2009年2月例会 赤石の千本杵餅搗き~兵主神社の神事に見る
開催年月日 2009年2月15日(日)
開催市町 豊岡市
講 師 阪井芳雄氏(赤石 88歳)
場 所 豊岡市赤石 兵主神社および赤石営農センター
参加者 友田 椿野 高石 太田伸 中安 衣川 福井 中田 上田 浜野 宮元 戸田 
       小川 島垣 西躰 守山 岩本和 岩本名 飯尾 宮本 峠 島垣(会員外)計22名
担 当 飯尾 宮本 峠

(ねらい)
 いつ頃から始まったか分からないが、赤石の兵主神社のお祭りに、境内で兎の餅搗きのような杵を使って4人がかりで餅を搗く神事が続いている。五穀豊穣、無病息災,家内安全などを祈念した農耕儀礼の名残りと考えられる。餅搗きに参加し、試食し、神事にあやかって頂き、また「千本杵」の意味を考えることとしたい。

(赤石という所)
 豊岡市の北部、玄武洞のある集落で農村地帯。かつて田は海抜0メートルの低湿田で、小さな水路が縦横に走り、稲は舟で運んだ。明治3年の記録によると「農用船50艘、牛13匹」とあるが、実は今から43年前までその舟が活躍していた。川魚の漁も行われていた。今では、56アール区画の田地約30ヘクタールに整備されている。大昔、低湿田だったので遡上してきた海水の塩害に悩んでいたが、どこからかやってきた浪人がリーダーになって村人を督励し、潮垣(しおがき。防潮堤のこと)を完成させたので、そのリーダーを祀ったといわれる若宮神社が兵主神社の境内にある。そのことを伝える「潮垣」伝説があるし、若宮土提と呼ばれるところも最近まで残っていた。人口は明治5年の記録では戸数62軒299人、平成20年10月1日では戸数33軒116人、高齢化率38.8%。明治の中期に北海道に移住された方もある。

(兵主神社)
 延長5年(927)に国でまとめられた「延喜式」の巻9・10に政府公認の神社が記載されているが、これを式内社といい赤石の神社もその中に入っている。ということは、今から約1,100年前にすでにこの神社があったことになる。この兵主と言う社名を持つ神社は、式内社に限られている。但馬では、5社6座あるが、全て円山川水系に沿っている。兵主とは、中国の天主、地主など八神中の武神のことで、兵器を作った神である。天の日槍の帰来伝説地帯の近くに兵主神社が分布しているので、朝鮮半島・大陸との関係が深いのではないかと思われる。

(餅あれこれ)
 餅は日本を含む東アジアと東南アジアの一部にしか存在しない極めて地域固有性の高い不思議な存在であるといわれている。農耕社会では、古くから人間の力が及ばぬ自然に対して、目に見えぬ神の加護を求めて春には作物の豊穣を祈願し、秋にはその収穫に感謝する神祭りがしばしば生活の節目として執り行われてきた。餅は神饌(神に供える酒食)として神社に供えた農耕儀礼の名残りだろう。

(千本杵の意味)
 広辞苑によると、千本搗きとは「新造の堤防または置き土の上などを、小棒で搗き固めること」とある。千本格子とか千本たちなどの言葉にもあるように数の多いことを意味しているものと考えられる。赤石の千本杵餅搗きでは、4人の搗き手が勢いよく杵を何回も繰出している。

(講師 阪井芳雄さんのお話)
・ 兵主神社のある山の頂上付近は、昔から大平(おおなる)といい、なだらかな広い場所だ。先祖はここで戦の訓練をしていた。武器庫もあったと言い伝えられている。

・ お祭りは、覚えている限りでは2月17日と6月17日にあった。先輩の話では、旧暦の2月17日はこの地球が自転と公転を始めた起算日にあたるとか。

・ 赤石の千本杵餅搗きの起源はよく分からない。57年前の昭和27年2月17日のお祭りの残り火がもとで、お籠り堂が全焼し、村の古文書類や諸道具一切を失ったので調べようがない。しかし、今から216年前の寛政5年(1793)に現社殿が再建された時の棟札によると、そのときの寄進に「八三郎 餅米壱俵」の記載が見られるので、その当時既に餅搗きがあったのではないかと思われる。  

・ 6月17日のお祭りは約60年ばかり前に中止した。

・ 以前は、お祭り当日に、各家が餅米大盛り一升を持ってお宮に登ったが、今では区が一括購入している。約30キロ。当番は四人、毎年輪番制で、早朝からお宮に上り、餅米を洗ったり、蒸したりする。昔は、餡も当番が作ったが、今は購入している。

・ こしきは一回に四斗蒸すことができる。戸数の多い時代には二回に分けて蒸していた。こしきと大釜を密着させるパッキンを「然る(さる)」という。これがいい餅が出来るか出来ないかの肝腎要のところだ。今使っている「然る」は昔村が素人芝居や慣らし踊りに使っていた純木綿の古幕を引き裂き素麻(あらそ)を交互にまぜあわせて私が作った。「然る」は昔からこの村に伝わる固有名詞だ。

・ 臼は特別大きなものでないと間に合わないが、籠り堂が焼けたとき焼失し困っていたが、気比の中井靖次という大工さんが寄進してくれた。

・ 餅米が蒸しあがると、五尺の杵を持った搗き手四人がホイホイホイホイの掛け声とともに杵で左を突いて右に引く。この動作を四人が一つ心になって繰り返していると、臼の中の餅はグルグル回りながら丸うなって搗き上がる。搗き手は若い者が自由に志願する。搗き手のほかに混ぜ手一人、器用な人が担当する。一臼は大体三升くらい。

・ 昔は、一番早く神社に上った人が「一番杵」と言って最初に搗く権利を与えられ、餅もたくさん貰えた。

・ 搗きあがった餅は、餡をまぶし三方に載せまず氏神さまにお供えする。子どもたちにも小餅を分けてやり、残りは分け餅として各戸が持ち帰り、家族が頂く。

・ 昔の人が言っている。「餅搗く家はもちゃつかん、もちゃつく家は餅搗かん」と。餅は喜びの象徴である。

(その他特記事項)
 但馬学研究会の通常の例会は毎月第4土曜日であるが、今回は赤石地区の定例行事日である2月15日(日)に実施した。
                                                     
(報告者:峠宗男)


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