあった。
出石の場合
出石に多かった武士とその家族は城山を利用した。一般の町の人は、藩に米一斗二升をおさめて柴札(鑑札)を入手して、指定された入会山へ入っていた。

焚き木は江戸時代では重要な商品であり、出石へは、糸井や朝日、奥山などから売りに来ていた。円山川を下る舟の積荷も米に次いで焚き木が多かった。近代になっても需要は膨らみ続け、いくつもの村が入った袴狭(はかざ)の山(白糸の滝の谷一帯)などはなかなか木が育たず、赤土がむき出しになった禿山状態であったという。

禿山がなくなった時期については、化学肥料が生産されるようになり、肥草が必要なくなった頃からではないかと、宿南さんは推測する。燃料が石油に代わったのは戦後なので、焚き木の需要は第二次世界大戦ごろまであったという。
村落共同体の意識を育てた山と水
江戸時代の農村共同体を支えていたのは、山と水であった。特に、水(灌漑用水)は分割することができず、谷川や用水路の近くに住む人で共有するしかない。井堰の管理、用水路の維持、水の管理が村落共同体としての意識を育てていた。
諏訪神社の湧水の場合
和田山町竹田の諏訪神社。この神社の湧水を巡っては、竹田と、隣接する加都(かつ)の間で争いが繰り広げられた。

元々は、北側の加都の農民が水田を作るのに湧水を利用していた。ところが、文化年間に拝殿改築工事に伴って流れを南側に移したため、畑を作っていた竹田の農民が水田を作り出し、加都で水が不足しがちになる。近隣の庄屋たちの仲裁により、いったんは加都の「先占めの権利」が認められたが、しばらくすると竹田も使い出し、争いが再燃。結局、竹田に出ている水を竹田の者が使うことを差し止めることはできないとされ、竹田側に所有権があると認められた。ただ、代償として加都の庄屋に小作料を収めるという合意がなされた。

このように、先占めの権利(既得権)が認められることもあるが、水の出てきたところの村が所有者であるとするのが、最も筋が通ると考えられた。

 

大川(円山川)の利用
円山川などの大川に井堰を作る技術は、江戸時代から始まった。川にくいを打ち、石をはめて水を堰き止めた。

[和田山町竹田の絹屋溝] ─ 竹田の町なかを流れる「絹屋溝」および「絹屋井堰」は文政10年(1827年)に作られ、防火用水と水車に利用された。しかし、以前からあった加都の井堰の上流に井堰を作ろうとしたため、加都が大反対。近隣の庄屋の仲裁の結果、水量から考えると、加都にそれほど不利益にならないと判断された。加都の水不足(特に田植えごろ)を防ぐため、田植えから1か月間は竹田の用水路に水を上げないことを条件に、円満に解決された(例外的)。

[八鹿町伊佐の例] ─ 八鹿駅裏側には上小田の井堰、またその200mほど下流に伊佐の井堰がある。この伊佐の井堰は但馬で最も早く建設された井堰で、右岸の坂本からトンネルを通って伊佐に水を運んでいる。井堰、トンネルの建設後、伊佐には大きな水田が開け、村が出来た。

その後、上小田の井堰がそれより上流に出来ている。これは通常であれば許されないことだが、実は、上小田の井堰を作った人は、伊佐の新田地主の家から上小田に養子に入った人だったため、伊佐が協力したようである。その代わりなのかどうなのか、上小田の田んぼは、近隣地区の田植えが終わるまで、田植えをしない。この慣習は今でも続いているそうだ。

地主同士の姻戚関係があったこのケースも例外的で、一般的には、水取りの権利の問題はなかなか難しい問題だった。

 

円山川の主な大洪水の記録
[慶長11年(1606年)6月27日の大洪水] ─ 八鹿町高柳の大庄屋、福田ソウエモンが屋根の上に上がったまま家ごと流されたという記録が残っている。

また、八鹿町米里のお当(おとう)渡しが、慶長11年から10年ほど中断している(文書に記録がない)。お当渡しは、辰巳の方向(南東:冬至の太陽が昇る方角)に鎮座する五穀豊穣の神様を地主明神として祀るもので、11月の巳の日(冬至の後の巳の日)に執り行う。民俗行事では、このように方位の干支と日暦の干支を一致させて行うことが多い。

