2007年9月例会 「イカはいかが?」
開催月日 : 9月22日(土)
開催市町 : 香美町
テーマ   : 「イカはいかが?」
講 師   : 玉木哲也さん(但馬水産技術センター研究員)
場 所   : 香美町立国民宿舎「ファミリーイン今子浦」 (香美町香住区境548)
参加者   :岩本和 岩本名 太田 衣川 島垣 高石 谷岡 峠 友田
        中田 成田 能登 浜野 宮元 西躰 (16名)会員外1名
担 当   : 岩本和、椿野、高石

昼食メニュー
●イカめし
●焼きイカ
●イカの沖づけ
●イカのさしみ
●イカの衣付きフライ
●イカの揚げ物
●イカと玉葱の煮物
●イカのつくね入り味噌汁





ファミリーイン今子浦のシェフに、一品一品の説明をしていただきました。
イカは玉葱との相性が良く、一緒に煮ると柔らかくなるとのことでした。
以前に大根と一緒に煮たことがあったのですが、イカがかたくなってしまい、失敗しましたとのこと。
また、煮る時間も長くも短くもダメで、ちょうど良い時間があるとのことです。

どの料理もとても美味でした。特にシロイカの刺身が甘くて絶品でした。

日本海のイカ
イカは世界で400種類程度、日本近海で130-200種類いるといわれてますが、まだ発見されていない種類もいるようです。
主に漁獲の対象になっているのは、その中でもスルメイカ(マイカ)・ホタルイカ・ソデイカ(アカイカ)・シロイカなどの限られた種類になってくるとのことです。

日本海は、北の魚と南の魚が見れるところです。
あたたかい対馬海流(暖水域)が2-3ノットで津軽海峡まで抜けています。
暖水域は10℃~27℃。その暖かい海水は水深は200-250まで。
そこでは主にスルメイカ(マイカ)がたくさん獲れる漁場です。
普段はさらに深い水域にいるホタルイカも、産卵期に浅い水域に上がってきます。

* スルメイカ
周年-春から秋に、主に釣りにて獲ります。
昭和41年、沖合いの大和堆漁場にて、底引きで大量に漁獲できるのがわかり、底引きの休業期間に副業でイカを水揚げしていた。
専業船にて漁獲するも、石油ショック以降、集魚灯を焚くのにも莫大な石油が必要なため、採算が合わなくなり、現在は専業船は一隻も存在しなくなった。現在は沿岸のみにて漁獲をしています。
かつての漁火は、アメリカの衛星から見たら大和堆水域まで煌々と明るく、アメリカが驚いた。世界でもイカをそれだけ獲る国もなく、異様な光景だったのかも知れない。
スルメイカのとれたての体色は透明→肌色→白と、鮮度で変わります。
食べ方は、主に鮮魚として。加工品としてスルメ・麹付け・へしこ・塩辛・イカ飯

* ホタルイカ
春に底引きにて獲ります。
古くからいるのがわかってたが、製品にしなかった。
ズワイガニ漁終了後の漁獲対象。
産卵のため接岸してくる群れを漁獲。最初に獲れるのは♀で、その後に♂が獲れます。
目に5つ、腕に2つの発光部。体にも発光部がある。発光部が9つあれば、それはホタルイカモドキ。
ホタルイカは茹でると半分ほどに縮みます。目だけは縮まず、目玉除去のための洗濯機のような特殊な装置を用いています(特許)。
食べ方は主に加工して食べます。

* ソデイカ(アカイカ)
秋に釣りと定置網にて獲ります。
主分布域は熱帯~亜熱帯。それなのに、分布の北限の日本海但馬での漁獲量は全国トップ。
1960年代に樽流し縦縄漁法という但馬独自の漁法を開発し、たくさんの漁獲量がありました。
今は温暖化の影響か、以前よりもたくさんの漁獲があります。
同じ漁法を沖縄でやったところ、うまくいきませんでした。
生態は不明の部分が多かったが、大きなイカのため、発信機を取り付けて調べることが出来るように・・・。
すると、夜に浮き、昼に沈むことがわかった。
食べ方は、主に生鮮として。沖縄では焼いてから味噌漬けにしています。フライでも美味しいです。

