10月例会の案内
■□ 但馬学研究会 2010年度~2011年度 10月例会案内 □■

──────────◇◆ テーマ ◇◆────────────────────────

伝統野菜から新野菜まで
~ 気比をこよなく愛する若者の挑戦 ~

気比の野菜は有名で、豊岡の青空市場や、城崎温泉、丹後民宿街の
野菜供給地となっている
特に里芋は絶品で、昔から受け継いできた種芋は気比の宝だ
なぜ気比の根野菜は美味しいのだろうか、それは・・・

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担当: 太田、戸田、西躰、岩本
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日時: 平成22年10月23日(土)12:00~

場所: ファームハウスのの花(豊岡市気比2373 tel 0796-28-3237)
   (音が出ますので注意してください)
    アクセスページで地図を確認してください
    駐車場に関しては担当者が案内します

講師: 留田幸大(とめだゆきひろ)氏 (ハッピーベジタブル代表・野菜アーチスト)
     
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〔スケジュール〕

12:00 集合・昼食  ファームハウスのの花
    山の幸,里の幸,海の幸、地元食材で秋を満喫

13:00 お話・質疑 ファームハウスのの花食堂にて

14:30 現地視察 (終了後に収穫の状況により野菜の即売会を計画中)

15:00 会員トーク 場所を移動するかもしれません

16:00 終了

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★参加締切り 10月21日(木)
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但馬学研究会 2010~2011年度 9月例会報告 竹田城を見直す~羽柴秀長の但馬侵攻 ~
□ 但馬学研究会 2010~2011年度 9月例会報告

──────────◇◆ テーマ ◇◆───────────

竹田城を見直す~羽柴秀長の但馬侵攻 ~

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日時: 平成22年9月25日(土)12:00~
場所: 山城の郷(朝来市和田山町殿新井土13-1)
講師:足立裕(あだちゆたか)氏 (但馬史研究会会長)
朝来市和田山町竹田417 079-674-2751
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はじめに
「竹田城を見直す」というタイトルで約1時間半、足立先生のお話を伺った。
冒頭に但馬史は中央史と密接な関係があることを、森尾古墳、池田古墳、応仁の乱、生野の変などの事例をもとに話された。
全体を通じて感じた事は、竹田城の歴史を再認識する事は、但馬の歴史を再認識することにもつながるということであった。
以下は先生のお話を、提供して頂いた資料をもとに、その内容をまとめたものである。

竹田城興亡史
竹田城は353メートルの山頂に築かれた山城で(虎臥城)とも言われる。
太田垣氏 7代 130年余
羽柴秀長    3年
桑山重晴    5年
赤松廣英     15年
地元には室町時代の1443年に山名宗全が13年かけて築城したという言い伝え(口碑)が残っている。最近の研究では、この時代には総石垣で天守をもち縄張りのこれほど整った城はなく、今見る竹田城は織豊時代の山城としての最終形態のものであるとみられている。

太田垣氏の時代
山名氏の四天王といわれた太田垣氏の居城となる。嘉吉3年、1443年の築城(口碑)であるならば、その2年前には嘉吉の乱があり、播磨の赤松満祐が将軍足利義教を殺害し、領国播磨に帰り立てこもった。細川、山名軍は、この討伐に向かい、満祐は城山で自刃した。山名軍は但馬から生野峠を超えて播磨に入ったが、完成間近の竹田城は、その事件にかかわりをもっている。その後、赤松復興にからみ、生野峠付近で赤松軍と山名軍は何回か交戦している。

羽柴秀長の時代
天正5年10月、羽柴秀長は生野銀山、朝来郡、養父郡を攻略。今までは(信長公記)天正5年10月28日が基礎となり、羽柴秀吉の侵攻となっていたが、この時は秀吉は西播の上月城(赤松政範)を攻めていて、三日月に布陣しており、但馬には入っていない。前野家文書には、その時、加古川で行われた軍議のなかで、秀長の但馬進攻の状況が記録されている。(後述参照)

