2007年3月例会 「但馬の山城 ~兵どもが夢の跡を探る~」
開催月日  : 3月24日(土)
開催市町  : 豊岡市
テーマ    : 「但馬の山城 ~兵どもが夢の跡を探る~」
講 師    : 西尾孝昌さん(八鹿高校教諭・但馬考古学研究会幹事)
場 所    : 豊岡市 香林会館(日撫)⇔愛宕山鶴城跡(山本)
参加者   : 中田、峠、岩本、岩本、島垣、木村、能登
         (会員外)中田、岸田、城田、稲葉、子ども2人、
         豊岡市出土文化財管理センター宮村氏がアシスタント参加
担 当 : 峠(記録)、木村

【ねらい】戦国時代の但馬地方の守護大名である山名氏の四天王といわれた武将の一人、田結庄是義の居城「鶴城」跡(平成8年4月豊岡市指定文化財)を現地見学し、往時の築城の規模、技術、思想などを探る。

【講師 西尾孝昌さん】豊岡市日高町西芝在住。県立八鹿高校教諭、日本史の先生。専門は地理学。但馬の城郭研究の第一人者。縄張り図を書かせたら兵庫県を代表する調査者の一人といわれている。この度山の中の随所で分かり易い説明をしていただいたが、脚の速いのには驚いた。長年の山城調査を単独で行動されてきた癖が出たのだろう。なお、この3月末で退職されるので、時間の束縛から解放されて、更にご活躍の場が広がることだろう。

 

1.城という字を分解すれば
講師の西尾さんは、我々参加者がテーマについての全くの門外漢である事の前提で、たいへん綿密で系統だったテキストを用意してくださった。注意深く読んでいくと腑に落ちて納得できる仕組みになっており、貴重な資料を頂いたと感謝したい。ところで、「城」と言う字を分解すると「土」と「成」になるように、本来「城」は「土」で造られていたものをいうそうである。鎌倉末期、南北朝時代から戦国時代にかけての約300年間に築城され、戦いに明け暮れしていたのは土城だったのである。つまり、これらを「中世城郭」と呼ぶ。だから、国取り物語当時の城は、土の城だったといえる。

わたしたちは、城といえば石垣や天守閣があるものと思ってきたが、このような城は織豊時代(安土桃山時代)から江戸時代にかけて造られたもので、これらは「近世城郭」と呼ばれている。但馬には約220の城跡や砦跡があるようだが、石垣のあるのは竹田城、出石城、有子山城、八木城くらいのようである。

 

2.中世の生き証人が城
中世には、純粋な武力集団である武士はいなかった。実態は、武士兼農民兵だった。今でいう区長さんクラスの地侍の下に、農民兵がいざと言う時には集結したようだ。だから、戦争は農閑期にした。戦いの原因は、主として猟場の争い、山の境界争いなどで、これらが、荘園対荘園、村対村の争いになった。お互いに掠奪し合うのが通常で、負ければ奴隷に落ちるので、自治、つまり自分たちのことは自分で守るしかなかった。そこで生まれたのが城である。城は、自分たちの生命、財産を守るための避難場所でもあった訳だ。だから、農民は城の普請や修理も当然の事として従事した。

わたしたちは、近世の権威の象徴のような、いかめしく石で固められて聳え立つ城しか知らず、その城はまさしく民百姓を収奪する元凶のように思っていたが、中世の土城の多くは、農民たちの生存権を守る拠点そのものだったことを知り、目から鱗が落ちた思いがした。

もっとも、戦場に駆りだされる農民兵の実態は、全てが精鋭と言う訳には行かず、往々にして頭が弱く、農家の労力にあまり役立たない者があてられたという記録もあるそうだ。今でも通用する発想で、思わず笑えてしまった。西尾さんは、これを「三年寝太郎」のようなと分かりやすく表現された。なお、なぜ平城でなく山城なのか。それは、守るに守り易く、攻めるに攻めにくいのが山城だそうだ。鶴城の急峻な掘り切りを見ると、確かによじ登ることは至難の業に思えるし、仮によじ登っても上から槍で突かれ、石を投げられたらひとたまりもないだろうことを実感した。