* シロイカ(ケンサキイカ)
春・秋に釣りと定置網で獲ります。
沿岸性のイカで、主分布は東シナ海。せいぜい能登半島までの分布です。
春は大型で細長く、秋は小型でずんぐりむっくり。
食べ方は、生鮮で。刺身が最高。



こぼればなし

* 食べるときに気をつけなければならないのが寄生虫。
 アニサキスという寄生虫などは、イカを透かして見れば見え、ピンセットでとれる。
* イカのゲソは、実は足ではなくて「腕」。
* イカの腕は10本と思いきや、8本の「タコイカ」という種類もいる。
* イカのスミは煙幕。タコのスミはおとり。セピア色というのはイカスミ色のこと。
* イカは一年しか生きられない。ダイオウイカでもホタルイカでも。絶滅回遊魚。
* 但馬のイカ料理は、「ヘシコ」くらいかなぁ・・・とのこと。
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2007年8月例会 「暮らしと郷土料理」
開催月日  : 8月25日(土)
開催市町  : 豊岡市出石町
テーマ    : 「暮らしと郷土料理」
講 師    : 大字路子さん(農業改良普及センター職員)
場 所    : 出石農村環境改善センター(豊岡市出石町水上)
参加者   : 峠・高石・能登・成田・浜野・中田・岩本k・岩本m・西躰
         衣川・島垣・中尾・友田(13名)会員外1名
担 当    : 浜野・戸田・成田

(大字さんのお話)
兵庫県全体をみた時、但馬は農村も漁村も暮らしを豊かにする食材が四季折々にたくさんあると思う。それらの地域の食材を取り込んで但馬を活性化していく取り組みをしてきた。グリーンツーリズム、交流型、滞在型の農家民宿は但馬が県下では一番ではないかと思っている。

豊岡ではいちごが作られている。いちご「章姫」は比較的低温に強く、甘みが強いという利点がある。収穫は11月~6月まで。昭和44年より、豊岡市と但東町でピーマンが作られ始め、最も多く収穫されている。軽いからお年寄りでも女性でも作りやすい。昭和50年代に但東町で自生していたうどを栽培し、緑化うどにたどり着く。冬場の収入源として山菜ブームに乗り、徐々に広がった。贈答用として栽培される。

コウノトリの野生復帰のために、コウノトリの餌場となる田んぼを作り上げていく取り組みが官民一体となってなされた。生き物が棲める田んぼ作り、冬でも水を張る水田となる。それは米の作り方を変えていくことであった。(コウノトリ育む農法)その結果、生き物が棲める田んぼは安全・安心の米として、国内外から但馬は注目されている。現在200町歩の田んぼとなる。それは観光会社の「エコツーリズム」としてコウノトリの郷公園周辺にバスツアーが来るようにもなる。

 

消費者側の要望として、食の安心・安全への関心が高まってきている。それを生産者がもっと強く安心を伝えていくことが必要である。現在では安心安全なものが消費者に伝っていない。平成13年からスタートした「兵庫安心ブランド」という基準がある。国が決めている農薬の10分の1しか使っていないものにつけられる。県が抜き打ちで検査している。その安心ブランドと認められた60%近くは但馬で生産されている。

それらは「兵庫安心ブランド」マークがつけられ、スーパーの店頭に並んでいる。阪神間の大手スーパーにも引き合いがある。その上、更に豊岡市では「コウノトリの舞」という名で市認定の農産品ブランドがある。環境汚染を防ぐ取り組みで、土壌分析をして基準以下の土で作られた作物にコウノトリマークのステッカーが貼られている。

「豊岡四季の味」という冊子を作った。現在、但馬(豊岡)で生産されている旬の野菜と果物年間カレンダー、四季の食材を使った料理の紹介など。どんな食材が地元で作られているのか、知らない人が多いので活用してもらおうと作成した。

郷土料理を新しく作るという試みをしてきた。但馬の食文化を生かした農家レストランの取り組みである。昭和49年、日高町のやまめ料理「阿瀬」が最初である。過疎化への危機感から農家の女性5人で始める。17年度までに民宿を含めて15件。それらの後押しをしてきた。