桑山重晴の時代
天正8年桑山重晴竹田城主となる。
天正13年桑山重晴和歌山に転封。桑山氏については「藩翰譜」(新井白石)によっているが、竹田地区には具体的な史料はほとんどない。重晴は、各地の城攻めに参加していて、竹田城にはほとんど在城していなかったと思われる。重晴の子供の過去帳、五輪塔が竹田に残っている。

赤松廣通(廣英)の時代
天正5年10月羽柴秀長が南但馬を攻めた時従軍していた。その後、秀長について各地の城攻めに参加していた。
天正13年竹田城主となる。朝鮮出兵、慶長の役、慶長5年(1600年)9月関ヶ原の戦には、西軍として丹後の田辺城(細川藤孝、幽斉)を攻める。(但馬の大名も田辺城攻めに参加)
慶長5年10月亀井茲矩からの要請を受けて、鳥取城宮部善祥房を攻め、その時の兵火が城下に移り、多くの民家を焼く。その責により慶長5年10月28日、鳥取真教寺で切腹、竹田城廃城となる。

竹田城の落城前後
吉田家(前野家)文書、昭和34年(1959年)9月26日伊勢湾台風の時、愛知県江南市吉田家(前野家)から発見された文書には、秀長が但馬攻めした時のことが詳述されている。
関係部分を抜粋して次に書く。

「但州竹田城主太田垣土佐守高所ニ城ヲ築キ立向イ候。御大将羽柴小市郎殿人馬之息不休逃集之一揆輩悉く切崩し追討在在火ヲ放竹田之城寄懸候処高山険祖ニ拠岩石投ゲ落シ手向イ候。寄手之面々不為物山谷打越諸手ヨリ鉄砲三百挺筒先相揃ヘ討入申候得バ遂不叶向降参城明退渡候也(以下略)」

羽柴秀長の南但馬侵攻
播州国府に集結天正5年10月30日(現行歴12月19日)赤松廣秀の合力総勢約4,000人生野峠より但馬に侵入。
岩州城攻め  11月1日(12月20日)―両日を待たず
竹田城攻め 11月2日(12月21日)
太田垣輝延 11月3日(12月22日)
11月2日(12月21日)「両3日」
11月3日(12月22日)
11月4日(12月23日) 


但馬の動向 天正5、6年
天正6年1月、羽柴秀長竹田城で越年。
前野長康岩州城で越年。生野銀山の採掘。
各武将それぞれ但馬で年を越し、占領地を固める。

羽柴秀吉(天正6年7月)
竹中半兵衛を伴って竹田城に来る。約1ヶ月滞在する。

藤堂高虎(天正6年12月)
前野九郎兵衛、丹羽寛左衛門等、鉄砲50丁、玉薬5駄分、竹田城に運び込む。

羽柴秀長の北但馬侵攻
天正8年4月、羽柴秀長北但馬を攻める。総大将羽柴秀長、先陣宮部善祥坊、前野長康、加藤作内、青木勘兵衛、藤堂与右衛門、堀尾茂助、山内猪右衛門ら総勢6,400有余人。出石、有子山城は一戦も交えず明け渡す。

竹田城周辺あれこれ
・羽柴秀吉は播州の国がほしかったのだが、戦争をして得るのでなく調略によって得たいと考えた。その調略役を命じられたのが黒田官兵衛であり、大いに貢献した。(注)調略とは戦争はせず、話し合いによって解決する事。仮に1万人の軍勢がいたとすれば、1人につき1日5合の米を食すとしても、1日に125俵(7.500kg)が必要となる。戦争をして多くの人、馬等の命を落とす事を考えるならば、もっとも平和的な戦法だと考えられる。
・羽柴秀吉や秀長の戦の勝因は鉄砲があったからだ。
生野銀山は大切な山である。そのため銀山で働いている人は殺してはならぬと命じている。(秀吉の御諚)
その後秀吉は天正5年に織田信長の安土城に生野の銀350貫目(約1300kg)贈った。信長は大いに喜んだ。
生野には堺の商人が入っていて、茶人津田宗及と云っているが、実は武将であったのではないかとも云われた。他にも千利休クラス(政治に通じている人物)がいたようだ。
・生野には個人蔵ではあるが雪舟(室町後期の水墨画の僧)の三幅対があると云われている。その画が国立美術館から修復の際に借用させて欲しいとの申し出がある。その他、池大雅や、平野国臣などの出入りもある。
・竹田城は400年の石垣に苔(ヒヨリゴケ)や蔦(チョウジュヅタ)が生えていたが、町教委が除草剤を散布して、ダメにしてしまった。