当時祀っていたのは、中世の財産家仲間。大洪水のため10年ほど中断した後、村中の人が祀るようになったと考えられる。

[貞享3年(1686年)7月25日の大洪水] ─ 大屋の玉見の神社が流され、八鹿の寄宮(よのみや)に流れ着いた。これが、寄宮の地名の由来になった。



講師の宿南保さんは、八鹿町史、養父町史などの編纂に携わってこられた、江戸時代を中心とした但馬の近世史の第一人者。
禿山や水の話だけでなく、お当渡しや、養父神社のお走り祭の初期の頃に見られた方位信仰など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。
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2005年12月例会 『兵庫の自然・風土と地球環境を学ぶ』~県立人と自然の博物館見学と忘年会
開催市町 : 三田市
テーマ  : 「兵庫の自然・風土と地球環境を学ぶ」
講 師  : 三橋弘宗さん(主任研究員、兵庫県立大学講師)
参加者  :
担 当  : 中田
   


今回は丹波に遠征しました。兵庫県立「人と自然の博物館」を見学し、研究員の三橋弘宗さんより館内の案内と研究テーマのお話等をお聞きした。この博物館は身近な自然と風土と地球規模での自然と環境、このふたつのテーマを扱っている。但馬学と言うローカルな活動・研究を地球・環境という大きな視野で考えてみる必要があるのではないかと考え、今回の例会の運びとなった。



三橋さんは、流域生態研究グループの主任研究員である。私たちと水の関わりを、生き物やヒトの生活、文化、歴史などの視点から語っていただく。これからの活動テーマのヒントとして「湧水」「流域の牧草地と遊水地の関係」「砂防ダムとヨシの群生、ホタルの数の関係」など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。



第2部は、丹波篠山に移動し、鍋囲炉裏を囲みながらボタン鍋の忘年会である。今日の三橋さんのお話を思い起こしながら、今年の活動を振り返ったり、来年へ向けて何をするのか、を話し合った。最後にみんなから、今日学んだこと、印象に残ったこと、重要と思ったこと、などを「キーワード」として順番に発表した。

「禿げ山」、「自然科学の視点」、「全体を観る〜砂防→砂地→ヨシ→ホタル」、「5人家族が使用する1週間の水の量」、「発想の転換〜崖崩れは緑を育む」、「熊の出没〜緑が民家近くまで迫ってきた」、「森は万能ではない」、「寒の水」、「森の香りが大切」、「山里の知恵」

5時半から始めた食事も気がつけば9時を回っている。


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2005年11月 「森と水 ─ 山の恵みと、木々の嘆き」
開催月日 : 11月26日(土)
開催市町 : 養父市大屋町
テーマ   : 「森と水 ─ 山の恵みと、木々の嘆き」
講 師   : 田村 準之助さん (元 森林組合、森と緑の公社、県民局勤務)
場 所   : 養父市大屋地域局
参加者  : 衣川、能登、中田、中島、成田、西体、浜野、戸田、峠、
       高石、太田、木村、粂井、島垣、向井(一般)
担 当   : 島垣、戸田、小川、友田(記録)

2005年11月、養父市大屋町の大屋地域局で「森と水」をテーマに例会がもたれた。講師は森林組合に37年間勤めた大屋町の田村準之助さん。まず養父市大屋地域局の屋上に上がり、東にそびえる大屋富士と呼ばれている雄大な山を見ながら、林相を紹介していただいた。
 頂上付近の濃い緑は県有林でヒノキが植林されている。下は地元の大屋市場区有林や私有林となっている。正面は下まで針葉樹の植林で埋まっている。私有林には雑木(ざつき)が残っている。右のなるい(なだらかな)あたりは昔は畑があったが、今は山に戻っている。左のほうに昔からのヒノキ林を伐ったあとがあり、植林をしなかったら、最初は雑木が生え、やがて松が生えてきた。
 田村さんは、「大屋富士を見て今日の話の参考にしてほしい。『大屋のジョージョー、有名ジョー』と言われるようです」と、大屋弁が混じるのを照れながら話を続ける。



