2010年4月例会 「但馬はフィッシングの聖地だ!!」
2010年4月24日
北前館 (豊岡市竹野町)
講師 谷 泰介氏 (海族副代表、FINAインストラクター、あわび本舗ロイヤルスタッフ、Devilfish・暁ジーンズアドバイザリースタッフ)
参加 島垣 太田 小川 岩本か 浜野 福井 中嶋 中田 飯尾 峠 高石 久保 戸田 成田 谷岡 
    会員外3名
担当 太田 小川 中尾 岩本か(報告者) 

●生い立ち
豊岡市津居山出身 漁師である祖父に連れられて3歳の頃から沖釣りを始める。小学生の時は釣りクラブで部長を務める。山陰・若狭・四国・九州などを釣り歩く。アオリイカ・メバル・ソイ・ハタ系を得意とする。
釣りが好きで、今は「スポンサード」を受けている。つまり、スポンサーがあるプロの釣り師。

●道具などの変遷
最初は、人から借りた疑似餌と竿で釣ってみたところ、岸からすぐの所でたくさんのアオリイカが釣れた。疑似餌は餌が要らなくて、車も臭くならないし、手軽。竿(ロッド)と、疑似餌(ルアー)と糸(ライン)とリールがあれば、出来る。祖父の頃、かつての釣りは糸を手で持つか竹の竿。糸は10メートル程度。餌はクルマエビだった。祖父は、その当時から既に疑似餌を使っていた。イカ釣り用の餌疑は、歴史が非常に古く、発祥は鹿児島で武士の嗜みであった。300年ほど前からされていたのではないか。
リールも、今は格段に変化している。昔はアメリカから輸入して使っていたが、ものすごく大きなものだった。今は性能が良く、小さくなった。



●釣り人口
釣り人口は確実に増えている。あまりお金がかからず、身近で手軽。最近では、女子もルアーフィッシングをするようになった。毎年2月にインテックス大阪で行われるフィッシングショーでは、人がすれ違えないほど。今は、不景気で、メーカーがつぶれて少なくなっているが、釣り人口は増えている。ショーでは、2日間で、6-7万人が訪れる。

●道具のいろいろ
ロッドは、太さや長さに少しずつの違いがあって、季節や場所によって、目的によって使い分けられるようになっている。リールも、太鼓リールは船釣りにもってこい。巻上げしやすいリール、スピニングリールは、投げ釣りにもってこい。ラインは、数本の強靭な糸をよって作ってある。細くて、ルアーを投げたときに、リールやロッドとの干渉が少なく、少ない力で遠投が出来る。細くても、5キロくらいまでの引っ張りに耐える。丈夫で1-2年は持つ。ルアーやおもりに使われていた鉛は、環境への負荷への配慮から、最近ではタングステンに代わってきている。針もチタンに。軽くて、魚の吸い込みが良いこともあるし、錆びない。



●道具と流行
魚を釣る前に、まず人を釣らなければいけない。ルアーのデザインや、ロッドのデザインも、流行がある。プロとして活動し、メーカーと契約して活動している関係で、どうしても釣らなければいけないのが辛いところ。しんどく感じることも。自然相手で、あまり神経質な人には向いていないかもしれない。のめり込み過ぎるのも考えものかも。
漁師は、昔のやり方を変えたがらないが、釣果が明らかに違うと変える。
ルアーにも様々な種類があり、メタルジグ・ミノー・ラバージグなどなど。色、大きさも様々。

●魚の目とルアーの色の関係
ルアーは美しい色をしているが、色自体は、一部の魚を除いて判別できていないようだ。魚には「色素胞」が無く、「キラメキ」が魚にアピールして、釣果につながる。最近では、アワビを使った、非常にキラメキのあるシートも販売されていて、それをルアーに貼り付けることにより、さらにアピール力が増す。天然の魚皮もなかなか良い。
日本海では、緑青の海水の色なので、アングラー(釣り人)から見ると、オレンジ色のルアーが良く見えて、海水の中での動きをチェックできる。但し、メバルは色がわかっているようだ。柔いルアーのラバージグの色を変えるとアタリが変わる。ルアーも。「マッチザベイト」と言って、ベイトフィッシュと似たルアーに魚は反応しやすい。



