2006年10月例会 「畑ヶ平(はたがなる)開拓の歴史と奥八田の暮らし」
開催月日 :  10月28日(土)
開催市町 : 新温泉町
テーマ   : 畑ヶ平(はたがなる)開拓の歴史と奥八田の暮らし
講 師   : 植村哲(さとし)さん  (専業農家)
場 所   : <会場>青下公民館(新温泉町青下)
        <現地見学>畑ヶ平高原
参加者  : 峠、能登、木村、中田、戸田、小川、高石、成田、西躰、藤原じ
         浜野、友田、向井(会員外)
担 当  : 木村、能登、友田(記録)

鳥取県境の蒲生峠の手前で国道9号から分かれ、扇ノ山(おうぎのせん・1310㍍)から流れる岸田川に沿って南へ上って行った地域が奥八田(おくはった)である。奥八田小学校・上山高原ふるさと館を過ぎ、道標に従って右折して進むと、やがて青下(あおげ)に着く。上山高原に至る急な山を背にした段丘状の平地に集落がある。
 今回はお宮の境内にある公民館を会場に、夏大根を畑ヶ平で作る専業農家の植村哲さんのお話を聞き、植村さんの案内で畑ヶ平の開拓地を訪ねた。また上山高原エコミュージアムの代表で青下区長の小畑和之さんにいろいろアドバイスいただきお世話になった。
 かつて畑ヶ平はブナの原生林で山が深く険しく、たやすく里の人を寄せ付けなかったが、ただ木地師にとっては深山だけが生活の舞台であり、その足跡が見つかっているという。

 

■畑ヶ平と開拓の歩み
    ♪天下になる畑ヶ平   かいびゃく以来のぶな林
       切り開くべきときが来た   これぞ八田の生命線

 植村さんはかつて歌われた畑ヶ平開拓の歌を口ずさんだ。畑ヶ平は海抜約1千メートル、西は扇ノ山、東は仏ノ尾(1227㍍)・南は青ヶ丸(1240㍍) の山々に囲まれた鳥取県に接する高原だ。岸田川沿いで最も奥の集落である霧滝・菅原から幅3メートルほどの林道を約5キロ、標高差で500メートルほどの急峻な谷を登りつめる。冬は2メートルを超える雪が普通に積もる。
 畑ヶ平は昭和7・8年ごろから当時の八田村によって開拓の構想が立てられ、戦後の昭和22年に9家族11人(和光開拓団)が、25年に11家族12人(森里開拓団)が入植した。人力のみでブナなどの大木の伐採に明け暮れ、高冷地のため思うように作物もできなかった。当時は作ったハッカや野生のすずたけなどを売っていたが、厳しい生活に昭和28年をピークに離団者が相次ぎ、両開拓団は消滅してしまった。
 その後馬鈴薯・イチゴなどを地元の農家が登ってきて作っていた。馬鈴薯は種芋として淡路島などに売っていた。イチゴはアメリカからの輸入によって値が半額ほどに下がった。  

 このため昭和51年、鳥取県側に広がる広留野(鳥取県若桜町)で大根を作っていた小谷会長の指導を受け、植村さんら3戸が夏大根の栽培を始めた。現在は地元の5戸の農家が生産している。
 開拓団が開いたあたりを「きばたけ」と呼び、さらに高いところに第1団地、第2団地を切り開いた。面積は合わせて20ヘクタールほどあり、国有地の払い下げを受けた。 

 

■夏大根の専業農家
植村さんは大阪の高槻で会社に勤めていたが昭和50年にUターンし、畑ヶ平での大根作りに新たな人生を賭けた。39歳のときだ。青下から畑ヶ平まで約10 キロ、車で45分かけて、息子さんと二人で通う。
 きばたけ・第1・第2団地に合わせて4ヘクタール作っている。雪が消える5月半ば過ぎに畑をトラクターで耕し、6月5日ごろから種を植え付ける。種を蒔くのではなく種を貼り付けたテープ(シーダテープ)を使う。
8月になると収穫が始まる。まだ真っ暗な朝2時半から8時まで大根を手で引く。両手で2本を一度に引いていく。1日に息子さんと二人で7千本引く。8時になって雇った10人が小型マイクロバスで到着すると、夕方5時までいっしょに大根を洗い梱包し出荷する。この仕事が出荷を終える10月半ばまで続く。きばたけの中央に数戸の作業小屋が建ち、ここで大根を洗う。冬は雪で埋まってしまうためか、頑丈な作りだ。
 畑ヶ平の大根は神戸と京都の市場に出荷している。植村さんは昔からの馴染みで京都だ。かつて夏大根が高値のころがあったが、今は北海道産が出回り、競争が激しい。でも「畑ヶ平の大根」とひいきにしてくれる得意先がある。形の悪い大根も値は落ちるが加工用に引き取られるので、すべて出荷する。
 10アールあたり5千本作るので、4ヘクタールで20万本生産する。仮に1本100円で売るとすると粗収入2千万円、ざっと5戸で畑ヶ平は1億円を産む。