■山林の変遷
 戦前から船の材料などに木材の供出(軍事用などか)が始まり、戦後は燃料用に木炭を大量に焼いて出した。戦争で家屋が焼失し、木を乱伐した。木材価格が高騰し、木がどんどん伐られた。このため、昭和26年ごろから失業対策で造林をするようになった。
 しかし乱伐は進み、山が裸になっていくと、台風が来るたびに災害が起きるようになった。昭和30年代になって、「全山緑化」の国のかけ声でスギ・ヒノキ・マツを植える本格的な造林事業が始まる。
 国土保全・災害対策と建築用材確保にねらいがあったようだ。針葉樹は一時的な保水力がある。夕立はだいたい3回ほど強い雨が降って止み、これを「三降り」と言った。山仕事に行って夕立に遭い、針葉樹の下に逃げると三降りでも濡れなかったが、広葉樹の下だと一降りでずぶ濡れになったと田村さんは体験から言う。葉に蓄えられる保水力は針葉樹のほうが上ということである。
 苗木代は賄えるだけの補助金が出た。また「官行造林」と言って、区の共有山を国のお金で植林し、50年後に伐採したとき、所有形態によって率が変わるが国に4割、区に6割といった内容の造林事業が進んだ。区(ムラ)の負担はなくいい話だった。昔は「一財産できる」「左うちわで暮らせる」とムラは考えた。県や町も面積は少なくなるが同じような制度を作った。
 こうして、人工造林が一気に進み、広葉樹が伐られて山は裾から頂上まで針葉樹に変わっていった。ピークの昭和38年ごろは、1年に300ヘクタールを大屋町域で植林している。旧大屋町の面積は1万4,000ヘクタール、そのうち1万2,600ヘクタール(90%)が山であり、現在、山の面積のうち 7000ヘクタールを人工林が占めている。
 しかし、伐採の適期となった今、木材価格が低迷し、伐っても引きあわない。

■山の恵み
 山は尾根があって谷があってせせらぎがあって、父に叱られたとき、職場で叱られたとき、どんなときも毎日毎日山へ行って田村さんは癒される。「春の緑になりきらない広葉樹林はとてもきれい。落葉した広葉樹を見ると雪を待つ」「国土の8割が山。雨の8割は山に降る。水の話は山の話。山を守ることは水を守ること」と、山を愛し、山を歩く。山は人もけものも養う。
 山は水の供給源である。頂上はからからだが、少し下るとわずかな窪みが出てくる。土を掻いてやると湿っぽい。谷の上からの入り口で、峪(さこ)と山で働く人々は言う。さらに少し下ると土が光る。指を刺すとポツポツ水滴が出てくる。もう少し下って指を刺すとチョロチョロ水が出てくる。山の水源はこの峪と湧き水がある。
 田村さんが大屋の大杉地区の関宮との尾根を歩いたとき、ズブズブとふんごんだ。「あんた。そこに入ったらあかんで」と村の人が叫び、「腰まで浸かって出られなくなる」と言われた。また加保のミズバショウも尾根の湿地だ。天滝の上の杉が沢高原にも、大根を作るまでは湿地があった。氷ノ山(田村さんは「ひょうのやま」と呼ぶ)も頂上近くに古生沼がある。これらはいずれも尾根上だが、氷ノ山から続く水脈が湧いていると言う。地元の人はこれを「尾水(おみず)」と呼んでいる。

■木々の嘆き
 山の上にはマツ、その下にヒノキ、その下にスギを植える。マツは頂上や尾根などが適し赤土など痩せた土地で育つ。真っ直ぐ伸びた直根が下りるので、幹が強く倒れにくく山の保全に優れている。
峪中(さこなか)はスギがよい。スギは肥沃な土地を好む。ヒノキやマツは峪中では枯れる。ケヤキも肥沃な土地がよい。大きな根を張るので岩があっても育つ。頂上には松(赤土)、直根が下りるので上の部分が強い。広葉樹のコナラやクヌギは根がとても太い。幹を伐ってもまた芽が出て幹が育つ。
山仕事する人は、ここに何を植えるのがよいか分かっている。しかし、大がかりな造林が進み、苗木がどんどん来る。どこに植えるか考えることがおろそかになってしまい、適地適木が崩れた。

 