●特別な場所、但馬
日本海は、プランクトンの影響なのか、魚が非常に多い。遠征してみると、但馬にいない美しい大きな魚も釣れるが、水がきれい過ぎ釣れない場所もある。但馬の魚影の濃さがあらためてわかる。日本海側の但馬から少し離れると、砂地になるので、但馬の海底の素晴らしさを感じる。



●その他
海族(うみぞく)というクラブ(現在会員数50余名)では、年2回の海岸の掃除などの活動をしている。多くのアングラーが休日返上で活動に参加してくれる。結果、魚釣りがしやすい環境になり、ダイバーとも仲良くなれる。魚がルアーに乗ってきやすくなるが、行政は乗ってこない・・と皮肉も。実際、竹野のダイバー仲間と谷氏が手を振り合うというシーンも。地元に愛されている。

(報告者:岩本和)


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2010年2月例会 「城崎温泉今昔」

開催日   2010年2月27日(土)
開催市町  豊岡市城崎町
テーマ   城崎温泉今昔
講 師   元井 康恵 氏(豊岡市役所城崎総合支所 温泉課課長)
      小川 祐泉 氏(高野山真言宗別格本山 末代山温泉寺住職)
場 所   温泉寺薬師庵および本堂(豊岡市城崎町湯島)
参加者   中田・浜野・峠・高石・足立・谷岡・久保・岩本m・上田・椿野
      飯尾・戸田・中嶋(13名)
      (会員外2名)
担 当   椿野・戸田・守山・飯尾・中嶋

   

■温泉課課長
城崎町は1400年の古い歴史を持つ温泉地で、昔から「但馬の湯」として多くの人々に知られている。
天正天皇の養老元年(717年)に道智上人がこの地を訪れ、難病に苦しむ人々を救うため千日の間難行を修め、その満願の日養老4年1月8日の明け方、8か所を選んで掘り下げると「天より華雨降り、地より沸々と温泉が湧いた」ので、里人達は「まんだら湯」と名付けたと伝えられている。
明治28年、湯島財産区にこれが移管されたが、その頃の湯銭は1まわり(1週間)が3銭から10銭であった。
日露戦争の傷病兵の療養地として指定され、明治43年山陰線の鉄道開通によってにわかに活気づき日々賑わい繁栄した。
また町の財産区なるものは特別地方公共団体であるため、毎年の年度末には議会が開かれる。
(Q)泉源はいくつありますか?
(A)4箇所ある
(Q)総湧出量はいくらですか?
(A)毎分1470L、平均温度59.4度C
(Q)城崎の外湯は有名だがいくらあるのでしょうか?
(A)まんだら湯、鴻の湯、御所の湯、一の湯、柳湯、地蔵湯、さとの湯の七湯がある

■温泉寺住職
「温泉寺縁起」(大永8年)によれば、温泉寺は城崎温泉を開いた道智上人により創建された。道智上人は地蔵菩薩の化身といわれ、広く衆生済度の大願を発して諸国を巡り、養老元年(717年)この地に来て当所鎮守四所明神に祈願をこめ、明神の信託を得て、翌養老2年から4年にかけて一千日の間、八曼荼羅の修行をなし温泉を開いた。
温泉寺の御本尊は十一面観音立像で、但馬地方の代表傑作。奈良や京都のこの頃の観音像に比べても堂々と対抗し得る彫刻だ。一本の彫成で量感に満ち満ちたものだ。
大和の仏師稽文が長谷寺の観音と同木(桧)で観音像を作り、それが安置されている。この像は33年目ごとの御開帳の秘仏である。次の御開帳は平成30年4月23日からの3年間。但し毎年4月23・24日の開山忌には御開扉があり、拝顔することは出来るが全体像を見ることは出来ない。
試みに温泉寺に祀られている仏像を示してみる。
・木造十一面観音立像(国指定重要文化財)
・木造千手観音菩薩立像(国指定重要文化財)
・木造四天王立像(県指定重要文化財)