 

■高原の水
 畑ヶ平の高原は一面の大根畑だが、周辺や少し低いところはブナの林だ。かつては高原全体がブナに覆われていたことがわかる。畑ヶ平の高原のブナ林を歩いて気付くのだが、あちこちで水が湧き、小さな流れとなって北へ下っていく。ここは岸田川の源流なのだ。大根を作るのに散水はしない。植村さんは「大根を作るには日照りのほうがいい。必要な水分は土の中から供給される」と言う。ブナ林を切り開いた開拓地だが、それでも周辺や高原に残るブナ林が水を豊かに蓄えているのだろう。
 高原から南西へ下ると鳥取県だ。水は鳥取市に流れる。

■上山高原エコミュージアム
 畑ヶ平から周囲の扇ノ山・仏ノ尾・青ヶ丸は近い。なにしろ標高差で200メートルあまりなのだから。1時間も歩けば登れそうな距離だ。扇ノ山はここからの登山道がある。しかし仏ノ尾と青ヶ丸まで直線距離で1キロあるかないかだが、「日本海側の山特有のスズ竹がびっしり生えていて、雪のない季節はとても歩けない」と、ここを歩いたことのある加古川の向井さんは言った。
 扇ノ山は扇を広げたように見える南北に連なるなだらかな山容から名付けられたという。火山であるが、基盤は堆積岩で溶岩・火山岩は薄く、畑ヶ平は神鍋山のようには土は黒くない。四方にいくつかの高原状の地形が広がり、やがていっきに急峻な谷へ落ちる。畑ヶ平は東、上山高原は北に位置する。
 奥八田は岸田川と支流の小又川に沿った二つの大きな谷が刻まれ、上山高原がその真ん中にある。いわば上山高原は奥八田のシンボルといえる。この上山高原や麓の村々など奥八田地域を「まるごと生きた博物館」ととらえ、平成16年7月にNPO法人・上山高原エコミュージアムが設立された。
 イヌワシやツキノワグマなど貴重で多様な生態系を育む自然を守り、復元・育成して次代に継承すること、自然の循環の仕組みや自然と共生してきた人々の暮らしに息づく知恵を学ぶことを基本に、地域内外の交流を促進して元気な奥八田をつくることを目標にした住民活動である。
 上山高原ふるさと館を拠点に「明治の水路を歩こう(霧滝~青下・わさびの植え付け収穫も)」「扇ノ山新緑登山」「きのこ観察会(畑ヶ平)」など、多彩な自然体験プログラムも実施している。
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2006年9月例会 「執念の豊岡かばん職人」~カバンストリート散策、モノ作りの真意
開催月日 : 9月23日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : 「執念の豊岡かばん職人~カバンストリート散策、モノ作りの真意」
講 師  :  植村美千男さん (職人・植村美千男のかばん修理工房)
場 所  : 豊岡市カバンストリート
参加者   :
担 当   : 中田、浜野、



豊岡市は全国一のカバンの生産地です。しかし「灯台下暗し」で、意外とこの地場産業のことを知らない地元の人は多い。そこで、但馬学では満を持して「カバン」を取り上げました。訪ねたのは豊岡かばんの情報発信基地「カバン・ストリート」を運営している宵田街商店街。

私たちは「宵田いっぷく堂」で昼食をいただき、宵田街商店振興組合の兼崎理事長に、カバン・ストリート誕生の経緯をお聞きし、カバンストリートを案内していただいた。(写真中央が兼崎氏)



最初は、7月にオープンしたばかりの「ARTPHERE」。画材専用バッグを切り口として豊岡かばんのオリジナルを全国に発信しようとされている。しばらくするとメンバーの目つきは、ほとんど視察モードからショッピング・モードに変わってしまっている。