農家レストランの取り組みのポイント

1. 過疎を逆手に取る。
2. 資金・設備の整備は自力で。
3. 個々の生活安定→地域の活性化
4. 地元食材を利用した美味しい食べ物は多くの人を惹きつける。
5. 交流で村の魅力を再発見。

農家民宿について
建築基準法・旅館業法・消防法・食品衛生法など、なかなか許可がおりなかったが徐々に認められた。経営のポイントは

1. 過剰投資を避ける。
2. 農業のサイドビジネスに取り組む。
3. ホテルや旅館にできないことをする。

ふるさとになるといった心のつながりを大切にする。

但馬人は温かい。豊かな食材、昔から培ってきた食材や食文化があり、それらは磨けば光ってくる。これが但馬を元気にしていくと思う。

○質問と●会員の話

* 食育とは
味覚を育てるのではなく、どのように米が、野菜が作られているかを体験することである。
* 年代によって、味覚の違いがあるのではないかと思う。
* 食糧難の時代に育ったので「もったいない」という気持ちがある。食べ物に関しては「こわい!」という気持ちになる。恐れ多いというか、出されたものは全て食べないといけないと思う。余ったら捨てるというのは抵抗がある。
* 北但はそば、南但はうどんなのか。
* 山間部はそば、平野部はうどんではないか。そばは荒地でも育つ。麦は平野で作られる。
* 郷土料理とは
特定できないものがある。
* かってはヘリコプターで農薬散布、今はこうのとり農法と、政策で決められた形で一斉に行われるのは本当に良いのか、危険ではないかと感じる。
* 戦後、アメリカの影響でパンを食べなさいと言われた。学校給食も当時はパンだった。今はお米を食べようと言われる。
* 今は太陽暦で節句をする。本当ならば、旧暦でないとかしわ餅は食べられない。
6月にならないと柏の葉がとれないからだ。
七夕祭りも家でするということがなくなった。
* 行事は旧暦で行われる。それは農業との関わりが大きいからである。田の神、山の神を祀るという。それはそのまま食に繋がる。
* 今は農業をする人が少なくなった。そのために豊作を祈る行事が廃れていっている。
* 囲炉裏のイメージが今と昔では違う。昔はおやじがどん!と構えていた。今は農家民宿で囲炉裏を囲んで炉辺焼き。
* 旬!を捉えて、その採り方(獲り方)、作り方(料理を含む)などを体験するというのはどうだろう。例えば今だとイカ釣りとか・・。それがどういう背景を持つのか学ぶ。
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2007年6月例会 「但馬と曹洞宗のかかわり~禅寺の作法に学ぶ」
開催月日 : 6月23日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : 「但馬と曹洞宗のかかわり~禅寺の作法に学ぶ」
講 師   : 大田清旦(長松寺東堂)  前橋泰信(長松寺方丈)
場 所   : 万寿山 長松寺(豊岡市下鶴井2177)
参加者   : 中田、岩本和、岩本名、島垣、高石、浜野、衣川、守山、戸田、
         小川、成田、西躰、藤原次、友田、原田、藤原博、能登、峠、
         (会員外7名)岸田、北、飯尾、城田、高石蕗、西村  (計25名)
担 当   : 能登、峠(記録)

【ねらい】
 昨今の世情は大変殺伐としている。飽食の中、資源の枯渇と地球環境の破壊が忍び寄ってきている。しばらくの間、この喧騒をのがれ、静かに食事をいただき、坐禅を行ずることにより己のなすべきは何かを探るきっかけとしたい。

【場 所】
 万寿山 長松寺豊岡市下鶴井2177 宗派は曹洞宗。檀家数約190.。開創は、永享元年(1429)を遡ること数十年前に、若狭小浜(福井県)の妙徳寺から竹堂慧厳和尚が来錫して廃寺を復興されたとの口碑がある。永平寺68世貫首秦慧昭禅師、同じく76世貫首秦慧玉禅師は長松寺の17世と19世である。現住は22世前橋泰信方丈。

 