森林組合職員として造林事業に携わる田村さんは山をよく知り、全山緑化には疑問をもってきた。「人間社会は男女半々で保ててきた。山も人工林は天然林と半々までだ。悲しいかな大屋は人工林が半分をかなり超えている。但馬では8割いっている町もある」。
 森林作業員の通年雇用制度が生まれたが、但馬は雪のため冬の仕事がない。このため人手が足らない県南部に冬は出かけることにした。南は痩せた土地が多い。せき悪林改良事業で「スギは無理でもヒノキなら育つだろう。肥料木を一緒に植えなさい」と向こうで指導を受けた。向こうに適したマツの植林もした。マツの苗は直根が切ってある。切った直根をもう出てこない。植えてもやがて倒れるものが多い。でも植林したマツの種が落ちて実生が出てくる。今はその天然更新のマツが育っている。
 向こうの技術者と相談して、前に生えていた樹種を交ぜて植えることができるようになり、ヤマモモやウバメガシなども植林するようになった。さらに林相改良事業として、広葉樹の植林事業もするようになった。三木市にある兵庫県立三木山森林公園では、平成16年台風23号の被害写真が展示されている。森林の荒廃が氾濫の原因になったことを訴える写真だ。

■山が危ない――台風23号と風倒木
 平成16年台風23号で養父市大屋地域はとりわけ規模の大きな風倒木被害を蒙った。原因を田村さんは次のようにみる。 豪雨が降ったうえに、強い風で枝葉に貯まった水が落ちた。樋の水が流れるような大量の水が幹を伝う。風が強くても太い木は幹の途中で折れずに、木が大きく揺れて根が切れていき、やがて根から倒れる。根が起きた穴に水がどんどん入り、土砂が崩れ、林が、山が崩れていった。太いスギ林に被害が多かったのはこんな仕組みだ。 峪から谷へ、そして川へ、植林をしたスギもろとも土砂が流れ出した。下流の橋脚には流れてきた倒木が大量にひっかかって流れをふさぎ、水があふれた。浸水した田畑や住宅に倒木が大量に流れ着いた。 田村さんの家の周りでも、全山緑化した山から大量の水が出てきて、家が危なかったようだ。風倒木被害があったのは、たいていスギの人工林だ。間伐など山の手入れができていない。 「人の手で植え育てたものは、しっかり根付くように守ってやらなければいけない。山を放置していると、自然災害になすすべがない。災害の根本は山だ」と強調する。但馬でも里山保全や広葉樹植林の動きが広がってきた。「でも今度は、広葉樹がいいからといって全山ケヤキなんてしないでください」


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2005年10月例会 「田倉山火山と湧き水」
開催月日 : 10月22日(土)
開催市町 : 朝来市和田山町
テーマ   : 「田倉山火山と湧き水」
講 師   : 工藤 智己氏(日本鉱物学会会員)
         北垣 隆司氏(朝来市上水道課長)
         岡田 治一氏(兵庫県八鹿土木事務所)
場 所   : 石部神社(朝来市和田山町白井地区)~大森湧水~大路ダム
参加者   : 住吉・浜野・細見・能登・藤原j・峠・成田・高石・木村・小川
         島垣・友田・西躰・粂井 会員外1名
担 当   : 浜野(記録)、細見、住吉

京都府の夜久野にある田倉山(通称たから山)の噴火によって、夜久野は火山灰の豊かな台地ができ、その地層を潜って和田山町宮の石部神社に「衣摺の泉」と言われる湧き水が出てきています。湧き水は地域でどう活用されて今に至るのかを知りたいと訪ねました。

 

工藤 智巳さんの話
●衣摺の泉(石部神社の清水池)と田倉山
 和田山町宮区の石部神社に往古よりこんこんと清水湧く“神の池”がある。石部神社は、中世に刀我郷衣摺神社といったようだ。(「但馬の国大田文」)
 この水は山から谷へ寄せ集まってくる水でなくて、湧き水である。池の藻を見ると、水がきれいなところにだけ生える藻がある。少し黒っぽいが、ところどころに白っぽい斑点がある。ゆっくりと水を押し上げてきているので、そこだけ藻がにげている。日光など、湧き水がすごい勢いで湧く池では砂が踊っている。あれだけの圧力で上がってきてはいないが、毎秒何十トンという水がとまることなく、あの部分に出てきている。