3.鶴城と備後衆山城の歴史背景

(ア)鶴城
豊岡市船町と山本に位置する愛宕山(標高115m)に立地している。永享年間(1429~41)以後に但馬守護山名持豊が築き、その被官田結庄氏が居城したといわれている。天正3年(1575)山名氏の被官の間の争いで、田結庄是義(織田党)と垣屋豊続(毛利党)が対立、世にいう野田合戦(毛利と織田の代理戦争)で、田結庄氏は敗れ、以後垣屋氏の支配下に入った。その後、羽柴秀長の但馬進攻によって、廃城となったものと思われる。

(イ)備後衆山城
豊岡市日撫の丘陵(標高20~50m)に立地している。約500m北方の鶴城の支城として位置づけられたものといわれている。山名氏は、備後(今の広島県)守護も兼ねていたところから、備後国の被官山内家に知行を与えたので、山内氏がこの山城を守備したものと推定され、備後衆山城と呼ばれる。鶴城が垣屋氏の支配下に入った後は、この備後衆山城も同じ運命を辿ったのだろう。

4.鶴城跡、備後衆山城跡のみどころ

 

* 縄張りの特徴:連郭式山城 曲輪・堀切・折れを持つ土塁・外枡形虎口・ 縦堀・畝状竪堀
  畝状竪堀の遺構は、天正3年以降垣屋豊続の改修によるもの
* 正福寺跡:田結庄氏の菩提寺
* 戦国城下町:「殿屋敷」(田結庄氏居館)を中心とした鶴城下町
    「殿屋敷」・「一日市」(市場)・「馬場」・「八坂神社」・ 「船町」(船着場)・「厳島神社」
    「貴船神社」・鋳物師集団の職人町=六地蔵・森・日撫
* 宝城寺と愛宕神社
    愛宕神社=元和5年(1619)杉原氏(豊岡城主が勧請)
    宝城寺(真言宗・勝利山)=元和5年~明治4年(1871)別当寺

<この項、西尾さんの資料原文のまま転記>

 

5.春雨に濡れて見学

* この日に限って全国的な雨となった。全員雨具を持参しており、西尾さん も経験則から登山可能と判断され、実地踏査を決行した。浜野さんが大きな 尻餅をついたが、全員怪我はなかった。
* 約半日間の見聞で、山の見方が変わった。もしかしたら、近くの名もない 山にも城跡があるかもしれない。勿論、我々には新たな城の発見だったにし ても、西尾さんのデータにはとっくに入力されているとは思うが。
* 地元(田鶴野地区)の公民館長さん方が会員外だが参加してくださった。 愛宕山に城跡があるということは知っていても、いざ具体的にどこがどうだ という知識が全くなかったので、いい機会をいただいたと感謝されていた。
* 近くに山本窯跡の発掘が進められており、更に田結庄氏の居館跡といわれ ている「殿屋敷」の発掘調査もやがて始まるとの事で、鶴城跡周辺は、いま 500年のタイムスリップをしているようである。
* 昼食と集合場所にした「香林会館」は、備後衆山城の一角にある。忠臣蔵 の大石蔵之助夫人りくの祖父(石束源五兵衛毎術)が開基した正福寺ともい う。りくの遺髪塚がある。正福寺はもともとは田結庄氏の菩提寺で、鶴城の 一角にあったが、落城で廃絶していたのを豊岡藩主京極高住候がこれを惜し み、同名の正福寺の名を賜ったとされている。このお寺の檀家は河本家一軒 である。初代豊岡城主「宮部善祥房継潤」が天正9年(1581)町内五町に地 子税を免除する安堵状を下したが、そのときの安堵状が今では唯一河本家に 伝わっている。
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2007年2月例会 「宿場街から継がれた生業」
開催月日 2月24日(土)
開催市町 : 養父市
テーマ   : 「宿場街から継がれた生業」
講 師   : 「生ゆば製造」  松田甚兵衛商店 松田正司さん
         「醤油醸造」   中野醸造(有)  中野利洋さん
場 所   : 松田甚兵衛商店、中野醸造(有)
参加者  :  島垣、能登、中田、峠、粂井、浜野、戸田、小川、友田
         細見、谷岡、衣川、成田、西躰、宮元(会員外)
担 当   : 島垣、中田(記録)