質疑応答
(Q)当時武士はどのように暮らしていたのか。
(A)その頃は平農分離ではなかったので、平時は武士も百姓等をしていた。

(Q)竹田城攻め当日は雪が降っていたと考えるが、降っていたか。
(A)その日は降っていなかった。(11月25日は降っていた。)

(Q)私たち但馬学研究会で今後地域史では何を学べばよいか。
(A)古墳地代、特に出石、但東、和田山を主に(50mクラスも各地に多くある)、古代の山陰道も調べてみられたらこれも面白い。

(Q)江原近くにも城があって、攻めを受けた。しかし口碑では、秀吉が攻めたと云っているが、それは秀長であったのか。
(A)その通り。

(Q)竹田城といえども3,000人の武士は生活できないと思われるが、他の人はどこで生活していたのか。
(A)城近くの土地で生活していた。その地も今は払い下げを受け、個人所有となっている。


時間的制約があり、質疑応答は短時間しか取れなかった。閉会後、メンバーからは、講師が竹田城の地元の人なので、城をめぐる伝承や生活のしきたりなど、現在にも生きている事柄なども教えて欲しかった、との声もあったことを付記しておく。
(報告者:飯尾、校正:峠)

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9月例会のご案内
テーマ
「竹田城を見直す」

内 容
竹田城は雲海を撮影する名所として有名ですが、最近では、石垣造りの山城として天下の名城の一つに数えられ全国的に知られるようになり、遠方からの見学者が増えてきました。
講師の足立裕さんは、地元(和田山町竹田)在住の歴史研究者として長年活動されています。
羽柴秀長の但馬侵攻以後の歴史に触れるとともに、城郭・城跡研究の視点でも竹田城について熱く詳しく語っていただきます。
私たちがより身近に竹田城を知ることが出来るとともに、但馬の歴史にも更に関心が深まるものと期待しています。

例会終了後、希望者は竹田城を訪れると良いでしょう。
更に味わい深くなると思われます。(山城の郷から近いです)

講 師
足立 裕氏 (但馬史研究会会長)

日 時
2010年9月25日(土)12:00~16:00

場 所
山城の郷(竹田城ふもと) 朝来市和田山町殿新井土13-1
 電話:079-670-6518

スケジュール
12:00 集合・昼食:山城の郷
13:00 講義開始
16:00 閉会

参加申込
9月22日(水)中にe-mailでご連絡下さい。
参加費は、1,000円+昼食代(実費)です。

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2010~2011年度 8月例会 「日本の民族文化から見た但馬の民族文化の特色 」
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-
■□ 但馬学研究会 2010~2011年度 8月例会報告

──────────◇◆ テーマ ◇◆─────────────────────────
日本の民族文化から見た但馬の民族文化の特色
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-
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日時:平成22年8月28日(土)12:00~
場所:但馬長寿の郷 (和室)
講師 : 大森恵子氏(日本宗教民俗文化史総合研究会代表・仏教大学非常勤講師他)
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講師の大森恵子さんは京都在住ですが、但馬の生まれで「方言は文化である」と京都弁を使わず、但馬弁で話されました。但馬弁で話されるので言葉の威力というのか、聴く側に強い印象をもたせるお話でした。
豊岡高校在学中に郷土史に興味があった数学の先生に勧められて大谷大学に入学、民族学で有名な五来重先生について「竹野蓮花寺のざんざか踊り」というテーマで卒論を書く。大学時代、能の面白さに夢中になったことも加えて、念仏踊りなどを中心に全国をまわられて調査、研究を続けられています。




今回は民衆信仰と関わる祭り、温泉湯治という切り口でお話しいただきました。
〇神社とお寺について

神仏集合
平安時代の終わりから明治まで神仏習合であった。
徳川幕府は庶民の取り締まりにお寺に寺受け制度を設ける。
区役所の役をする、いわゆる戸籍謄本がお寺にあった。
お寺は江戸幕府の政治機関であった。

