2007,03,27, Tuesday
開催月日 : 3月24日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ : 「但馬の山城 ~兵どもが夢の跡を探る~」
講 師 : 西尾孝昌さん(八鹿高校教諭・但馬考古学研究会幹事)
場 所 : 豊岡市 香林会館(日撫)⇔愛宕山鶴城跡(山本)
参加者 : 中田、峠、岩本、岩本、島垣、木村、能登
(会員外)中田、岸田、城田、稲葉、子ども2人、
豊岡市出土文化財管理センター宮村氏がアシスタント参加
担 当 : 峠(記録)、木村
【ねらい】戦国時代の但馬地方の守護大名である山名氏の四天王といわれた武将の一人、田結庄是義の居城「鶴城」跡(平成8年4月豊岡市指定文化財)を現地見学し、往時の築城の規模、技術、思想などを探る。
【講師 西尾孝昌さん】豊岡市日高町西芝在住。県立八鹿高校教諭、日本史の先生。専門は地理学。但馬の城郭研究の第一人者。縄張り図を書かせたら兵庫県を代表する調査者の一人といわれている。この度山の中の随所で分かり易い説明をしていただいたが、脚の速いのには驚いた。長年の山城調査を単独で行動されてきた癖が出たのだろう。なお、この3月末で退職されるので、時間の束縛から解放されて、更にご活躍の場が広がることだろう。
1.城という字を分解すれば
講師の西尾さんは、我々参加者がテーマについての全くの門外漢である事の前提で、たいへん綿密で系統だったテキストを用意してくださった。注意深く読んでいくと腑に落ちて納得できる仕組みになっており、貴重な資料を頂いたと感謝したい。ところで、「城」と言う字を分解すると「土」と「成」になるように、本来「城」は「土」で造られていたものをいうそうである。鎌倉末期、南北朝時代から戦国時代にかけての約300年間に築城され、戦いに明け暮れしていたのは土城だったのである。つまり、これらを「中世城郭」と呼ぶ。だから、国取り物語当時の城は、土の城だったといえる。
わたしたちは、城といえば石垣や天守閣があるものと思ってきたが、このような城は織豊時代(安土桃山時代)から江戸時代にかけて造られたもので、これらは「近世城郭」と呼ばれている。但馬には約220の城跡や砦跡があるようだが、石垣のあるのは竹田城、出石城、有子山城、八木城くらいのようである。
2.中世の生き証人が城
中世には、純粋な武力集団である武士はいなかった。実態は、武士兼農民兵だった。今でいう区長さんクラスの地侍の下に、農民兵がいざと言う時には集結したようだ。だから、戦争は農閑期にした。戦いの原因は、主として猟場の争い、山の境界争いなどで、これらが、荘園対荘園、村対村の争いになった。お互いに掠奪し合うのが通常で、負ければ奴隷に落ちるので、自治、つまり自分たちのことは自分で守るしかなかった。そこで生まれたのが城である。城は、自分たちの生命、財産を守るための避難場所でもあった訳だ。だから、農民は城の普請や修理も当然の事として従事した。
わたしたちは、近世の権威の象徴のような、いかめしく石で固められて聳え立つ城しか知らず、その城はまさしく民百姓を収奪する元凶のように思っていたが、中世の土城の多くは、農民たちの生存権を守る拠点そのものだったことを知り、目から鱗が落ちた思いがした。
もっとも、戦場に駆りだされる農民兵の実態は、全てが精鋭と言う訳には行かず、往々にして頭が弱く、農家の労力にあまり役立たない者があてられたという記録もあるそうだ。今でも通用する発想で、思わず笑えてしまった。西尾さんは、これを「三年寝太郎」のようなと分かりやすく表現された。なお、なぜ平城でなく山城なのか。それは、守るに守り易く、攻めるに攻めにくいのが山城だそうだ。鶴城の急峻な掘り切りを見ると、確かによじ登ることは至難の業に思えるし、仮によじ登っても上から槍で突かれ、石を投げられたらひとたまりもないだろうことを実感した。
3.鶴城と備後衆山城の歴史背景