【指 導】
 東堂(隠居された住職のこと。大田清旦) 方丈(現在の住職のこと。前橋泰信)

【内 容】

①本尊上供
方丈さまの指導を受け、本堂で般若心経を唱えた。木魚と時折打たれる鐘の音が身にしみた。

②中食
  方丈様の指導を受け、本堂で作法に従い昼食をいただいた。東堂様が見本を示された。最初に「五観の偈」(ごかんのげ)を唱える。むずかしい言い回しだが、感謝・反省・修行の心・正しい目的、仏道をなすためにこの食事をいただくことを各自確認する作法とのこと。
  食器は木製の黒の漆塗りの五つ重ね、應量器(本来は僧侶が托鉢の際に用いる鉄鉢)ともいう。メニューは玄米のご飯、お吸い物、酢の物、たくあん、生ゆば、野菜の煮付け。箸の置き方、取り方、手の支え方、食器は音をさせない、食べる順番、たくあんで食器を洗う、とにかく無駄が全くない。そして静か。ご飯は100回噛む。これで満腹感が得られたのには驚く。テレビを見ながら、好き放題に食べている日常を少し反省した。約1時間半要した。

  

③坐禅
  方丈様の指導で本堂で坐る。叉手の仕方、五体投地の礼拝の意味(頭を地につけ、両手のひらを両耳の傍で上げる。お釈迦さまの足をいただく様子)、坐蒲の使い方、一礼の仕方、結跏趺坐、半跏趺坐、法界定印などを教わり、およそ20分ほど坐る。4~5人が警策をいただいた。音が痛そうで、警策を敬遠したという人がいた。

④法話・行茶
  場所を庫裡に移し、東堂様からお茶を頂戴しながらお話を伺った。

 

* 曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師が永平寺で開創。当時の日本の表玄関は大陸側(日本海側)。その教えは、船で各地に広がった。但馬の中心のルートは、円山川。船は今考えるより遠く出石、養父の方まで上っていた。但馬の曹洞宗寺院は83カ寺、最も古いお寺は円山川河口に属している。1番古いのが帯雲寺(隣村の野上)、2番目が長松寺、3番目が香積寺(隣村の飯谷、長松寺の末寺)、4番目が龍雲寺(浜坂町)、5番目が金勝寺(隣村の下宮)。
* 平安時代は、天台・真言の時代。当時の学問は、仏教を学ぶことだった。学問を志すものは皆比叡山を目指した。但馬の人たちは真面目だった。真面目を表す固有名詞として「但馬の法師」が「但馬法師」になった。
* 江戸時代、山紫水明の但馬は思索上勝れた環境。但馬は禅窟といわれた。各宗派を問わず、人物を生み出す風土。沢庵和尚、池田草庵、浜尾新、近藤英弥(豊岡中学校長、高校に珍しく胸像がある)
* 新しくお寺が出来ると、初代住職が出身したお寺を本寺という。(本寺、末寺関係)
     永平寺⇒大乗寺(加賀)⇒禅昌寺(萩)⇒妙徳寺(小浜)⇒長松寺
* 曹洞宗の教え(釈迦の教え) 正法眼蔵95巻。「威儀即佛法 作法是宗旨」仏様の作法。仏様がご飯を召し上がったように我々がいただく(真似をする)即仏様である。泥棒の真似をすれば泥棒である。形は精神を表す。色即是空とまったく同じ。心は形を表す。形の威儀は、内容の仏性、宗旨は言わない。心の威儀は体を言わない。心ともの。理念なき事物はない。理念を言うときは具象を言わない。
* 物事の道理 物事には両面がある。証一方一方暗(一方ヲ証スレバ一方ハ暗シ) 理事一枚=色即是空=平等としゃべつ差別 同時に並べて言わない。師匠がしゃべっている時は弟子はしゃべらない。弟子がしゃべっている時は師匠はしゃべらない。お父さんが表でしゃべっている時は、奥さんは表でしゃべってはならない。