次は服地の店「万勝」さん。店内には「火山灰&山土染」の説明とともに素朴な風合いのバッグが陳列されている。企画・製作しているのは(株)フィードさん。



こちらは「レコード店」からカバン作りに転職された「bags VOICE」。ミシンを置いてオリジナル・バッグを製作されている。特注も受けていただけるそうだ。



カバンストリートの目玉の一つ「カバンの自動販売機」。城崎温泉へ向かう国道312号線沿いに設置されている。



「カバン・ステーション」はストリートの中心店舗。ここで人気のバッグがある。「365 birthday tote bag」。配色パターンが366種類ある。自分のバースディ・カラーのカバンを購入すると日付を入れてもらえる。



いよいよ、今日のメイン講師をお願いしている植村美千男さんの登場です。

場所はカバンストーリの中にある「職人・植村美千男のかばん修理工房」である。修理中のカバンや道具がところ狭しと並んだ作業台を挟んでお話をお聞きする。

「命を懸ける。背水の陣をひかないといい仕事はできない」
「若い者には、世界一のカバンを作ろうやと声をかけている」
「伝統(いいもの)を守るには、稼ぐ商品も持たなければならない」
「商売はしっかりと利益をとれば良い。でも、あとで赤恥をかかないように。オンリー・ワンの隠し味をもっているか?」
「修理をやれば、さまざまなカバン技術がわかる」
「ヨーロッパの有名ブランドのバッグもいっぱい修理してきた」

植村さんが仰った言葉の数々。本物の職人とは、植村さんのような人を言うだと強く思いました。
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2006年8月例会 「船を使った暮らしと仕事」~新温泉町 三尾地区 2006年8月例会
開催月日 : 8月26日(土)
開催市町 : 新温泉町
テーマ   : 「船を使った暮らしと仕事~新温泉町 三尾地区~」
講 師  : 中村豊治さん(三尾地区・渡船業)
場 所  : 但馬海岸遊覧船、三尾地区
参加者   : 島垣、椿野、能登、中嶋、谷岡、原田、中安、衣川、太田、
        友田、小川、峠、木村、藤原次、岩本、西躰、中尾
担 当   : 中尾、西躰、谷岡(記録)

三尾は陸の孤島と呼ばれた。昭和25年に三尾隧道が開通するまで町である浜坂とここ三尾との交通は徒歩か船しかなかった。
 三尾は983年より人が住みついたとされる。しかし、永住するというよりはたまに行くところであったようだ。江戸時代(1673年ころ)より人が住みついた。
 三尾には大三尾と小三尾があり、大三尾の人が小三尾に移ってきたという。

 

小学校の時分は山越に越して浜坂に出た。収入がなく海で取ってきたもので生活していた。田んぼは作っていない。冬には何の仕事もなく博打をしていた。畑をカタに博打をして春になって嫁が畑に行くとよその土地になっていたとのエピソードもある。
物々交換をしていて、ザルに魚を荷って山を三つ越して浜坂に出た。朝3時に出発していたが、当時はオオカミが出た。オオカミは賢く広いところまで着いてきて、「送りオオカミ」と言われていた。
 ここに住みついていた人は85戸、人口は200人。たいがいの家には6~7人いた。小学校の生徒は80人くらいいた。(今は30人くらい)現在の大三尾 79戸、小三尾17戸。三尾という名は、屋根が三つ出ていたということで三尾という。後鳥羽上皇が流されたとき、この地で助けられミオという名を名づけたとの伝承もある。
 (山の中腹部)の農業は、焼畑であるが、現在はやっていない。昭和50年くらいまで作っており、サツマイモ、バレイショ、ジャガイモを作っていた。下では田んぼを作っていた。

  

間塩は間城とも言い、三尾と赤崎の間にある。税金を佐津の代官まで持って行く際の通り道にあたる。山には山賊が出るのだが、御崎に行く道の下に洞穴があり、ここに「赤軍派」がいた。それで魔城と言ったが、間城が本当だ。地図ができた頃には間塩となっていた。間塩には、歩いても来れるが船でも来れる。船の方が多かった。田んぼは3~4町あり、だんだん田であった。牛を飼う人は何軒かしかなく、(僕は)牛を見たことはなかった。全部人間が作っていた。苗は自分の家で全部作る。
分家に生まれた人は田んぼがない。よそから買ってこないといけない。海から魚を捕ってきて米や魚を交換した。

 