温泉寺の記録によると、明治の終わり頃までは入浴に来た者はまず温泉寺に参詣し、寺から祈祷した湯杓を受け、肩から湯を浴びせていたと記されている。
既に知られている事ですが、城崎には生粋の但馬人画家、斉藤畸庵がいる。彼は沢庵宗彭と池田草庵を含め但馬三庵と呼ばれ、但馬を代表する文化人である。同寺の襖絵は畸庵が1840年40歳位の時に描いたもので、他にも掛け軸も各地で大切に所蔵されている。
※(注)この書面の畸庵に関する資料は但馬史の中から戴いたものです。

(Q)現在ご住職は何代目ですか?
(A)29世をお勤めしている。
(Q)別格本山とは何を意味しているのか?
(A)真言宗大本山は高野山にあり、3500の末寺がある。その内の50ヶ寺が天平10年(738年)、時の聖武天皇から末代山温泉寺の勅号を賜った。
(Q)私達は真言宗の住職さんの事を法印さんと呼んでいるが、その呼び名でよいのですか?
(A)一般的にはその名で呼ばれているが、正式に法印さんと呼ばれる人は本山にただ一人しか居られない。それ程の高貴な職名の人を指す。

今回の講演を受け、少なくとも1400年も前から人々は温泉によって常に体を休め、心も癒して来たのでしょう。現在もそうしている事を知った。格差社会という難しい今、文明の力だけでなく無欲で自然の力を受けるなら道は開けるのかも知れないですよ…。

【報告者 飯尾文男】



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2010年1月例会 「ハンガー一筋60年!~環境と経営を語る~」
開催日  2010年1月22日
開催市町 豊岡市日高町
テーマ  「ハンガー一筋60年!~環境と経営を語る~」
講師   中田孝一(中田工芸株式会社・社長)
     (但馬学会員)
場所   中田工芸(株)本社・岩中工場
参加者  
担当   

1946年に創業。父・敏雄が、終戦後中国大陸の兵役から帰国し、家業の「荒物屋」の店番をしていた時に、戦争で疎開してきたハンガーを作る職人さんがハンガーを店に置いてくれと言われたことからハンガーとの出会いが始まる。終戦直後、但馬にいてもお客は少なく、何か売れるものはないかと外に売りに行こうと考え、地元の産品とともにハンガーをもって、神戸の元町や大阪の心斎橋に行った。テーラーさん等がハンガーに反応し注文があった。ハンガーは必需品だということを認識し、職人がハンガーを作り、中田氏の父が営業に回って業容を拡大していった。そして、そうしたなかでお客さんからの注文を受けてその技術も高められた。例えば、静岡は雑貨としてのハンガーの産地であったが、現在では輸入品にとってかわっている。うちは、テーラーから注文を受けたことが示すように、ファッション業界に出していたため、特注ハンガーを作る特別の技術力が備わった。



 この30年間を振り返ってみると、最初の10年(1980年代)はファッションが成長する頃で一緒に成長し休日出勤ばかりであったことを思い出す。これはバブル崩壊まで続き絶頂期には百名以上の職員がいた、登り坂の10年であった。次の10年(1990年代バブルの崩壊後)は、一転して苦労の10年であった。顧客のニーズも中国からの輸入を前提とした低価格指向になり、中国からのハンガーの輸入も開始した。余剰人員の適正化、その他機械設備の会社の構造転換に苦労した。そして、2000年以降のこの10年は、メーカーだがユーザーから直接に注文を受け、いかにナカタハンガーを認識してもらうかの10年が始まった。
 一例として、六本木ヒルズがナカタハンガーの中心的な活躍の場だ。ホテル、レジデンス、テレビ局、専門学校、有名ブランド専門店、これらのすべて又は多くが中田工芸のハンガーを使っている。まさにナカタハンガーがいっぱい詰まっている場だ。