今月のテーマは「ゆばとお醤油」。それぞれの製造元を訪ねてまわる。場所は兵庫県養父市である。いつのように、正午に集合してまずみんなで昼食をとる。今回は、ある食堂に持ち込みをさせていただいて、これから見学する製造元の生ゆばを同じく見学させていただくところのお醤油でいただく。美味しい!見学が楽しみだ。

 

まずは、ゆばを製造されている「ゆば甚」さんを訪問する。正式名は、松田甚兵衛商店。主に京都の市場に出荷されているこだわりのゆば製造元である。最近はインターネットの販売も伸びているそうだ。

 

工場内でゆばの製造工程をお聞きする。原料の大豆は、国産とアメリカ産とカナダ産をブレンドしている。遺伝子組換えの大豆は使用しない。当然のことながら、合成保存料はいっさい使用しない。松田商店の一番のこだわりは「水」。この地で湧く井戸水を使う。これだけは、他の地では得られないこだわりに違いない。

続いて、車で5分もかからない場所にある「中野醸造」さんにおジャマする。創業は1899(明治32)年。「マルナカ醤油」の商号で親しまれる。

100年以上前に建てられた土蔵のなかで、仕込みが行なわれている。2年間、1年間、半年前、と熟成時間が仕切りごとに違い、時間の経過とともに色が濃くなってくる。

大豆は北海道産、小麦は播州(兵庫県)、食塩は赤穂(兵庫県)と地元の素材にこだわる。1年掛けて熟成させたもろみを布で包んでしぼる。年季が入った絞り機をまえに説明を受ける。

 

「生ゆばと醤油」。以前は、全国各地にあったが、最近は少数になってきている。これからは、老舗で素材と製法にこだわり、家族を中心とした家業としてやっていらっしゃるところが、製造を続けいかれるのだろうと、確信した例会であった。
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2007年1月例会 「但馬における近代化遺産の特徴」
開催月日 : 1月27日(土)
開催市町 : 養父市
テーマ  : 「但馬における近代化遺産の特徴」
講 師  : 中尾康彦 氏(兵庫県ヘリテージマネージャー)
場 所  : 例会  大屋地域局
        見学  旧養父合同銀行大屋支店見学(現ヴェネックス事務所)
参加者 : 島垣、中尾、友田、峠、高石、藤原J、中田、能登、西躰、
       衣川、岩本K、岩本M、浜野、谷岡、宮元(一般参加)、但馬夢テーブル委員(共催)4名
担 当  : 島垣、岩本和(記録)

講師は株式会社ヴェネックス代表の中尾康彦氏。
メンバーは但馬学会員と、会員外では「但馬夢テーブル」のメンバー4名と大屋町出身宮元氏。

まず、中尾氏の会社を訪問。
ここは旧養父合同銀行大屋支店。平成17年まで、但馬銀行が大屋支店として使っていた建物。取り壊しの運命であったその建物を、中尾氏が購入し、建築工房ヴェネックスの建築事務所として残した。中尾氏自らヘリテージマネージャーであり、事業と平行して、建造物を保護している役目も実践している。

 

シンプルで荘厳な雰囲気の素晴らしい建物。中尾氏は、購入の経緯とディテールの説明をしてくださった。面白かったのは、この建物が北但大震災後に復興建築として建てられたものなのに、かなり手を入れて作られているところ。柱のディテールもやや凝っている。豊岡市役所と日高商工会館が同じ流れをくむ建造物だということだった。

また、窓の鉄格子も、刀と同じ作りかたである鍛造で作られたもので互い違いに組み立てられているところなども面白かった。二階の窓には、非常に珍しい、オレンジ色のダイヤガラス。ガラスの凸凹面が外側にあるというのも珍しいという事だった。中尾氏は、この建物の中の小物にもこだわり、大昔の電話やラジオやぜんまい仕掛けのレコードプレーヤーなどがさりげなく置かれ、建物の中の雰囲気もまた大切にされているのがうかがえた。

 