当時は学校の授業が終わったら田んぼに行った。授業より農業の方が忙しかった。宿題が出されても宿題する時間がなかった。
(僕が)小学校1年生のとき、雪が降ると朝3時におきる。石ばっかりの浜に魚が浮いている。多い時にはカリハギ、アコウ等が、200匹くらいいただろうか。
船をワイヤであげるようにしていたが、どの地区でも少年団が船が入ってきたら子供たちで船をあげた。
今では僕の一隻しかないが、昔は30隻あった。
駄賃でさばを3本くらいもらった。校長先生が立会い、少年からこの魚をもらって、校長は少年団の活動資金にしたのであった。

質問に答えて

小学校は鉄筋だがどのように作ったのか
 昭和40年の鉄筋コンクリートであり、浜坂の建設会社が作った。大きな船が3隻来て浜坂から材料を積んでやってきた。船から陸揚げし、高いところにミキサーを置いて流した。ムラの人が手伝って学校を作った。車がなく、船でやった方が楽であったため、この方法を取った。今みたいな港もなくテトラもない。岩場のような浜であった。

トンネルができて変化があったか
 85戸から75戸になった。漁師ができない人が浜坂に住居を移した(5軒)。浜坂町長の家もその一つであり、町会議員で浜坂に出たものもある。また、大阪や神戸に出たものもあった。トンネルができたため移っていった。 当時は、浜坂に働きに出ても帰ってくるのに困ったものであった。中学校の時には隧道ができていて歩いて行っていた。この隧道は村中が日役に出た。日役はまる一日であり、出れないところはお金を出していた。

 

いつ電気や電話がついたのか
 電気・電話は大正についた。 三尾から電灯会社の幹部についた人がいた。電気の直し方を聞きに行った。その後は電気の修理を行うことができるようになり、僕もヒューズを入れ替えたりした。
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2006年5月例会 「水と農がつくる山村の暮らし風景 ~うへ山の棚田 ─ 日本の棚田百選」
開催月日 : 5月27日(土)
開催市町 : 香美町
テーマ   : 「水と農がつくる山村の暮らし風景 ~うへ山の棚田 ─ 日本の棚田百選」
講 師   : 田村哲夫さん(貫田区役員・香美町小代地域局農業担当)
場 所   : 美方郡香美町小代区貫田 うへ山棚田・吉滝キャンプ場管理棟
参加者   : 島垣、衣川、木村、谷岡、友田、中田、中安、成田、西躰
         能登、浜野、藤原博、守山
担 当   : 友田、藤原博、守山(記録)

■棚田百選のうへ山棚田
 小代の谷は国道9号から矢田川に沿って国道482号が走る。小代中学校を過ぎたあたりで右側に上ってじきに貫田の集落がある。正面に瀞川山系を望む東向きの傾斜地に民家がかたまっている。ヘアピンのカーブから集落を過ぎ山中をどんどん上る。途中猿の群に出会った。さらに上ると林間から、右側に田んぼが突然開ける。うへ山棚田である。
 うへ山棚田は約40枚、平均勾配1/5、面積3.1haを7軒の農家で耕す。休耕田はほとんどなく、よく管理されている。棚田を取り囲む自然環境もよく、背景の山並みと調和した景観が美しいことで平成11年に農林水産省から「日本の棚田百選」として認定された。海抜500メートル。
 但馬では、同じく香美町村岡区和佐父の「和佐父・西ヶ丘」も棚田百選に認定されている。

 

■湧き水
 うへ山棚田の水は、棚田の最上部に位置する湧き水を使っている。日量千トンの水が湧く。昔は湧き水があると、一鍬でも面積を広げたいと田んぼを開いた。でも今は「一鍬でも作りたくない」という風潮だ。
 現在はここの湧き水のほか、上の高原に引いている吉滝からの水のオーバーフローもパイプで引いている。ここの水は、うへ山棚田からさらに下の田んぼにも使って、合わせて15haを潤している。棚田の管理は水の管理と言っても言い過ぎではない。水源や田の水量、水路や田の水漏れ、畦の点検など、農民は田んぼと水に向き合っている。
 4月下旬に総出で水路掃除をする(「いで」掃除)のを合図に、水の取り口から近い田んぼから順に水を入れる。自分の都合で我田に引水をすることは許されないことである。うへ山の棚田の全体に水が行き渡るのは2日ぐらいかかった。上の田んぼの水がいっぱいになったら下の田んぼに流れる。「あてこし水」という。「なかいで」「おおいで」など湧き水からの水路にはそれぞれ名前がついている。
 しかしどうしても水が冷たいので収量は平地の7割ほどとのこと。水源にもっとも近いいちばん上の2枚は作っていない。野生化したわさびが生えていた。水を貯めて少しでも水温を上げたのかもしれない。また水路から水を取り入れたあたり(水口)の稲は実がつかない。このため田のなかに小さい畦をつくって、水を迂回させている田が多い。
これも水温を上げるための知恵だ。