Q&A

* 禅宗と食事 托鉢でいただいたものは全部食べる⇒時代の変化で肉食がなくなった。
* 修行 佛性は、原石のままではダイヤにはならない。千里の道も一歩の上にある。一歩一歩が連続している。それが修行。
* 禁葷酒入山門 「葷酒山門ニ入ルヲ禁ず」 禅寺の寺門の傍に、不浄なものや浄念を乱すものは寺に入ることを禁ずるという意味が刻まれた石柱が立っている。これを「禁ズル葷酒、山門ニ入ル」などと冗談で読み替えるものもいる。
* お寺は、本来道場である。ひとりではなかなか修業は難しい。大勢おれば牽制や競争も生まれ可能。三人居れば大叢林という。道場に入れば、金魚でも龍に変ずるといわれている。
* 法系 長松寺は、世襲でなく師匠から弟子に継がれてきた。これを法系という。師匠からは「陰徳を積め。偉い坊さんよりありがたい坊さんになれ」と言い伝えられてきた。
* お仏壇の前ではどう拝むか。感謝を捧げるのが理屈にあっている。

⑤参加者の所感

* 坐禅、わずか20分だったが、雑念が激しく行き交った。でも普段の生活の中で無作為に区切る20分とは全く違った。(N)
* 坐禅が終って、人には「静態視力」があることに気付いた。「動態視力」は動いているものをいかに的確に見るかだが、「静態視力」はとどまっているものを見抜くというものだ。また、仏壇に向かっては一言感謝することでよいとのこと。これですがすがしい気分になれた。(H)
* 「健全な精神は健全な肉体に宿る」に象徴される心身2元論と異なり、立ち居振る舞いこそが佛法であり、作法に則る行いをすることが仏の教えであるという考え方は、分かりやすく、現在見失われがちな大切なことを教えていると思った。(T)
* どの宗派がいいとか、教義がオリジナルに近いとかは問題ではなく、ただ、心安らかに「作法」をやっていれば、それが「宗旨」というのは、今回の坐禅で納得というところです。(I)
* 玄米は、サジで3回に分けて口に入れる。そして最低100回は噛んで食べる。ところがこれがなかなか難しい。普段、いかに忙しくいただいているのか痛感する。(N)
* 食事をよく噛んでいただくことが当たり前になったら、静かな気持ちで生活するという時間の使い方が普通の暮らしの中で出来るかもしれない。実際家でやってみると食べることに発見がある。(H)
* あれだけの食材で食事が出来ることにショックを受けた。(T)
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2007年5月例会 「新緑の阿瀬に金山の面影を訪ねる」
開催月日 : 5月26日(土)
開催市町 : 豊岡市日高町
テーマ   : 「新緑の阿瀬に金山の面影を訪ねる」
講 師   : 富山利一さん(猟師、金山最後の住人)
場 所   : 阿瀬渓谷 ~ 金山廃村
参加者   : 中田、木村、峠、原田、谷岡、能登、中尾、友田、藤原じ、
         島垣、浜野、高石、西躰、(会員外)久保、高橋、児玉
担 当   : 中田(記録)、木村

阿瀬渓谷は「ひょうご森林浴場50選」のコースとして知られている人気のハイキング・コースでもある。阿瀬渓谷には48の滝があり、素晴らしい景観をつくっている。
今日の目的地は「金山廃村」。文字通り、室町時代に遡るが、阿瀬川の上流に金、銀の鉱脈があり、かつて1000軒を超える集落があった。

 

今回の例会は、単なるハイキングではない。昭和37年12月26日に最後の住人として「金山廃村」を離れた冨山利一さん、ご本人にを案内していただくのだ。

冨山さんには、但馬学の例会でお話を伺ったことがある。1996年2月「廃村・金山の生活と山の恵み」のお話で、山の生活をお聞きし会員みんな多いに感動した。2000年4月の但馬学10周年記念行事で再び冨山さんのお話をお聞きしたのだが、村を降りるその瞬間のくだりは、何度聞いても心にジーンとくる。

考えてみれば、そんな冨山さんのお気持ちを思うと、「廃村の案内」なんてとんでもないことを依頼してしまったのかと心が痛んだが、かつてお聞きした冨山さんのお話は私の心の宝。今日は、現地で再びしっかりと心に刻みたいと誓った。

