2010年~2011年度3月例会報告『「但馬のくみ」か「丹後のくみ」か』~「一遍聖絵」を中心にして~
日時 : 2011年3月26日(土)     12:00~16:00
場所 : 立誠舎(養父市八鹿町八鹿610番地)
講師 : 大森惠子氏(日本民族学会評議員、説話・伝承学会委員、旧浜坂町出身)

《会場について》
 大森先生のお話の前に、会場である立誠舎の改修に奔走された八鹿地区自治協議会会長山根功暉氏から、その概要について説明を受けた。立誠舎は、但馬聖人池田草庵が開いた幕末の漢学塾で、後の青谿書院の前身施設である。池田草庵は、いずれ当会としても人物シリーズで是非とも取り組みたいテーマでもあり、今回はその予告編として位置付けている。なお、山根氏には、会場の無償提供や奥様までお手伝いをいただくなど多くのご配慮をいただいたことを附記し、感謝申し上げたい。

《予備知識として》
 この例会報告を初めてお読みいただく方には、若干の予備知識があった方が分かりやすいと思い、2点ばかり解説しておくこととする。(出典:角川日本史辞典)
① 一遍 鎌倉時代の僧。時宗の開祖。伊予の豪族河野通広の子。各寺で修行、巡拝して他力念仏の確信を深め、勧進帳と念仏札を携えて、死に至るまで全国各地を念仏遊行し250万人に結縁、世に遊行上人といわれる。その間、宗教的感興にまかせて踊念仏を勧め、特に農民・漁民などの尊信を集めたが、同時に禅的傾向をも有していたため、武士層もまた一遍に近づいた。
② 一遍上人絵伝(一遍聖絵) 絵巻。時宗の開祖一遍の教化遍歴の生涯を描いたもの。(中略)伝記としても、芸術的にも歓喜光寺本がすぐれ、特に自然描写は宋元画の描法を摂取して傑出、鎌倉時代、社会・風俗研究の好資料。

《但馬のくみか丹後のくみか》
 さて、本論である。何ともミステリアスなタイトルで、門外漢の私は「くみ」は「くに」の間違いではないか、失礼ながら大森先生たる方が何というミスをされるのかと思った。   
しかし、周到で豊富な資料をいただき、お話をお聞きするにつれ、私の不明を認識するに至った。素人とはいえ汗顔の至りである。

 学問というものは、謎解きだと思ってきたが、民俗学もとりわけ大森先生の歴史民俗学の系統のなかでは、資料で検証し、現地で確認し、頭であれこれと想定していく時間のかかる世界だと思った。それだけに謎が解けだしてきた時は雀踊りし、まして学会で一定の評価を得られるとなるとそれこそ研究者冥利に尽きるだろうなと感じた。

『一遍聖絵』のなかの「くみ」の地と龍の宗教性

◇『一遍聖絵』のなかの「くみ」の地
 
1 「丹後の久美」と「但馬のくみ」をめぐる諸説

 一遍聖絵 第八の中で、『(前略)「同八年五月上旬に丹後の久美の浜にて念仏申給けるに、龍なみの中より出現したりけり。(中略)又同年但馬国のくみといふ所にて、海より一町あまりのきて道場をつくりたりけるに、おきのかたより電のするをみ給て、龍王の結縁にきたるぞとの給て(中略)因幡国をめぐり給けるに、或老翁結縁のこころざし(後略)』の記述がある。この下線を引いた箇所が今例会のメインタイトルの元になっている。

 さて、この一遍聖絵に記載された道場所在地「久美」と「くみ」はどこか。①「但馬国」は「丹後」国の書き間違いで、2か所とも丹後国の久美浜とする説、②但馬国の時宗寺院として有力な竹野町竹野の興長寺とする説、③「但馬国のくみ」は「但馬国のいぐみ」と仮定する説などがある。結論としては、「丹後の久美」は今の京丹後市久美浜の浦明(うらけ)であり、「但馬のくみ」は現在の新温泉町居組だろうと大森先生は言われる。

 2か所とも丹後国とする説はご当地思いのご愛嬌のようであるが、「又同年但馬国の…」と「又」とあるので、丹後以外の地を指すと思われる。しかし丹後の久美の浜は間違いなく丹後の国だろう。竹野の興長寺は古来、但馬の有力な時宗寺院で今なお現存しているので、同寺所在地を「但馬のくみ」などと誤記することは考えられないので採らない。大森先生の恩師五来重氏が地名と竜神の祠をもとに、新温泉町の居組と推定されているが、この説に同意したいと先生は言われる。