 そして、別の場所でもホテル、内外の有名ブランドで中田工芸のハンガーが使われているとともに、日本一の有名アパレルでも使われている。
 新規市場としては、ブライダル市場がある。「福掛け(福と服を掛ける)」「世界で一つ(名前入りハンガー)」ということで、引き出物としてハンガーが使われ、毎日のように注文がある。また、記念品市場がある。たとえば、大手企業の新製品販売時のノベルティにナカタハンガーが使われた。さらに、創立記念日や卒業記念、昇進祝いや父(母)の日、誕生日といったものもある。これは全部made in JapanでNAKATA HANGERのロゴで作っている。
 ナカタハンガーのこだわりは、①メイド・イン・ジャパン、②ストーリー、③ネットワークで展開を図っている。①made in Japanは、日本人の感性と丁寧なモノづくり、②ストーリーとしては、職人が、コウノトリが飛ぶ自然豊かな豊岡で、手作りで作る、③ネットワークとしては、出会いやご縁を大事にし連携しているということだ。例えば、青山のショールームは、但馬を訪れたアパレル関係の方を案内したことがきっかけでわずか半年間で実現した。



 これらに基づきながら、この10年間はナカタハンガーのブランドを認識してもらおうとしてきた。
 環境との関わりとしては、端材をボイラーの燃料に使うなどリサイクルを行っている。具体的な例はアパレル・メーカなどのユーザーが消費者にアピールする際、使っているハンガーがエコであると情報を提示することにより、エコであることをPRできることとなり、重要なポイントとなっている。
 また、世界に対しても売ろうというのは、20数年前にも取り組んでいた。ドイツ、フランス、イタリアにも出かけたが、驚いたことにどこもハンガー会社は田舎の風光明媚な場所にあるということであった。アメリカにも行ったが、どでかい工場で工場内に貨車が走り、コンピューターのオンラインで結ばれ、24時間体制で作っていた。
 中田工芸も自然豊かな場所にあるが、売り先の多くは東京で、3人の職員が東京に駐在し、東京と日高を行き来するので高い旅費がかかっている。それがハンデと言えばハンデだが、ものづくりは地価や騒音問題などがあり東京ではできない。一方、こだわりやストーリーの点では、豊岡というこだわり、但馬のいいところを見せる、田舎だからこそできることを示せる、という点では優位な場にあるのではないか。

(報告者:谷岡)


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2009年11月例会 田道間守命(たじまもりのみこと)と中嶋神社
日時:2009年11月28日(土)
場所:中嶋神社社務所 豊岡市三宅1番地

テーマ:田道間守命(たじまもりのみこと)と中嶋神社

講師: 中嶋神社宮司 大垣 豊隆さん (但馬史研究会会長)

参加者:島垣、中田、岩本か、岩本め、足立、太田、飯尾、衣川、藤原次、中嶋、小川、谷岡、木村、上田、戸田、高石、守山、西躰

(会員外)3名

担当:高石、木村、戸田、衣川(報告者)

講師の大垣豊隆さんは、京都大学、国学院大学、アメリカ留学などでの研究生活、伊勢神宮での執務などを経て、平成4年から中嶋神社の宮司を引き継ぐ。神道はもちろんのこと世界の宗教・文化への造詣も深く、但馬史研究会の会長としても活躍されている。