この後、場所を大屋地域局にかえて、中尾氏から写真を見せてもらいながらの講義となった。

但馬に残っている、近代化遺産の数々を見せていただいた。今まで知らなかったものや、知っているものなど、たくさんの近代化遺産を紹介していただき、書ききれないくらいのエピソードを聞き、非常に面白いものでした。これは、私たちも身近な近代化遺産を探してみたいという思いが湧いてきて、知識欲がどんどんと出てきたのでした。詳しくは、平成19年6月、そのmapが県民局より出されるので是非見てみたい。

近代化遺産とは
明治以降昭和初期までの「産業遺産」を言いたい。日本の文化に、異国の文化が重なったもので、産業革命の遺産ととらえてもらえればという事でした。建物であったり、橋であったり煙突であったり。時にはクルマなどの物であっても対象という面白いもの。はっきりと定義しにくく、定義しろと言われれば辛いものがあるとの事。

ヘリテージマネージャーとは
阪神淡路大震災の影響もあり、将来登録文化遺産になる要素のあるものを守ろうという意識が高まり、生まれてきたもの。これは、文化遺産を考えるマンパワーを高めるための、民のボランティア団体のようなもの。現在兵庫県下に150名登録。建物などの調査をする人であり、きちんと県と文化庁の講義を受けなければなれないもので、しっかりとした団体。実績として、近代化遺産のmapを作った。

中尾氏からの提案
建物を店舗などにして価値を高めているところもある。それを見習ってはどうか。但馬の観光ルートを作ることが出来ればと思う。例えば現在は餘部鉄橋を中心とした観光が組まれているが、そこを中心とした鉄道のルート。鉄道のトンネルなども面白い近代化遺産。また、豊岡の復興建築を見てまわるルート。これは豊岡にしかないもの。コウノトリとあわせたルートというのも面白いのではないか。
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2006年12月例会 「大乗寺と圓山應擧 〜偉大な空間プロデューサーの足跡〜」
開催日  2006年12月9日(土)
開催市町 香美町
テーマ  「大乗寺と圓山應擧 〜偉大な空間プロデューサーの足跡〜」
講師   味田晃氏 (元・香住町教育長)
場所   大乗寺
参加者
担当

兵庫県香美町香住にある「大乗寺」を訪ねた。正式には、「高野山真言宗 亀居山 大乗寺」と言う。圓山應舉の襖絵で有名なので通称「應舉寺」と呼ばれることもある。大乗寺は、りっぱな石垣の上に「客殿」があり、お寺と言うよりもお城か砦と言った印象を受ける。昔は藩(領地)の境目に当たり、砦の役割も果たしていたのかも知れない。



本日の講師は、味田晃氏(みた・あきら)元・香住町教育長)。味田さんは大乗寺の檀家でもある。大乗寺と圓山應舉に関する第一人者。



味田氏曰く、『漢字は円山応挙でなく、「圓山應舉」と書くべし』。さらに、『「圓山應舉と大乗寺」ではなく、「大乗寺と圓山應舉」なのだ』そうだ。当時の資料を調べあげた味田さんのこだわりに、惹きつけられた。

應舉が修業中の貧しい頃に、その才能を見込んで学資を援助したのが、当時の大乗寺の住職だった。後に、画壇の第一人者になり、円山派の祖として仰がれた圓山應舉の恩人とも言える。その縁で、安永年間、1770年代の大乗寺復興に際し、應舉に障壁画を依頼し、應舉はこれに応えた。「恩返し」とも言われているが、「謝礼金」を払っている古文書がある。



障壁画は、十一面観世音菩薩の仏間を中心に13の部屋に描かれている。仏教上の東西南北の隅に、四天王の司る世界を絵画化した内容の襖絵が描かれ、寺院全体で一つの立体曼荼羅を表現していると言う。一つ一つの襖絵が素晴らしいのは、鑑賞するたびに感じていたが、各部屋の襖絵の構図や仏教的な意味が込められていることを知り、いっそう、大きな感動を覚えた。味田氏がおっしゃった「圓山應舉は、単なる絵描きに収まらず、優秀なインテリアデザイナーでもあった」と言うお話には、多いに納得した。

当時の住職・密蔵法印、弟子の密英上人が地元出身であり、圓山應舉の代表的な作品のほとんどがこの大乗寺にあることを改めて知った。私自身の中で、地元の誇りがまた一つ増えた。

