2012,03,14, Wednesday
■□ 但馬学研究会 2011年度~2012年度 2月例会報告 □■
日時:2012年2月25日(土) 12:00〜16:00
場所:コウノトリ文化館 (豊岡市祥雲寺127)
講師:松島興治郎 氏 (コウノトリ文化館名誉館長)
【昼食】
コウノトリ郷公園内コウノトリ本舗食堂。ありふれた会席料理だがお品書きにも食材の生産者の氏名が書かれており主として北但・丹後の業者がかかわっていることがわかった。
【はじめに】
縁あってこの度特別天然記念物コウノトリの人工飼育と自然界放鳥に導かれたコウノトリ文化館名誉館長の松島興治郎氏、見方を変えればコウノトリに捕獲された人間松島興治郎氏のお話を伺うことができた。十分にまとめきれていないがその内容を感想も含めて記してみた。
【コウノトリ 一口メモ】
東南アジアからの渡り鳥でアムール川流域から行き来していた。中国南東部、朝鮮半島、日本に住む。
食べ物 魚類、ヘビ、カエル、ネズミ等を食す。
生 体 全長約110cm、羽根を広げると約200cmにもなる。
1.まれに裏返しで空を舞うことがある。
2.大きな赤松の樹上に巣を作ることから松上の鶴と云われることが多くあった。
3.昭和34年豊岡地方で最後のヒナが生まれた以後、繁殖を見なくなってついに滅亡へと進む。
4.コウノトリは風上に向かって立ちすくむ。
5.平成元年(1989)飼育25年目、初めてヒナ誕生。
6.平成17年(2005)9月24日最初の試験放鳥5羽。
【兵庫県北部 コウノトリ生息数】(資料より抜粋)
天保年間1830~ 出石鶴山に一つがい営巣(仙石久利 絶対禁獲区とする)
明治初年頃~ 鶴山付近に飛来するものあり
25年(1892) 鶴山のコウノトリ捕獲の勅令
27年(1894) 鶴山にひとつがい営巣
37年(1904) 同上
大正 9年(1920) 30羽内外 3巣
10年(1921) 鶴山天然記念物に指定
昭和 2年(1927) 11巣
5年(1930) 100羽内外 10巣 親鳥32 ひな22
9年(1934) 20巣 41羽
10年(1935) 18巣 38羽
18年(1943) 鶴山松樹伐採 19年からは1巣もなし
31年(1956) 22羽 30年に円山川に30羽集合
33年(1958) 10巣 21羽
34年(1959) 11巣 20羽
38年(1963) 14羽 文部省文化財保護委人工飼育保存決定
40年(1965) 11羽 2羽を捕獲して人工飼育始める
46年(1971) 野生最後の1羽が捕獲されるも死亡
61年(1986) 捕獲飼育されていた最後の個体が死亡
平成24年(2012) 143羽(野生48羽 センター内95羽) (2月25日現在)
【捕獲したコウノトリ】(資料より抜粋)
豊岡市内
昭和40年(1965) 2月11日 2羽 豊岡市福田地内
42年(1967) 1月11日 2羽 出石町伊豆地内
2月1日 2羽 飼育所内(野上)
44年(1969) 1月11日 2羽 出石町鳥居地内
46年(1971) 4月15日 1羽 豊岡市香住地内で捕獲
(小計) 9羽
その他での保護捕獲入数
昭和46年(1971) 2月28日 1羽 福井県武生市から
3月1日 1羽 鹿児島県徳之島町から
(小計) 2羽
捕獲した合計 11羽
【コウノトリ(鶴)の一声】(松島語録)
○ 昨今、自然のあり方(土水空気)をこわしているのは人間だけだ。鳥魚獣などの動物はそんなことはしていない。私はそんな人間の傲慢さは許せないと思っている。地球と云う生命共同体に優しい心で接してきた旧人類のそんな生き方に対して今後我々はどのような行動で答えていくべきか反省しないければならない。
○ 方法が分からない時は鳥に相談した。
○ 私は職人である。
○ 神の領域には手を出すな。
【質疑応答】
Q: 松島さんがコウノトリを今日まで育てられた功績の大きさは云うに及ばないが、今後どのように生きて行かれるのか?
A: 一市民として今後何が出来るか。お世話になった市民の方々に恩返しができればと思っているが、日々コウノトリの環境も変わってくる。それに対して人間が手助けをするしないと言うことに関しては肯定も否定もしない。
Q: 今までどんな思いでコウノトリと接して来たか、またそれを支えたのは何だったのか?