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■菓祖神 田道間守命(たじまもりのみこと)と中嶋神社の由来
1 鎮座地 兵庫県豊岡市三宅1番地
2 御祭神 田道間守命(たじまもりのみこと)
3 由 緒
 田道間守命は、第11代垂仁天皇の御代、神社鎮座地の附近に居所を定め、農蚕の業を推奨し民生の安定につとめられました。『日本書紀』によると、垂仁天皇の御代に、天皇の命を受けて海を越え、神仙秘境である「常世の国(とこよのくに)」に行って、「非時香菓(ときじくのかぐのみ)」を持ち帰られましたが、その時は、出発して10年目の3月で、天皇は、既に崩御されていました。命(みこと)は、悲しみのあまり、大和(やまと)の西ノ京に近い、「尼ケ辻」につくられました天皇の陵前に「非時香菓」を献じて、
“帝(みかど)の神霊(みたまのふゆ)によって、漸(ようや)く帰って来ることができましたのに、帝はもう此の世におられません。これから生き長らえても、帝のましまさぬ今、何の益がありましょう”
と、生きた人に申すように述べ、号泣して亡くなられました。
 第12代景行天皇は、命の純忠をあわれんで、先帝の陵側に葬られました。これが命のお墓で近年、遙拝所も建設されています。
 お持ち帰られた「非時香菓(ときじくのかぐのみ)」は、『日本書紀』に「今、橘と謂ふは是なり」と記され、「たちばな」は田道間花(たじまばな)のつまりたるものなりと言う説も古くから行われています。「ときじく」は時を択ばずの意で、「かぐのみ」は香り高い果実の意味で柑橘類の一種で、その果実は花も香気高い名木として、紫宸殿の御苑に桜と共に植えられていることは、今も昔と変わりがありません。
 上古では「果」と「菓」の区別はなく、果実をはじめ間食用の物を菓子と言っていたが、「橘」は菓子の最上品として珍重されました。
 そこで、菓子の最上品「橘」を遙か遠い地より将来されました田道間守命を菓子の祖神、「菓祖神」として崇敬するに至ったのであります。
4 沿 革
 ・第33代推古天皇の御代に田道間守命の七世の孫にあたる三宅の吉士、中嶋の公が、祖先の田道間守命をこの地に祀ったのに由来
 ・社名は田道間守命の墳墓が垂仁天皇陵の堀の中に浮かぶ小さな島にあることに由来
 ・平安時代の延喜式神名帳に登録
 ・本殿は二間社流れ造という類例の少ない様式を持ち、色彩を施し、細部の絵様彫刻の精妙、複雑である点、室町時代中期の特長を示す
 ・本殿は国指定重要文化財(建造物)
 ・全国菓子工業組合の主催によって、ほぼ4年に一度の、全国菓子大博覧会が開催され、この菓祖神を祀り博覧会の成功と菓子業界の繁栄を祈願
 ・昭和44年境内を拡張、45年には田道間守命千九百年祭を開催
 ・昭和49年本殿屋根葦替と塗装、54年大鳥居並び参道を建設
 ・平成11年大鳥居塗替、17年本殿屋根の部分補修
 ・平成21年本殿屋根葦替と塗装
5 祭 日
 四月第三日曜日 橘菓祭(菓子祭)


■延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)とは
 延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」とされていた全国の神社一覧である。延喜式神名帳に記載された神社を、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社であり、そこに鎮座する神の数は3132座である。(『ウィキペディア』より)
 地域別の式内社数
 1 大和 286
 2 伊勢 253
 3 出雲 187
 4 近江 165
 5 但馬 131
 6 越前 126

但馬は5位に入る式内社の多い地域である。しかし、なぜ多いのか、その理由は明確ではない。
中嶋神社ももちろん式内社のひとつであり、平安時代には存在し、朝廷から官社として認識されていた神社である。



■質疑応答のまとめ
・大垣さんは伊勢神宮に28年おられ、神職として16年、一般事務として12年、28年通じて海外からのお客様の対応に当たられていた。イギリス女王・エリザベス2世が来日され伊勢神宮を訪問されたときにも同行された。伊勢神宮での日々は普通の生活からすれば特殊な世界で、朝起きて清めの風呂に入ることから始まり、お籠もりするときは肉などは食べなかったとか。
・外国から来られたお客様への説明役を担当されての感想
  日本の神は万神・多神教である。単一教とはかなり違う。
  総体的にアジアの人はわかりやすく、イスラムの人はわかりにくい感じがした。
  アメリカは信仰の自由が浸透しており、宗教に関して練られて大人である。
  宗教など関わりなく、理屈なしにここは聖地だとわかる人が多かった。
・27、28歳ころに世界一周旅行をされ、日本文化を考える上で大変役に立っている。
・日本では山、森、滝、水なども神聖な場所。日本には神聖な聖地がたくさんある。それは大切なことだと思う。聖地を感じる、パワーを感じる、受取人がしっかりしていれることが大事なことだと思う。