田倉山火山について
 その源はどこか?田倉山の上まで上がってみたいのだが、その時間がないので図で説明される。田倉山はぽっこりと低い盾を詰めているようなかっこうになっている。火山にもいろんなタイプがある。これを楯状タイプという。流れて、流れて、溶岩になった元のどろどろを、玄武岩溶岩という。玄武岩の火山は、ずーっと持ち上げてゆっくりゆっくりと飴のように流れ、裾広く、広がって台地をつくる。夜久野高原は玄武岩台地である。海抜350メートルの山である。和田山の役場が海抜80mほどである。350mの、この上に、結構火口が残っている。直径が150メートルで、周囲を回ることができる。火口はすでに埋まっているが、20メートルぐらいあるらしい。所謂火山である。

 

いつこれが活動して、噴火したのか。
京都府は火山がほとんどない。この兵庫県の境、夜久野の田倉山(宝山とも呼ぶ)のみである。京大の地学部学生はここにきて勉強する。京大の中沢圭二教授は田んぼの土がどうして割れるか、毎日チェックして通い詰めて、何回噴火してあの形が出来たか、地殻を形成したか、ということを調査された。
最近になって、この火山は、30万年から35万年の間に、3回ほど大きな活動をしていることとわかってきた。3回、溶岩の大きな噴出しがあり、最後は、噴煙とか、埃とか火山砂を噴き上げて、それが乗っかっていく。だから、中は空かすである。4回活動する間に、何百万年かは、時間差があるわけだから、噴き上げた溶岩の台地が一回、固まって、その次にまた噴き上げて固まる。その吹き上げた上の表面は、いわゆる水をためる底になって、一番下に壷がある。2回目にこれとこれとの間にもまた、埃をためたところもあり、ここが一番水を含んでいる。

水はどこを流れるのか。
そしてその水がどこを流れるかが一番難しかったようである。吹き上げた台地が、どっちにどう傾斜しているのかを測量すると、水が貯まって自然に動いていく。重力で動いて行く。その道筋を見つけていく。そして、火山ではなく、もともと低い谷地形へ溶岩が流れた。その辺りに全部集まって、地下水として伏流している。そういう道がついているのだろう。その先端の1つが次の場所「大森湧水」である。

●大森湧水と田倉山
 和田山町白井区の東方に大森神社がある、この社の東方約100mに田倉山溶岩流の先端崖がある。
 この下部から溶岩末端湧水が流れ出している。往古より、里人は巨岩が立つこの湧水地を「出水の岩窟」と呼んでいる、(「東河誌」)

 ここの水は、火山が噴火した何回かの溶岩の底を鍋の底にした谷筋を通って来る。山の下を山陰線が通っている。かなり大きな工事になっていたが、トンネルの作業中に困ったことが起きた。水がやはり鍋の底に溜まっていて、圧力や重力ができて、動きやすい状態になっていた。鍋の底がちょっと破れたら、トンネルの方に行ってしまった。言わば水が動いた。そのために完全に減った。

 この水の温度は年中、15度C位、表面にくると輻射熱がくるから少しは違うがほとんど変わらない。この水は岩の下から、どんどんとでてきている。近くにいくと溶岩が泡の上にのっているように見える。これが田倉山溶岩の吹いた先端である。溶岩が押し出してきて先端で止まっている。こういう溶岩が押し出した先端をクリンカーという。

 

石部神社では緑の藻があったが、ここの石は赤いのではなく、石の上に藻がついていて赤く見えている。これを赤系統の紅藻という。紅の赤い藻は水の多いところでみられる。和田山では他でみられない。
 ここの水は火山の活動で鍋の底のような場所ができた上に溜り、次の鍋の底へと落ちながら、きていると思われる。地下水は一回目に噴出した溶岩が固まった広い鍋の底に、貯まってきて、上からの圧力が出来て、ある角度でこのクリンカーに集まって出てきている。一日に、200トンぐらいが出ている。

