2012年~2013年度 3月例会案内
◆「平 盛嗣(たいら の もりつぐ)〜但馬の平家落人伝説はウソだらけ?〜 ◆
        山口先生の平家落人伝説論が炸裂!!
 
『平家物語』に平 盛嗣(越中次郎兵衛盛嗣)の事が記載されています

延慶本によると壇ノ浦の合戦の後、彼は落ち延び、但馬国に潜みますが、建久
五年(1194年)に捕らえられ、処刑されています。

 越中次郎兵衛盛嗣の名からも察せられるとおり、彼は、越中守・平盛俊の次
男の左兵衛尉で、平清盛の側近であった平盛国の孫にあたります。父の盛俊も
勇猛な武将として有名でした。

 平盛嗣については、平家物語にも多くの記述があります。有名なのは屋島の
合戦での伊勢三郎との詞戦でしょう。

 壇ノ浦の合戦後、盛嗣は、一度、平盛久らと共に都に潜入しますが、都では
平家の残党狩りが厳しく行われていたため、但馬の国に落ち延びます。その後、
彼は、城崎郡気比庄を本拠とする気比権守こと日下部道弘の屋敷にもぐりこみ、
馬飼いとなったといいます。ところが、いつしか彼は道弘の娘の許に通うよう
になり、道弘の婿となります。道弘は、彼がかの越中次郎兵衛であると気がつ
いていたが、黙認していたとか。

 一方、鎌倉方は盛嗣の居所を厳しく追及しており、頼朝は、「越中次郎兵衛
盛嗣、搦めても誅してもまいらせたる者には勧賞あるべし」と皆に披露したと
平家物語(延慶本)にあります。

 そのころ盛嗣は、忍んで度々京に上り、旧知の女の許へ通っていました。や
がて女に気を許した盛嗣は、女に自分の居所を教えてしまいます。ところが、
この女には他にも情夫がおり、女は情夫が「盛嗣を捕らえて勧賞をもらいたい
ものだ」と言ったのを聞き、「わらわこそ知りたれ」と洩らしてしまったのです。

 捕らえられ鎌倉に送られた盛嗣は、「今は運つきてかように搦め召し候上は、
力及び候はず。とくとく道を召せ」と堂々と頼朝に言ったとか。その立派な態
度に、頼朝は盛嗣を助けて召し使おうと思いましたが、彼は平家の侍の中で一
・二の者であり、「虎を養う愁いあり」として、ついに由比ヶ浜で斬ったとい
われています。

―ーーーーーーーーーーーーー 記 ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

日 時: 2013年3月23日(土)12:00~

場 所: 城崎文芸館(TEL.0796-32-2575)
    (駐車場に制限がありますので、駅の駐車場にお願いします)

講 師: 山口久喜(ヤマグチヒサキ)氏

〔スケジュール〕

12:00 城崎文芸館に直接集合・昼食(かにずし弁当を予定)
    寒いので厚着でお願いします

13:00 お話・質疑
    弁天山の供養塔視察

15:00 会員トーク

15:30 終了

参加申込  3月22日(木)まで

例会担当: 島垣、小川、太田

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