(報告者:衣川)


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2009年9月例会 日本海誕生の鍵は但馬にあった~但馬の地学を学ぶ 山陰ジオパークとは~
テーマ:日本海誕生の鍵は但馬にあった
     ~但馬の地学を学ぶ 山陰ジオパークとは~
日 時:2009年9月26日(土)13:00~
場 所:山陰海岸ジオパーク館会議室(新温泉町)
講 師:谷本 勇氏(ジオパーク調査専門員)

「山陰海岸ジオパークのテーマと特徴」 
○ジオパーク館とは
このジオパーク館は、旧浜坂マリンポーチを改修し今年8月に竣工したばかりです。
お気づきのように、ここにはあまり展示物のようなものはありません。ここは見るところではなく、研修や体験学習の場として、また山陰海岸ジオパーク全体の情報がここにくればわかるという情報基地になることが狙いです。
山陰海岸ジオパークは13のエリアからなります。それぞれのエリアに拠点施設(例えば竹野の北前館、豊岡のコウノトリの郷公園など)がありますが、ジオパーク全体の情報拠点として、それらを束ねる施設になりたいと手を挙げている状況です。

※山陰海岸ジオパークの13のエリア
=鳥取砂丘・浦富海岸・但馬御火浦・浜坂海岸・香住海岸・竹野海岸・経ヶ岬~間人・琴引浜~久美浜・郷村断層・円山川・神鍋・扇ノ山  
                          
○ジオパーク指定に立候補した経緯
なぜジオパークの指定に立候補することになったのか、その経緯をお話します。
もともとは夢テーブルの委員の方が但馬を元気にする方法の一つとして考えたことです。
但馬地域の活性化のために、何か起爆剤になるものは無いかと考えた時に、山陰海岸国立公園があるという話になりました。ただし現在の山陰海岸では、一番良い視点場である海から海岸を眺める場所が少なく、三箇所からでている遊覧船から一部を見られるのみです。起爆剤としてもっと人を呼ぶためにはどうしたらいいか考えました。
最初は世界遺産にしようと考え、H14年から立候補に向けて活動を始めました。色々と活動しましたが前回の世界遺産の選考では残念ながら落選しました。
世界遺産には自然遺産のほかに、産業遺産や歴史遺産などいくつかのジャンルがあります。選考は毎回別のジャンルについて行われます。したがって次に自然遺産の選考があるのはおそらく7年後ということになってしまいます。
それではすごく先の話になってしまいます。では他に何か無いかというときに、ジオパークに推薦してはどうかというアイデアをいただきました。

○ジオパークって何?
ジオパークを分解して訳しますと、ジオ=Geography=大地・地球、パーク=park=公園です。中国では「地質公園」と訳していますが、地球の営みを学んだり活用したりする場所であるといえます。地質・地形をベースにその上に広がる植生や野生動物、そしてそこで営まれてきた文化等が優れた場所が指定されます。
ジオパークという枠組みは2004年に生まれました。現時点ではヨーロッパと中国に指定地があり、18カ国60地域が登録されています。世界遺産は保護の視点しかありませんが、ジオパークは保護と活用の両面から考えられているという違いがあります。ジオパークの指定を受けたところは地域の活性化につながっているところも多いそうです。
以前、中国の泰山でジオパークの委員会がありました。中国では観光と絡めてジオパークの指定を進めています。泰山はもともと世界遺産に登録されていますが、ジオパークの指定により、より多くの人に来てもらおうと考えているのではと推し量られました。