第二駐車場まで車に乗り合わせて集合する。冨山さんにご挨拶をして出発。途中のコースを案内板で確認。

 

歩き始めて、5分もしないうちに、道の脇にある大きな杉の木に遭遇する。かつて通り難い個所に道を付け替える為に岩を粉砕する為に発破を仕掛けた時に、その破片が多数、この杉に食い込んだそうだ。

「この杉の中にはいっぱい岩の破片が入っている。間違って伐って製材しようものならノコギリが一発でやられてしまう」と、いきなり冨山さん一流のユーモアたっぷりの案内が始まる。

 

下から5つ目の滝「源太夫滝」(げんだゆうのたき)。阿瀬川と若林川の合流地点にある。まだ、歩き始めて10分も経っていないのに、渓谷の景観にみんな感動である。

「ガラン橋」。今は鉄骨で架かっているが、よーく見ると橋の下には、昔架かっていた橋の木材が残っている。カズラを絡ませて架けたからカラミ橋、さらに訛ってガラン橋になったそうだ。

 

例会の担当をしたKさんと私は、この日の天気予報が気が気ではなかった。週間予報がでた1週間前の予報は「雨時々曇り」(>_<)。ところが前日になって、予報が突然「晴れ」。やったー!(^_^)の心境。

 

打合せのときは、少し脚を故障されていて途中までの案内と言うことでしたが、結局、今日は金山(きんざん)まで案内していただくことができた。龍王滝は、帰路に寄ることにする。

但馬の5月は新緑が美しい。但馬学の5月例会は、毎年山、川に出向いて「気持ちよい季節」を満喫するように企画する。今年の5月例会も最高だ!

 

「不動滝」。阿瀬渓谷の景色を満喫しながら、上、上へと登る。

歩き始めて50分ぐらいで、「関西電力水取口」に遭遇する。阿瀬川の水の一部がここからトネンル通って、下流の「阿瀬発電所」の発電モーターを回す。

「金山廃村」までは、あと20分ぐらい。今日の行程の4分の3ぐらいまで来た。まだまだ、この上にかつて集落があった。最盛期には1000軒も。想像がつかない。

 

だんだんと近くなる「廃村金山」。かつての住民の営みが見えてくる。石垣を積み、田んぼを作り稲を植える。川の両側に石垣が続く。今はそのほとんどが杉の林になっている。当時の米作りの様子は、かなりの想像力を働かせてみないと浮き上がってきにくい。集落の下流に位置する田んぼの一部は、鉱夫の墓地、集落のお墓などがあったと冨山さんから説明を受ける。

 

「廃村金山」に到着する。まず目に飛び込んで来るのが壊れた家屋。金山にあった学校。この建物は私が中学生時代に訪れた時には、ちゃんと建っていた。オルガンもあって、実際に音が出た。それが、今はこの姿。今回一緒に参加した私の高校時代の同級生T君によれば、まだ2年前は建っていたそうだ。
自然に朽ちて行く。その実感は、実際に目の当たりにする以外に得られない。

お風呂の釜。。。。暫し無言。
語ることは出来ない。冨山さんの自宅跡である。

お弁当を食べながら、冨山さんから、「座布団も出さず、お茶も入れずに申し訳ない」と冗談が飛び出す。ここで、当時の生活を語っていただいた。ウサギ狩り、炭焼き、濁酒(どぶろく)名人のこと、そして、発電機を備えた時のこと。

 

話のあった発電機は、今も冨山さん宅から30m程上流の竹やぶの中にあった。昭和30年に初めて灯りが点いたそうだ。電力が余り過ぎてモーターが加熱するので、全戸(6戸)、24時間照明を点けっぱなしするようにしていた。金山集落は不夜城だったのだ。山の上の空は真夜中もこうこうと明るかったそうだ。

発電機の設備は、村の若い衆が手分けをして運んだ。コンクリート袋は背中に1袋、手に1袋抱えて、下の村から運ぶ。今、私たちが歩いて来た道を。気が遠くなる。

 