神仏分離
明治政府、神仏分離令(明治元年に。)を発令。
支配者が変ったということを一般市民に言うために寺を弾圧する、破壊するのが妥当であると判断した。天皇は神様の子孫であるという伊勢神宮の思想を中心に明治神宮などを造営する。
寺を弾圧する時代になる。
しかし一般庶民は神社がお経を唱えようが念仏唱えようが構わなった。

第二次世界大戦以後、元の状態が神仏習合だったということで神社もお寺さんも隠していたものを出してくるようになる
1、(ふりゅう)太鼓踊りについて(資料から抜粋)

・風流とは、趣向を凝らした風情ある造り物や仮装した状況を表す。
・風流踊りとは美しく飾った造り物(花笠・風流傘・大団扇・花シデなど)を付けたり、さまざまな衣装を着て仮装して踊る踊りを指す。
・ 太鼓踊りとは、腰や胸の部分に太鼓を付け、前後左右に足を移動させながら踊る踊りをいう。

. 但馬の風流太鼓踊り
・久谷ざんざか踊り(新温泉町)
・ 轟の古代太鼓踊り(豊岡市竹野町)
・ 虫生の笹囃子(豊岡市但東町)
・ 佐々木の笹囃子(旧出石郡但東町 廃絶)
・ 中藤の笹囃子(旧出石郡但東町 廃絶)
・ 九鹿のざんざか踊り(養父市八鹿町)
・ 三谷のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 青山のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 万々谷のざんざか踊り(旧養父郡八鹿町 廃絶)
・ 大杉のざんざこ踊り(養父市大屋町)
・ 若杉のざんざか踊り(養父市大屋町)
・ 寺内のざんざか踊り(朝来市和田山町)
〇念仏踊りについて
お寺が仏教の教えを広めるために念仏踊りで教えた。
但馬では僧侶が踊りのリーダーをやっているのを残している。
踊りを先導する人(お坊さん)がいて、芸能を観ることも楽しみ、お参りすることも、踊ることも楽しみという、それぞれの目的が一致する。
ほめ念仏、お祝儀の念仏、死者を供養する、災いを避ける、雨を請うなど。
踊り歌中で南無阿弥陀仏と言っていたのがナミヤミントウやナミントウと呪文みたいになった。

播磨、但馬の辺りは木地屋さんがいる。木を切って作ったものを売る。
そういう人達は一方では山岳修験者だった。
但馬は大屋を中心に一つの宗教圏があった。
山を越えたところに聖の入場した塚などがあり、念仏色など、古風の形態を残していた。
修験道、山伏の文化を伝え、大谷、大杉の場合も、歴史的に遡ると、古い神仏の形を現代の祭礼の中で伝えている。
〇盆踊り
お坊さんが鉢を叩いて念仏に合わせて踊るのが、もともとの踊り。
その年、亡くなられた方の位牌を踊り場に持ってきて必ず念仏を唱えてから踊る。
板塔婆を背中に負ぶって親族の人が踊る。
それがだんだん踊るということが楽しむということだけになり、そこで誤解が生じて今はやっていない。何にも楽しくなく悲しいのに踊ってもらわなくて良いと阻止した家があった。本当の意味を知らないから、誤解が生じた。

本来、盆踊りは死者を供養する踊りである。だから死者の家に行き、縁側で踏んで盆踊りした。
踊る場合、踊っている人が手ぬぐいを被る、ほっかむりをするとかして顔を隠すのは簡単な
仮面で、現在の人間ではない。顔を隠してわからなくすることで帰ってきた祖先が自分の体に
乗り移ってくれている。

地面を蹴るのは土に無縁仏が悪さをする霊がいるので足で踏んで悪魔を払いをした。
お相撲さんの土俵入りと同じである。
土の神様に目覚めてちょうだい、豊作にしてちょうだいと願う。
土の神様は祖先ですから。
そんなような呪的な踊り方で、それが当たり前だった。