○ジオパーク指定のための活動の開始
活動を始めた当時、日本にはまだ指定を受けた場所はありませんでした。
どうしたらジオパークになれるのか。文科省にも問い合わせましたが取り合ってもらえませんでした。そこで、但馬から鳥取にかけての日本海沿岸の自治体で組織されたコリドー21に働きかけました。熱意が伝わり色々と頑張ってくれて、話が前に進みはじめました。  
では国内の他の地域で活動しているところは無いかと調べますと、翡翠や化石の産出で有名な糸魚川で、すでにジオパークという名前を冠した活動が始まっていました。
ジオパークの指定に向けて一緒に活動しようと声をかけると洞爺湖、雲仙も手を上げました。後に室戸も手を上げました。ところが、まだその国にジオパークがない場合は、一度の選考で一カ国につき3ヵ所までしか指定できないというルールがありました。
そこで、選考委員会が立ち上げられ、活動内容、自然資源、組織体制等を評価して選考がおこなわれました。しかし山陰海岸は、組織はまだ未整備で、鳥取砂丘、玄武洞、なき砂文化館などがありましたが、少しアピールする資源が不足している感がありました。選考の結果、やはりというべきか、糸魚川、洞爺湖、雲仙の3ヵ所が選ばれました。

○ 山陰海岸ジオパークのテーマと特徴は?
ジオパークには何故ジオパークにするのかという価値を示すテーマがいります。
山陰海岸では全体を統合するイメージが曖昧なままでした。
そこで、日本海の形成との関わりという切り口から整理できないかと考えました。整理を進めた結果、山陰海岸の地形・地質的特長を6つにまとめました。
1.日本海形成に関わる多様な火成岩・堆積岩層の分布とそれらの岩石海岸での露出
2.日本海沿岸の多様な海岸地形
3.日本海形成後も引き続く火山活動による火山噴出物・火山地形
4.第四紀における地磁気逆転期の発見サイト(玄武洞)
5.火成活動の影響を受けた豊富な温泉資源(昔からある自然流出の温泉)
6.日本海沿岸で生じる第四紀地殻活動を示す活断層・海岸段丘  
次に、6つの地形・地質的特徴に加えて、人との関わりに関する特徴も以下の6つに整理しました。
1.北前船に代表される海洋交易の歴史
2.水産物や温泉等による観光拠点
3.地形を利用した土地利用
4.鳥取砂丘の草原化防止の取り組み
5.コウノトリの保護活動
6.地震災害とその復興の歴史、豊富な温泉資源の活用。
                                                                                                                                                                                      
○地質年代とジオテーマ
地形地質の多様性と広域にわたるジオパークエリアを効果的に利活用するため、地史にそって5つのテーマを設定しました。
Ⅰ 日本海形成前の大陸の時代
Ⅱ 日本海形成へ向けた前駆的内陸盆地と安山岩質マグマ活動の時代(香住の足跡化石)
Ⅲ 日本海形成と流紋岩質マグマ活動の時代(日本海ができた)
Ⅳ 日本海成立後に引き続く火山活動の時代(照来山の昆虫化石。巨大なカルデラだった。)
Ⅴ 現在の地形形成と第四紀火山の時代(リアス式海岸)

○一番大事なこと
今後は、それぞれの地域を案内してくれる人が必要になってきます。
そして、地元の人と海外を含む各地からの来訪者の間に、ジオパークを介在して交流が生まれる。ここ(山陰)にいながらにして世界と繋がることができるようになる。このことが一番大事なことだと思っています。

・感想
ジオパーク指定への取り組みはまだ始まったばかりのものでこれからが大事であることがわかった。しかし地質時代から始まる話が、近現代の人々の営みとそれによって生まれた風景までカバーするスケールの大きな物語となる可能性も秘めている。もしこの壮大な物語を語ることができればすばらしいことだと思う。

(報告者:足立 徹)



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