A: その時々の考え方を話すが、動物的な考えが下地にあったし、これはいけると思った。また引くに引けない場合が度々あったが自分の責任で行ったこともある。私はその頃から願えば叶うではなく叶うまで願う、と云う言葉を心の糧にしている。
Q: 今後野生に帰ったコウノトリが昔の様に松の樹上に巣を作ると思われるか?
A: 作らないだろう。なぜかと言うと赤松の樹が十分にない。赤松は大樹になるまでに永い年月を要する、それまでは他の樹に巣を作るしか方法はないと思える。(外国では白樺の樹に営巣している所もある。)
【あとがきにかえて】(後日余話)
○ 今回昔ながらの囲炉裏を囲んでの講演であった。体の暖は赤々もえる炭の火で心の暖は水辺で鮒、鯛、うなぎ等が体を休めるが如くにやさしく包む氏の話術で時を忘れた。これまでの道は二者択一といったそんなやさしい選択ではなく進む道は只ひとつ一所懸命(ひとつの所に命を懸けると云う意味)その仕事をするのみだったとキッパリと云われる口元からは「和して同じず」の何事にもぶれない強い姿勢が感じられる。(しかしそんな中でも母がくれたやさしさが全ての生き物に通じることが大切なんですよ、、、と云われた時はこぼれ落ちそうな笑顔であった。
○ コウノトリ人工飼育事業の 歴史的変遷、組織、予算など人間相手のわずらわしさ無責任さにも笑顔でサラット触れられた。
○ 世にこんな俗謡がある「駕にのる人担ぐ人そのまたわらじをつくる人」コウノトリ事業の一連の快挙に駕にのる人担ぐ人はわんさといる。わらじをせっせと編んできた人松島氏にもやっと陽がさした。
○ 功なり名を遂げられた氏であるコウノトリ文化館名誉館長としての処遇は至極当然で、しかし氏には尻こそばゆく迷惑であろう「やはり野に置けれんげ草」である。我々は氏と接した3時間余りで野に咲くれんげ草黙々と「わらじ」を編む氏こそが良く似合うと思った次第である。
【文責:飯尾】
日時:2012年2月25日(土) 12:00〜16:00
場所:コウノトリ文化館 (豊岡市祥雲寺127)
講師:松島興治郎 氏 (コウノトリ文化館名誉館長)
【昼食】
コウノトリ郷公園内コウノトリ本舗食堂。ありふれた会席料理だがお品書きにも食材の生産者の氏名が書かれており主として北但・丹後の業者がかかわっていることがわかった。
【はじめに】
縁あってこの度特別天然記念物コウノトリの人工飼育と自然界放鳥に導かれたコウノトリ文化館名誉館長の松島興治郎氏、見方を変えればコウノトリに捕獲された人間松島興治郎氏のお話を伺うことができた。十分にまとめきれていないがその内容を感想も含めて記してみた。
【コウノトリ 一口メモ】
東南アジアからの渡り鳥でアムール川流域から行き来していた。中国南東部、朝鮮半島、日本に住む。
食べ物 魚類、ヘビ、カエル、ネズミ等を食す。
生 体 全長約110cm、羽根を広げると約200cmにもなる。
1.まれに裏返しで空を舞うことがある。
2.大きな赤松の樹上に巣を作ることから松上の鶴と云われることが多くあった。
3.昭和34年豊岡地方で最後のヒナが生まれた以後、繁殖を見なくなってついに滅亡へと進む。
4.コウノトリは風上に向かって立ちすくむ。
5.平成元年(1989)飼育25年目、初めてヒナ誕生。
6.平成17年(2005)9月24日最初の試験放鳥5羽。
【兵庫県北部 コウノトリ生息数】(資料より抜粋)
天保年間1830~ 出石鶴山に一つがい営巣(仙石久利 絶対禁獲区とする)
明治初年頃~ 鶴山付近に飛来するものあり
25年(1892) 鶴山のコウノトリ捕獲の勅令
27年(1894) 鶴山にひとつがい営巣
37年(1904) 同上
大正 9年(1920) 30羽内外 3巣
10年(1921) 鶴山天然記念物に指定
昭和 2年(1927) 11巣
5年(1930) 100羽内外 10巣 親鳥32 ひな22
9年(1934) 20巣 41羽
10年(1935) 18巣 38羽
18年(1943) 鶴山松樹伐採 19年からは1巣もなし
31年(1956) 22羽 30年に円山川に30羽集合
