2006年1月例会 「但馬禿山考 ─ 里山・灌漑用水の管理と秩序」
開催月日 : 1月28日(土)
開催市町 : 朝来市和田山町
テーマ   : 「但馬禿山考 ─ 里山・灌漑用水の管理と秩序」
講 師   : 宿南 保氏 (朝来市史編纂室室長)
場 所   : 竹田コミュニティセンター(JR竹田駅前)
参加者   : 島垣・中田・峠・能登・中嶋・友田・衣川・粂井・守山・太田
         細見・西躰・小川・木村   谷下・谷岡・木村(会員外)
担 当   : 戸田、小川、木村

但馬の山は昔、禿山だった??
こんな話が飛び出したのは、昨年の12月例会。「昔の人は豊かな自然と共生していたとか思われがちだけど、実際には禿山だらけだったんでしょうね」…三田市にある「県立 人と自然の博物館」で案内役の三橋さんがつぶやかれた言葉に一同あっけにとられた。たしかに昔は薪の需要も多かったはずで、そのために木が伐られてたというのもうなずける。しかし、どの程度の「禿」だったのか。昔って、いつごろ?但馬一円の話?疑問はどんどん膨らんだ。そこで今回は、但馬全域の史実に詳しい宿南先生から、江戸時代の人々がどのように山や水を利用してきたか、お話を伺うことになった。

 

「赤山」、すなわち「禿山」
結論からいうと、江戸時代の山には禿山が多かった。山には個人の持ち山と共有山(入会山)があるが、禿山が多かったのは共有山の方である。明治十年代に設立された勧業会でも、暴風雨の際、赤山が崩れて谷川を埋めて困ると問題になっていた記録が残っている。赤山というのは、土がむき出しになった山、すなわち禿山である。

昔は焚き木の需要が多かったが、持ち山のない大多数の人は共有山に入って焚き木を取る。しかし、意外なことに、焚き木よりも「草」の方が切実だったそうだ。農家の人は山の草を刈り、積み上げて堆肥を作っていた(肥草)。したがって、草の生える面積が減るようなもの(行李柳など)の栽培を禁止した入会山もあったという。入会山の面積は個人所有の山よりもはるかに広かったが、もちろんすべてが禿山になったわけではなく、自然にまかせた山もあった。
出石の場合
出石に多かった武士とその家族は城山を利用した。一般の町の人は、藩に米一斗二升をおさめて柴札(鑑札)を入手して、指定された入会山へ入っていた。

焚き木は江戸時代では重要な商品であり、出石へは、糸井や朝日、奥山などから売りに来ていた。円山川を下る舟の積荷も米に次いで焚き木が多かった。近代になっても需要は膨らみ続け、いくつもの村が入った袴狭(はかざ)の山(白糸の滝の谷一帯)などはなかなか木が育たず、赤土がむき出しになった禿山状態であったという。

禿山がなくなった時期については、化学肥料が生産されるようになり、肥草が必要なくなった頃からではないかと、宿南さんは推測する。燃料が石油に代わったのは戦後なので、焚き木の需要は第二次世界大戦ごろまであったという。
村落共同体の意識を育てた山と水
江戸時代の農村共同体を支えていたのは、山と水であった。特に、水(灌漑用水)は分割することができず、谷川や用水路の近くに住む人で共有するしかない。井堰の管理、用水路の維持、水の管理が村落共同体としての意識を育てていた。
諏訪神社の湧水の場合
和田山町竹田の諏訪神社。この神社の湧水を巡っては、竹田と、隣接する加都(かつ)の間で争いが繰り広げられた。

元々は、北側の加都の農民が水田を作るのに湧水を利用していた。ところが、文化年間に拝殿改築工事に伴って流れを南側に移したため、畑を作っていた竹田の農民が水田を作り出し、加都で水が不足しがちになる。近隣の庄屋たちの仲裁により、いったんは加都の「先占めの権利」が認められたが、しばらくすると竹田も使い出し、争いが再燃。結局、竹田に出ている水を竹田の者が使うことを差し止めることはできないとされ、竹田側に所有権があると認められた。ただ、代償として加都の庄屋に小作料を収めるという合意がなされた。

このように、先占めの権利(既得権)が認められることもあるが、水の出てきたところの村が所有者であるとするのが、最も筋が通ると考えられた。

 

大川(円山川)の利用
円山川などの大川に井堰を作る技術は、江戸時代から始まった。川にくいを打ち、石をはめて水を堰き止めた。

[和田山町竹田の絹屋溝] ─ 竹田の町なかを流れる「絹屋溝」および「絹屋井堰」は文政10年(1827年)に作られ、防火用水と水車に利用された。しかし、以前からあった加都の井堰の上流に井堰を作ろうとしたため、加都が大反対。近隣の庄屋の仲裁の結果、水量から考えると、加都にそれほど不利益にならないと判断された。加都の水不足(特に田植えごろ)を防ぐため、田植えから1か月間は竹田の用水路に水を上げないことを条件に、円満に解決された(例外的)。

[八鹿町伊佐の例] ─ 八鹿駅裏側には上小田の井堰、またその200mほど下流に伊佐の井堰がある。この伊佐の井堰は但馬で最も早く建設された井堰で、右岸の坂本からトンネルを通って伊佐に水を運んでいる。井堰、トンネルの建設後、伊佐には大きな水田が開け、村が出来た。

その後、上小田の井堰がそれより上流に出来ている。これは通常であれば許されないことだが、実は、上小田の井堰を作った人は、伊佐の新田地主の家から上小田に養子に入った人だったため、伊佐が協力したようである。その代わりなのかどうなのか、上小田の田んぼは、近隣地区の田植えが終わるまで、田植えをしない。この慣習は今でも続いているそうだ。

地主同士の姻戚関係があったこのケースも例外的で、一般的には、水取りの権利の問題はなかなか難しい問題だった。

 

円山川の主な大洪水の記録
[慶長11年(1606年)6月27日の大洪水] ─ 八鹿町高柳の大庄屋、福田ソウエモンが屋根の上に上がったまま家ごと流されたという記録が残っている。

また、八鹿町米里のお当(おとう)渡しが、慶長11年から10年ほど中断している(文書に記録がない)。お当渡しは、辰巳の方向(南東:冬至の太陽が昇る方角)に鎮座する五穀豊穣の神様を地主明神として祀るもので、11月の巳の日(冬至の後の巳の日)に執り行う。民俗行事では、このように方位の干支と日暦の干支を一致させて行うことが多い。

当時祀っていたのは、中世の財産家仲間。大洪水のため10年ほど中断した後、村中の人が祀るようになったと考えられる。

[貞享3年(1686年)7月25日の大洪水] ─ 大屋の玉見の神社が流され、八鹿の寄宮(よのみや)に流れ着いた。これが、寄宮の地名の由来になった。



講師の宿南保さんは、八鹿町史、養父町史などの編纂に携わってこられた、江戸時代を中心とした但馬の近世史の第一人者。
禿山や水の話だけでなく、お当渡しや、養父神社のお走り祭の初期の頃に見られた方位信仰など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。
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