(ア)鶴城
豊岡市船町と山本に位置する愛宕山(標高115m)に立地している。永享年間(1429~41)以後に但馬守護山名持豊が築き、その被官田結庄氏が居城したといわれている。天正3年(1575)山名氏の被官の間の争いで、田結庄是義(織田党)と垣屋豊続(毛利党)が対立、世にいう野田合戦(毛利と織田の代理戦争)で、田結庄氏は敗れ、以後垣屋氏の支配下に入った。その後、羽柴秀長の但馬進攻によって、廃城となったものと思われる。
(イ)備後衆山城
豊岡市日撫の丘陵(標高20~50m)に立地している。約500m北方の鶴城の支城として位置づけられたものといわれている。山名氏は、備後(今の広島県)守護も兼ねていたところから、備後国の被官山内家に知行を与えたので、山内氏がこの山城を守備したものと推定され、備後衆山城と呼ばれる。鶴城が垣屋氏の支配下に入った後は、この備後衆山城も同じ運命を辿ったのだろう。
4.鶴城跡、備後衆山城跡のみどころ
* 縄張りの特徴:連郭式山城 曲輪・堀切・折れを持つ土塁・外枡形虎口・ 縦堀・畝状竪堀
畝状竪堀の遺構は、天正3年以降垣屋豊続の改修によるもの
* 正福寺跡:田結庄氏の菩提寺
* 戦国城下町:「殿屋敷」(田結庄氏居館)を中心とした鶴城下町
「殿屋敷」・「一日市」(市場)・「馬場」・「八坂神社」・ 「船町」(船着場)・「厳島神社」
「貴船神社」・鋳物師集団の職人町=六地蔵・森・日撫
* 宝城寺と愛宕神社
愛宕神社=元和5年(1619)杉原氏(豊岡城主が勧請)
宝城寺(真言宗・勝利山)=元和5年~明治4年(1871)別当寺
<この項、西尾さんの資料原文のまま転記>
5.春雨に濡れて見学
* この日に限って全国的な雨となった。全員雨具を持参しており、西尾さん も経験則から登山可能と判断され、実地踏査を決行した。浜野さんが大きな 尻餅をついたが、全員怪我はなかった。
* 約半日間の見聞で、山の見方が変わった。もしかしたら、近くの名もない 山にも城跡があるかもしれない。勿論、我々には新たな城の発見だったにし ても、西尾さんのデータにはとっくに入力されているとは思うが。
* 地元(田鶴野地区)の公民館長さん方が会員外だが参加してくださった。 愛宕山に城跡があるということは知っていても、いざ具体的にどこがどうだ という知識が全くなかったので、いい機会をいただいたと感謝されていた。
* 近くに山本窯跡の発掘が進められており、更に田結庄氏の居館跡といわれ ている「殿屋敷」の発掘調査もやがて始まるとの事で、鶴城跡周辺は、いま 500年のタイムスリップをしているようである。
* 昼食と集合場所にした「香林会館」は、備後衆山城の一角にある。忠臣蔵 の大石蔵之助夫人りくの祖父(石束源五兵衛毎術)が開基した正福寺ともい う。りくの遺髪塚がある。正福寺はもともとは田結庄氏の菩提寺で、鶴城の 一角にあったが、落城で廃絶していたのを豊岡藩主京極高住候がこれを惜し み、同名の正福寺の名を賜ったとされている。このお寺の檀家は河本家一軒 である。初代豊岡城主「宮部善祥房継潤」が天正9年(1581)町内五町に地 子税を免除する安堵状を下したが、そのときの安堵状が今では唯一河本家に 伝わっている。
開催市町 : 豊岡市
テーマ : 「但馬の山城 ~兵どもが夢の跡を探る~」
講 師 : 西尾孝昌さん(八鹿高校教諭・但馬考古学研究会幹事)
場 所 : 豊岡市 香林会館(日撫)⇔愛宕山鶴城跡(山本)
参加者 : 中田、峠、岩本、岩本、島垣、木村、能登
(会員外)中田、岸田、城田、稲葉、子ども2人、
豊岡市出土文化財管理センター宮村氏がアシスタント参加
担 当 : 峠(記録)、木村
【ねらい】戦国時代の但馬地方の守護大名である山名氏の四天王といわれた武将の一人、田結庄是義の居城「鶴城」跡(平成8年4月豊岡市指定文化財)を現地見学し、往時の築城の規模、技術、思想などを探る。