 

■うへ山棚田の米づくり
  みんなの協力がないと田植えは出来なかったので、かつては人々は互いに田植えや稲刈りを手伝い、互いに「手間返し」をした。棚田は農業共同体の中で守られてきた。
 今ゴールデンウィークの後に田植えをするのは、都会に出ている若者が帰ってきて田植えをしてくれるからである。早い時期の田植えは水も冷たく米に実が出来ないためぎりぎりの選択である。昔は6月に田植えをしていた。今は軽トラがあるが、昔は弁当を持って村から歩いてうへ山棚田に稲を作りにきた。
 小屋があって弁当を食べ昼寝をした。できた米は背負って下りた。
自分の田んぼの周辺は他人の山でもかってに切ってもよいことになっている。日当たりをよくするための暗黙の了解だった。
 米作りは水の管理がいちばん大事。田村さんは「よその田んぼの水管理はむずかしい。ひとの田んぼを作ってみてよくわかる」という。水が抜けやすい箇所などよその田んぼのくせがわかりにくいからだろう。
現在うへ山棚田の作っている人の平均年齢は68歳。田んぼを維持する問題点は高齢化である。でも「田んぼを荒らすのは罪悪」という気持ちをみんな持っている。

■「ぬけ田」
  貫田(ぬきた)は「ぬけ田」が起源ではないかとのこと。山がぬけたところに田んぼをつくったということかもしれない。貫田地区は地下水が多く、10数カ所で水抜きの工事をした。「流れた山を棚田にしているので、棚田に水が溜まって村にどっと来ない。棚田が荒れたら村が、町が荒れる」。うへ山棚田から下に続く「流れ尾」の地名の田んぼもある。

 

■オーナー制度のこと
 貫田地区は農業体験・自然体験など都市との交流が盛んで、民宿も何軒かある。うへ山棚田もかつてはオーナー制度を設けていた。しかし米つくりには自分のパターンがあり、ひとに合わせることの煩わしさがある。また高齢化が進んだ。このため今は受け入れていない。

■但馬牛のこと
  小代は熱田蔓牛(雌)、中土井(雄・種牛)と但馬牛の名牛の里。子どものころは学校に行くまでに歩いて放牧地に連れていき、学校から帰ると連れ帰るのが日課だった。
 どの家も家の中で家族といっしょに暮らすのが当たり前だった。牛で田んぼを耕した。敷きわら・牛糞は乾かして肥料にした。今、貫田で牛を飼っているのは2戸だけになった。

■出稼ぎ
  冬期の酒屋への出稼ぎで小代は栄えてきた。農閑期の出稼ぎの現金収入は生活に大きな潤いを与えていたが、杜氏の仕事が機械化され、労働力を必要としない傾向にある。

■高原
  うへ山棚田からさらに上ると高原に出る。ここに吉滝キャンプ場がある。高原はかつては雑木林だったが、国のパイロット事業の補助金で開拓し、大根を作った。しかし連作障害がでて放牧地にした。
 高原の窪地に「しまち」と呼ぶため池があり、田んぼが周囲に作られている。ため池よりも上の田は、山の尾根の反対側の吉滝から水を引いて作っている。ここの田の水は佐坊の集落へ流れ、棚田が矢田川までずっと続いている。

 