2、湯治場の習俗と信仰について

〇温泉湯治の話
温泉番付というのがあった。
江戸の中期から、きのさきは関脇である。
江戸の後期には 湯村温泉(播州湯河原の湯) の番付があがる。

〇温泉は山の神様の恵みである。
温泉の発見
動物が自然につくられた露天風呂で傷を治していた。
ホウ酸が含まれているなど、効能があることは温泉学会で実証されている。
城崎温泉の鴻の湯の発見はこうのとりである。
高僧が見つけた。空海、行基、連人、山伏など。

〇温泉と神仏
温泉のある場所には神仏がある。
病気を治す目的なので神仏に祈願する。
圧倒的に薬師如来が多い。
薬師如来80%、お地蔵さん、観世音菩薩、弁財天(厳島明神)などがある。
江戸時代は薬師堂に参詣してから湯に入っていた。
城崎温泉は温泉寺の十一面観音、観音堂にお参りする。
温泉寺の道智上人がまんだら湯が熱い湯だったので読経を唱えてぬるくしたと伝えられる。

〇奉納物(温泉寺)
高下駄、松葉杖など
足の悪い方が治ったというので奉納した高下駄がある。
高下駄は履いてきたのではなく、手に高下駄をして、山道を這って来た。
その高下駄を帰りには要らなくなったからと奉納していった。
奉納物は時代によって違う。

〇温泉の湯の管理は湯守がした
湯守は修験者であった。
誰かがけがれたものを入れたりするのを取り締まる
衛生面の管理をする。
入湯税を徴収をする。
勧進柄杓 金品をもらうときに受ける柄杓
ひしゃくを売る。それだけ寄付金が入ってくる。

〇明治以前は男女混浴であった。
明治になると男女別々に分かれる。
幕湯といわれ、幕で仕切る。
その後、一の湯は男、二の湯は女と時間で分ける。

〇湯かむり歌
岩井温泉では湯長の人が湯の表面を叩きながら。
城崎温泉ではしょうぶ湯の頃にやっていた。

3、観音信仰と銀山について

観音信仰は鉱山に関係がある(生野銀山、石見の大森銀山)
銀を採掘するということは生野と石見しかないのですから、お互いに情報提供しないとダメな面があった。
石見の鉱山神社に行くと岸壁にお祭りする山車がある。
今でも江戸時代からのものが含まれている。
浦島さんとも関係があるのではないか。
大きな亀が銀の鉱石を持って現れて銀を掘ってあたった。
亀は玄、玄の妙見山である。仏教の梵字で現すと弁財天、妙見山は同じ梵字である。
そういうところから、妙見山の信仰も伝わっていく。
現実に出雲大社の近くに妙見山がある。
そういうふうな繋がりがあって、銀山をもとにした信仰、お互いのやりとりがあったのではないかと思われる。

以上、興味深いお話の内容でした。
ひとつのテーマで研究していくと、そこからまた新しい興味が起こり、面白い方向に広がったり思いがけない繋がりを発見したりして尽きることがないと言われてました。とても説得力のある言葉として脳裏に残りました。
(報告者:浜野)

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8月例会のご案内
■テーマ
「日本の民俗文化から見た但馬の民俗文化の特色」
-特に、風流太鼓踊りと温泉湯治を中心にして-

■内 容
大森恵子先生は但馬出身の民俗学研究者で、但馬の年中行事や民俗芸能、宗教民俗などについても詳しく調査・研究されています。
民俗学の切り口から、但馬学の今後の方向性や課題を考えていくための指針を得ることがができるものと期待しています。

また、当日の会員トークでは、22年度の例会運営方針と20周年事業についても話し合います。
例会報告作成やホームページ充実などの課題についても相談する予定です。

■講 師
大森恵子先生(京都明徳高校)

■日 時
2010年8月28日(土)12:00~16:00

■場 所
但馬長寿の郷 和室(昼食も)

■スケジュール
12:00 集合・昼食:但馬長寿の郷
13:00 講義開始
16:00 閉会

■参加申込
8月25日(水)中にe-mailでご連絡下さい。
参加費は、1,000円+昼食代(実費)です。

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