 中世の丹後国における時宗の道場

 宮津市妙立寺は、貞和以降天文のころまでは遊行派に属する「橋立の道場」だったと推定されている。同寺の厨子裏屏風腰板部分には、丹後の久美浜の東側に当たる浦明に「臨阿弥陀仏」の法名を名乗る宗教者が存在し、浦明に念仏の道場があったことが明らかになった。つまり、天橋立道場と久美浜の浦明道場の交流から、文殊菩薩が教化した竜神の説話伝承も久美浜へ伝播されていったと思われる。

 中世の「丹後国の久美」の地と「但馬国のくみ」の地

丹後国の久美浜
 京丹後市久美浜町。丹後国の西端、但馬国との境界線に該当する地域。古代は「久美郷」中世には「久美庄」と記録されている。京の長講堂(後白河法皇の御所六条殿内の持仏堂)の所領だった。久美庄には「十楽」の地名もあり(今でもある)港町として楽市楽座が存在していたことが窺え、陸路、海路の交通の要地だった。。

但馬国のくみ
 居組は鎌倉時代は京都の長講堂領大庭庄の一部に該当。「但馬国太田文」には「伊含浦」とある。居組の浜辺に道場があった史料はないが、丹後国の久美浜も但馬国の伊含も、鎌倉時代には京都の長講堂の所領であったことから、「伊含」と時宗の道場があった久美浜の浦明との間で交流があった可能性も考えられる。居組は因幡国に隣接する港である。弘化2年(1845)「但馬国村々船往来運上取立一村限帳」(久美浜 東稲葉家文書)によると、但馬国村々の廻船数が記録されており、竹野の56艘に次ぎ居組の24艘が第2位であった。今日の居組港の状況から考えると、近世末期に廻船の出入りで賑わった港とは到底想像できないが、「一遍聖絵」巻八に描かれた「くみ」の地が居組であった可能性がある。

ここまでの報告者(峠)の感想
 聖絵の作者は「但馬国のくみ」と書いただけで、これだけ後世に話題を提供しているとは思いもしないだろう。「くみ」=「居組」に至る研究者たちの研究の足どりが分かった。講義をお聞きしながら、私も貧弱ながら想像力が湧いて、当時「居組」「伊含」は公式には「いくみ」と発音するのだが、普段は「い」を省略して「くみ」とか「ぐみ」などと発音していたのかも知れないなどと思った。

◇「一遍聖絵」のなかの龍と踊り念仏

1 「九世戸縁起)の中の文殊菩薩と龍

 なぜ「一遍聖絵)の丹後の久美の浜にまつわる詞章で、一遍上人の前に出現した龍が語られ但馬のくみの浜の場面に龍が描かれたのか。宮津市字文殊の智恩寺が所蔵する「九世戸縁起」では、天橋立における文殊信仰について説いている。風雨を生じ、海難事故を引き起こすのは龍神が暴れるからだと信じられていたが、文殊菩薩がその龍神を鎮め海の安全を保障した霊験譚である。丹後には文殊信仰に関わる伝承地が多い。

2 文殊・善光寺・薬師の各信仰と龍宮の龍神・龍王

 文殊菩薩は、龍王(龍神)や龍女(乙姫)を鎮める功徳を持つ仏、海上交通の安全祈願に霊験あらたかな仏として信仰されていた。再度、海難を引き起こす龍神に戻らないように、一万巻のお経を納めて祈願した場所を「経ケ岬」と呼ばれている。また、丹後久美浜付近は古くから浦島伝説が流布している。興味深いことに、但馬の居組周辺もそうである。

3 葬具の龍頭に見られる宗教性

 但馬や丹後地方では、葬列の葬具である龍頭(たつがしら)は木製の龍の頭に紙製の舌や胴体を張り付けたものを親族が手に持って野辺送りをする。五来重氏は、龍頭は死者の霊が浮遊しないように、この中に納めておく容器ではないかといわれている。つまり龍(龍宮の主である龍王)は「霊」を象徴したものである。
 次に中世の面影を残す但馬海岸部の墓地についてみると、海辺に埋め墓、高所に詣り墓を持つ両墓制があった。海辺に遺体を埋葬する。時には遺体が海に流されることもあろう。漁場では遭難することもある。だから現在でも漁村地域では海上・海中他界信仰が盛んである(大森先生は、いくらあの世でも空気がないと生きていけないので岩のトンネルの底の世界::岩中他界と造語されている)。この宗教観念が中世でも存在していたので、「一遍聖絵」に描かれたような一遍上人や時衆が海中に足を浸した状況で、空中に出現した龍のために一心に踊り念仏を修し、龍の供養を行っている姿が描かれたといえよう。
                              
                                    【文責 : 峠 宗男】

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