冨山さん宅裏には清流が流れている。ある時にニジマスを繁殖させないかと下の集落の人に薦められ放流。数が増えるまで獲るなよと申し合わせた。当時はニワトリをさばいて食べることも多かったそうだが、川のほとりで内蔵取り出し、肉を切っていると、バチャバチャとニジマスが寄って来て臓物を食べるそうだ。そもそも食用にするために放流したニジマスだが、鶏肉を食べる姿を思い出すと、食べる気がしなくなった、と。冨山さんのお話はともかくオチがあって面白い。

下山の途中、龍王滝に立ち寄る。大きな岩を伝って滝の下まで行く。

 

写真右下にN君がいるので、滝の大きさがお分かりいただけるでしょうか。金山への道はこの滝の写真左側を通っている。滝の落下地点はその道のすぐ脇にある。

 

金山集落の面影を胸にしまいながら、それぞれのペースで下山する。

もうすぐで出発地点のところまで下山。阿瀬川に夕方の陽が差す。

新緑を眺めながらハイキングするだけでも、充分楽しめる阿瀬渓谷を、今日は冨山さんのお話を聞きながら、金山集落を訪ねることができた。かつての金山の賑わいと、金山集落の存在を語り継いで行かなければならないと強く思った。冨山さんに感謝、感謝です。ありがとうございました。


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2007年4月例会 「但馬弁を探る ~ほんてぇ~たじまべんてぇあるんじゃろうか?~」
開催月日 : 4月28日(土)
開催市町  : 豊岡市竹野町
テーマ   : 「但馬弁を探る ~ほんてぇ~たじまべんてぇあるんじゃろうか?~」
講 師   : 山田寿夫氏
場 所   : 竹野御用地館
参加者   : 島垣、能登、原田、峠、高石、岩本か、岩本め、椿野、藤原じ
         浜野、中田、谷岡、戸田、小川、木村、中尾、友田、成田 (18名)
担 当 : 島垣、能登、岩本和(記録)


まず、膨大な貴重な大屋方言一覧表に驚く。
但馬の限られた地区での方言の考察で、これだけあるので、但馬全体を調べたらとんでもないことになると想像できた。

●これが但馬弁というのは無いようだ
但馬でも、東西南北で、方言が変わってくる。
今のところ、「これが但馬の方言だ」というのがない。
また、取材は行政の急ぎの仕事で短期だったので、まだ不満足な仕上がり。
50年~100年スパンで見れるものではないので、非常にわかりにくい。言葉は変化しているもので、それだからこそ、方言は大事とも言える。
また、秀吉の頃、金鉱があったからか、秀吉とお上とのつながりが大屋には残っている。交差点的な場所だから、言葉が混ざっている。

  

●例題を出して、方言を集める
例えば、「美しい景色」「美人」「全部」「必ず」「気の毒」「干し大根」「漬物」「お手玉」を会員の方々に、但馬の言葉でどう言うのか挙げてもらう事をした。すると、出身により、いろいろな方言が出てきた。

「美しい景色」→きれぇげなけしき あじけぇけしき 等
「美人」→べっぴんさん 等
「全部」→でんぶ ありこまち 等
「必ず」→どんでも どーでも ぜってゃあ しゃっても 等
「気の毒」→かうゃあさげな かわいさげな けうぇえそうな 等
「干し大根」→ほしでゃあこ (干し方の状態により変化)たこのあし まるぼし 等
「漬物」→こうこ つけもん くせもん くもじ おくもじ (これまた状態による) 等
「お手玉」→こびいし おおさわら 等

※これらのわずかな方言の違いで、出身地が少しわかるという。

●取材の話
方言を聞き取れても、文字に落とせない場合がある。また、発音が出来ない事もあり、取材して第三者に伝えると、間違って伝わることもある。

取材は、地域の人に入り込んで、自然体でやらないと、方言が出てきにくい。かまえてしまうと、出てこない。

特に大屋の人はやさしい。歴史的にも対立しない人々のいる村人はあたたかい。
そんな場所には古い言葉が残っていることがある。宮中の女官が使った宮中言葉も残っている。また、よそには無い言葉も残っている。

歴史の中から人為的に消し去られた言葉も。
時の支配力のある人の都合からかも知れない。タブーとなっている。
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