■雑感
農地は作物の衣を着てはじめて美しい。過疎・高齢化の農村問題はいろいろあるが、純粋な農業生産で生活が出来るようにならないものか。都会のひとに迎合して右往左往すると農村はだめになる。
 相互扶助の農村共同体は、棚田を守り、水を守るためには不可欠の組織であったことをうかがった。美しい棚田を育んでいる人々の魂を忘れないようにしたいものだ。
 今自分たちの命の故郷でなにが起きているのか。私たちは何をしないといけないのか。大きな課題を感じながら棚田を後にした。帰路は貫田から佐坊集落を抜けた。雨の後の棚田の美しさが心に残る。
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2006年2月例会 「山郷の水利」 ~ 大屋川に育まれた生活文化
開催月日 : 2月25日(土)
開催市町 : 養父市大屋町
テーマ   : 「山郷の水利 ─ 大屋川に育まれた生活文化」
講 師   : 小畑 佐夫氏さん
場 所   : (現地見学)大屋町栗の下・大屋町筏
         (お話)   農村公園「翡翠」
参加者   : 島垣、友田、浜野、中嶋、中尾、能登、衣川、戸田、粂井
         木村、高石、中田、峠、成田、細見、太田、西躰
担 当   : 島垣

 

暮らしの中の水といえば、私たちの多くは蛇口から流れる水を思い浮かべる。でもそれは、水道が普及してからのことだ。では少し昔までどうだったのか、その面影を探して大屋川上流の集落を歩いた。栗の下集落では、地元の区長を務める小畑佐夫さんに案内していただいた。

■栗の下編  若杉川・横行川合流の地の利を生かす
兵庫県一高い山、氷ノ山を源にして流れる横行川、そして、藤無山を源にして流れる若杉川、両方の川の交わる所に、栗の下集落がある。
 集落は、川面から5メートルほど高い位置にあるために、集落内を縦横無尽に流れる水路は、それぞれの川の上流500メートルくらいに、井堰を設けて流入されている。
 水路を豊富な水が流れる。各戸の水辺には「かわと」「かわいと」があり洗い物などに現在も利用されている。池の水も引く。また防火用水として生活の安全を守る。
かつて水路は、日々の生活に欠かせなかった。早朝、まず水路の水を汲んで飲料水を水甕に蓄える、そして、顔を洗う、歯を磨く、うがいをする。使用した水は下流には流さない。食事の用意では、米を研ぐ、研ぎ汁は池または畑の野菜や庭の植木に利用する。野菜ものを洗う。里芋の皮むきには水車(芋水車。六角形の箱に芯棒を通した物)が利用される。洗濯から、何を洗うにも利用されていた。もちろん、風呂水は川の水を汲んで沸かしていた。 
 池には、鯉や、ヤマメなどがいて、鍋やお櫃など漬けて置くと、綺麗に食べてくれる。
 冬には、雪の捨て場所として利用されて、夏は打ち水をし、下流域の田畑を潤す。 
 こんな田舎の原風景が色濃く存在している地区、栗の下。 
養豚、養鶏が盛んになって水が汚れ、困った時期もあったが、そのころには簡易水道が出来ていたので飲料水としては問題がなかった。その後上下水道が完備され、水路の水を日々の暮らしで利用することは少なくなった。若い人は水離れ。ひねるとすぐ出る水とお湯。年老いた人は「もったない、節約、節約」。今も続く月に2回の川掃除には、1戸から必ず一人以上の参加があると聞く。
 この地区に、屋号が「清水屋」と呼ばれている家があり、裏山から清水が池に引かれている。その下の家は最近まで豆腐屋を営み、おいしいと評判の豆腐と揚げが売られていた。きっと水が良かったからだろう。
 集落を縫ってたっぷりの水が流れる水路、しぶき、水音、悠然と泳ぐ鯉。本流にも何箇所か川いとが残る。いつまでもこのままの風景であってほしいと思ったのは、私だけではないだろう。

 

■筏編  雪との闘い「融雪設備」
 村中を流れていた用水路を、道路幅を広げるために暗渠にすることになった。しかし、冬期の積雪が多く、その上日当たりも悪いので、排雪は必要不可欠であった。そこで考えたのが「暗渠排水融雪設備」である。10メートルくらいに1箇所、蓋(グレーチング)を設けてそこに雪を捨てて流す。それだけでは雪は水を含んで塊になり水路をふさいでしまう。そのためこの水路にはもう一つ工夫が凝らされている。水路の両サイドに、ステンレス製の穴明き板が取り付けられている。水路の壁とステンレスとの10センチの隙間を何の抵抗もなく流れる水によって雪は融けて流れていく。 
 地域の人たちは、近くで同時刻に排雪ができる上、高齢者でも楽に作業が可能となった。なかには、雪を運ぶ台車にも工夫を凝らす人もいる。たくさん積みこめ、滑りやすく、また水路蓋の幅(50センチ)に合わせて作られている。

 
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