(報告者:中田)
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2006年11月例会 但馬の地層と化石 ~但馬は化石がけっこうでます~
テーマ:但馬の地層と化石~但馬は化石がけっこう出ます~
講 師:北但層群化石研究会代表 三木 武行 氏
場 所:豊岡市


【主旨】

今回の例会は、但馬で見かける地層やその中で発見される様々な化石などから、日本列島や但馬の地質学的な成り立ちなどを学ぼうという目的で北但層群化石研究会代表の三木 武行さんを講師に迎えお話をお聞きしました。

***********************

【内容】

古生代の「ぺルム紀」と呼ばれる今から2億5000万年ほど前の時代の地球上の地形は現在の世界地図で見られるものとは大きく異なり、北アメリカ・南アメリカ・アフリカ・ヨーロッパなどの大陸は互いに隣接し合い一つの巨大な大陸を形成していた。その頃、現在の中国大陸のほとんどは水面下にあり、日本列島もごく一部の地域がかろうじて島のように点在していた。この時代の中国大陸では石灰岩が多く堆積し、現在の日本列島でも九州北部から山陰地方にかけて、この時代の地層が広く分布している。古生代の地層からは藻類・シダ植物・三葉虫・魚類・両生類など化石が見つかっている。また、関宮の蛇紋岩はぺルム紀よりもさらに2億年ほど前に、海中での火山爆発により形成されたと考えられる。蛇紋岩はカンラン岩という火成岩が海水に反応して生成することから、当時海面下にあった地層部分で海底爆発の発生をうかがえる。

 現在の日本列島は「プレートテクトニクス」と呼ばれる地殻変動により何千万年もの時間をかけて形成されていった。地表下の地殻部分より下にあるマントルと呼ばれる岩の部分は水のように流動して地表下をゆっくりと流れている。その上にプレートと呼ばれる地殻が乗っている。プレートは何枚にも分かれており、マントルの流れに乗ってプレート同士が重なりあったり、ぶつかりあったりしながら地殻変動をおこしている。中国大陸の一部であった日本列島でも1~2億年前の中生代「白亜紀」・「ジュラ紀」に生息していた裸子植物や恐竜・アンモナイトなどの化石が当時形成された地層から発見されている。丹波地方で発見された恐竜の化石などは、当時の日本列島と大陸とのつながりを裏付けるものである。

その後も、プレートテクトニクスにより世界の地形はゆっくりとその姿を変えて行くのだが、日本列島は哺乳類・鳥類が誕生する数千万年前の新世代には現在の姿に近づいていく。およそ7千万年前に中国大陸の東部では大規模な火山の噴火活動が起こり、このころに形成された地層は花崗岩層を形成した。その分布は現在の山陰地方で広く見られる。火山はやがてカルデラを形成し、巨大な湖へと変化していく。このころの堆積地層からは湖の存在を裏付ける淡水性の化石が見つかっている。また、サイや象やツルといった動物の足跡も香住の海岸周辺で発見されており、湖畔が当時の動物の水飲み場や漁場になっていたと考えられる。

その後の地殻変動により、約1500万年前には巨大な湖の南方から対馬海流が流入して、淡水が海水へ変わっていくことにより日本海は誕生した。そして、当時の日本列島は暖流の影響で熱帯環境であったことが、当時の化石から判る。およそ500万年前には但馬地方での火山活動が活発になり、氷ノ山や玄武洞火山などが噴火したのもこの時代である。現在山陰海岸で見られる流紋岩やデイサイトの地層もこのころに形成されたものである。その後、地殻変動や氷河期が繰り返され、日本列島は現在の形に出来上がっていった。

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【感想】

今回たくさんの化石(標本)も見せていただき、古代生物とその生息環境や但馬の歴史について多くの事を学ぶことが出来ました。改めて、但馬の地層を観察することにより、様々な小さな発見が出来、それらをひとつずつパズルのように組み合わせて行くことで、やがては壮大なスケールの歴史的・地質学的理解へと繋がっていくのだということをこの例会で気付かされました。ふだん特に気に掛けることもない身近にある物を手に取り、それをじっくりと見つめ深く考えることで、意外な新しい発見が実は隠されているのだと。
         
(報告者:上田直樹)

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