33年(1958) 10巣 21羽
34年(1959) 11巣 20羽
38年(1963) 14羽 文部省文化財保護委人工飼育保存決定
40年(1965) 11羽 2羽を捕獲して人工飼育始める
46年(1971) 野生最後の1羽が捕獲されるも死亡
61年(1986) 捕獲飼育されていた最後の個体が死亡
平成24年(2012) 143羽(野生48羽 センター内95羽) (2月25日現在)
【捕獲したコウノトリ】(資料より抜粋)
豊岡市内
昭和40年(1965) 2月11日 2羽 豊岡市福田地内
42年(1967) 1月11日 2羽 出石町伊豆地内
2月1日 2羽 飼育所内(野上)
44年(1969) 1月11日 2羽 出石町鳥居地内
46年(1971) 4月15日 1羽 豊岡市香住地内で捕獲
(小計) 9羽
その他での保護捕獲入数
昭和46年(1971) 2月28日 1羽 福井県武生市から
3月1日 1羽 鹿児島県徳之島町から
(小計) 2羽
捕獲した合計 11羽
【コウノトリ(鶴)の一声】(松島語録)
○ 昨今、自然のあり方(土水空気)をこわしているのは人間だけだ。鳥魚獣などの動物はそんなことはしていない。私はそんな人間の傲慢さは許せないと思っている。地球と云う生命共同体に優しい心で接してきた旧人類のそんな生き方に対して今後我々はどのような行動で答えていくべきか反省しないければならない。
○ 方法が分からない時は鳥に相談した。
○ 私は職人である。
○ 神の領域には手を出すな。
【質疑応答】
Q: 松島さんがコウノトリを今日まで育てられた功績の大きさは云うに及ばないが、今後どのように生きて行かれるのか?
A: 一市民として今後何が出来るか。お世話になった市民の方々に恩返しができればと思っているが、日々コウノトリの環境も変わってくる。それに対して人間が手助けをするしないと言うことに関しては肯定も否定もしない。
Q: 今までどんな思いでコウノトリと接して来たか、またそれを支えたのは何だったのか?
A: その時々の考え方を話すが、動物的な考えが下地にあったし、これはいけると思った。また引くに引けない場合が度々あったが自分の責任で行ったこともある。私はその頃から願えば叶うではなく叶うまで願う、と云う言葉を心の糧にしている。
Q: 今後野生に帰ったコウノトリが昔の様に松の樹上に巣を作ると思われるか?
A: 作らないだろう。なぜかと言うと赤松の樹が十分にない。赤松は大樹になるまでに永い年月を要する、それまでは他の樹に巣を作るしか方法はないと思える。(外国では白樺の樹に営巣している所もある。)
【あとがきにかえて】(後日余話)
○ 今回昔ながらの囲炉裏を囲んでの講演であった。体の暖は赤々もえる炭の火で心の暖は水辺で鮒、鯛、うなぎ等が体を休めるが如くにやさしく包む氏の話術で時を忘れた。これまでの道は二者択一といったそんなやさしい選択ではなく進む道は只ひとつ一所懸命(ひとつの所に命を懸けると云う意味)その仕事をするのみだったとキッパリと云われる口元からは「和して同じず」の何事にもぶれない強い姿勢が感じられる。(しかしそんな中でも母がくれたやさしさが全ての生き物に通じることが大切なんですよ、、、と云われた時はこぼれ落ちそうな笑顔であった。
○ コウノトリ人工飼育事業の 歴史的変遷、組織、予算など人間相手のわずらわしさ無責任さにも笑顔でサラット触れられた。
○ 世にこんな俗謡がある「駕にのる人担ぐ人そのまたわらじをつくる人」コウノトリ事業の一連の快挙に駕にのる人担ぐ人はわんさといる。わらじをせっせと編んできた人松島氏にもやっと陽がさした。
○ 功なり名を遂げられた氏であるコウノトリ文化館名誉館長としての処遇は至極当然で、しかし氏には尻こそばゆく迷惑であろう「やはり野に置けれんげ草」である。我々は氏と接した3時間余りで野に咲くれんげ草黙々と「わらじ」を編む氏こそが良く似合うと思った次第である。
【文責:飯尾】
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