北垣 隆司さんの話
●上水道として
 大森湧水は現在、この湧水は出水口で濾過槽に受け、地下タンクに一旦貯水、これを比高差数10m高い貯水タンクにポンプアップし、減菌して市が管理する上水道に水源になっている。
 昭和52年に東河地区に五つの村々に簡易水道があった。山の木々の成長に伴い、谷の放流水が少なくなってきた。水源を確保するということで、簡易水道をまとめて、大きな水源にした。
 田倉山の噴火活動によって、地盤が隆起し、溶岩が噴出し、すでにあった近辺地形の谷や沼地を堰きとめ、一時的に「湖」ができたという説がある。
 田倉山の活動が起きる前は、今のような高原地形はなく、直見の谷や白井の北東部の谷々から集まった雨水は直見谷を延長した山東町磯辺の谷に流れ下っていたと推定される。その川が火山の噴火により、堰き止められたことで水が貯えられ、湧水となって出てきている。

 

この辺りと夜久野の観光センターの周辺に水源がある。そういう状況のなかで、井戸を掘った。高原の上で、100メートルのボウリングをして、そこからも地下水を取った。しかし水量がトンネルの工事によって減り、現在は上のほうは使用せず、ここ一本だけである。ここの水を使って、280家、760人ほどの家庭に水を供給している。大変、水はきれいだが、やはり雨が降れば木々の関係から濁るので急速ろ過をして使っている。このままでも飲めるが、この真上、50mほど上がったところに上水場を設けて、そこで滅菌をしている。

岡田 治一さんの話
●大路ダムについて 見学
 この辺の人はこの水飲を使用している。
施設の概要 このダムの主な働きは、町の方々の生活を洪水から守り、上水道として利用し、灌漑用水として利用されている。特に、和田山町地区の水需要に対応するために、日に2,000立方メートルの水を供給できるように74,000立方メートルの容量を確保しています。ダム取水設備は、貯水池の表面に近い水を取水塔に取り込み、下流側にある放流バルブ室に運ばれた水は、ジェットフローゲートで流量を調整して、ここで水道水・農業用水と河川維持用水に分けられている。
ダムの高さは32.1m、ダムの一番上の長さは138m、体積は43,400立方メートル。生野のダムの方が大きい。下から見た時は大きくは見えなかったが、上から見下ろすと大きいという感想をもった。
 ダムの上部から側面にある階段を降りて、下部に行く。さすがに風で煽られると怖い。ダムの中に入ると冷気を感じる。この上に74,000立方メートルの容量の水があると考えると、ゾクゾクする。ところどころに水滴などが見えると突然、亀裂が入ったらなどと想像してしまう。

 

●大路浄水場(北垣隆司さんの案内で)
 隣接する大路浄水場の中を見学する。薬品沈殿池・急速ろ過池・配水池と排水・排泥池・濃縮槽・天日乾燥地などを見学する。
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2005年9月例会 『トーク&トーク「15周年事業に向けて」』
開催月日 : 9月24日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : トーク&トーク「15周年事業に向けて」
場 所   : 豊岡市神美台 豊岡市立出土文化財管理センター
参加者   : 島垣、中田、浜野、木村、能登、上田、西躰、峠、高石
担 当   : 峠、高石

例会会場である豊岡市出土文化財管理センターでは、「海を渡った水甕たち」という企画展が行われており、例会前に全員で見学、同センターの潮崎研究員から詳しく解説していただいた。これまで豊岡市内山本地区で焼かれていたと伝えられていた陶器の水甕が、じつは江戸期の越前焼きであることが分った。甕に残されている刻印から生産地の窯元名まで特定できるものが多く、福井県の陶器が日本海の回船や円山川の水運を利用して大量に当地に流通していたことが明らかになった。その水甕はいまでも民家の庭先で使われているものもあり、今回約80点が集まり展示されたとのことであった。同センターは、中嶋神社や森尾古墳・平尾家を眼下にした高台にあり、昨年の水害時には豊岡盆地のなかを渡来人が船で行き来していた古墳時代を想像させる風景が見られたという。

 

当日はコウノトリ放鳥と重なり、そちらに参加する会員もあり、参加が少なかった。例会参加者のほとんどが幹事であり幹事会の趣であったが、「15周年事業に向けて」の取り組みをどのようにするかを中心に話し合った。その概要は以下のとおり。(議題のみ)

議題1)「但馬カルチャー」の発行について
議題2)15周年記念研修旅行
議題3)記念講演
議題4)10月例会について
議題5)その他
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