【講師 西尾孝昌さん】豊岡市日高町西芝在住。県立八鹿高校教諭、日本史の先生。専門は地理学。但馬の城郭研究の第一人者。縄張り図を書かせたら兵庫県を代表する調査者の一人といわれている。この度山の中の随所で分かり易い説明をしていただいたが、脚の速いのには驚いた。長年の山城調査を単独で行動されてきた癖が出たのだろう。なお、この3月末で退職されるので、時間の束縛から解放されて、更にご活躍の場が広がることだろう。
1.城という字を分解すれば
講師の西尾さんは、我々参加者がテーマについての全くの門外漢である事の前提で、たいへん綿密で系統だったテキストを用意してくださった。注意深く読んでいくと腑に落ちて納得できる仕組みになっており、貴重な資料を頂いたと感謝したい。ところで、「城」と言う字を分解すると「土」と「成」になるように、本来「城」は「土」で造られていたものをいうそうである。鎌倉末期、南北朝時代から戦国時代にかけての約300年間に築城され、戦いに明け暮れしていたのは土城だったのである。つまり、これらを「中世城郭」と呼ぶ。だから、国取り物語当時の城は、土の城だったといえる。
わたしたちは、城といえば石垣や天守閣があるものと思ってきたが、このような城は織豊時代(安土桃山時代)から江戸時代にかけて造られたもので、これらは「近世城郭」と呼ばれている。但馬には約220の城跡や砦跡があるようだが、石垣のあるのは竹田城、出石城、有子山城、八木城くらいのようである。
2.中世の生き証人が城
中世には、純粋な武力集団である武士はいなかった。実態は、武士兼農民兵だった。今でいう区長さんクラスの地侍の下に、農民兵がいざと言う時には集結したようだ。だから、戦争は農閑期にした。戦いの原因は、主として猟場の争い、山の境界争いなどで、これらが、荘園対荘園、村対村の争いになった。お互いに掠奪し合うのが通常で、負ければ奴隷に落ちるので、自治、つまり自分たちのことは自分で守るしかなかった。そこで生まれたのが城である。城は、自分たちの生命、財産を守るための避難場所でもあった訳だ。だから、農民は城の普請や修理も当然の事として従事した。
わたしたちは、近世の権威の象徴のような、いかめしく石で固められて聳え立つ城しか知らず、その城はまさしく民百姓を収奪する元凶のように思っていたが、中世の土城の多くは、農民たちの生存権を守る拠点そのものだったことを知り、目から鱗が落ちた思いがした。
もっとも、戦場に駆りだされる農民兵の実態は、全てが精鋭と言う訳には行かず、往々にして頭が弱く、農家の労力にあまり役立たない者があてられたという記録もあるそうだ。今でも通用する発想で、思わず笑えてしまった。西尾さんは、これを「三年寝太郎」のようなと分かりやすく表現された。なお、なぜ平城でなく山城なのか。それは、守るに守り易く、攻めるに攻めにくいのが山城だそうだ。鶴城の急峻な掘り切りを見ると、確かによじ登ることは至難の業に思えるし、仮によじ登っても上から槍で突かれ、石を投げられたらひとたまりもないだろうことを実感した。
3.鶴城と備後衆山城の歴史背景
(ア)鶴城
豊岡市船町と山本に位置する愛宕山(標高115m)に立地している。永享年間(1429~41)以後に但馬守護山名持豊が築き、その被官田結庄氏が居城したといわれている。天正3年(1575)山名氏の被官の間の争いで、田結庄是義(織田党)と垣屋豊続(毛利党)が対立、世にいう野田合戦(毛利と織田の代理戦争)で、田結庄氏は敗れ、以後垣屋氏の支配下に入った。その後、羽柴秀長の但馬進攻によって、廃城となったものと思われる。
(イ)備後衆山城
豊岡市日撫の丘陵(標高20~50m)に立地している。約500m北方の鶴城の支城として位置づけられたものといわれている。山名氏は、備後(今の広島県)守護も兼ねていたところから、備後国の被官山内家に知行を与えたので、山内氏がこの山城を守備したものと推定され、備後衆山城と呼ばれる。鶴城が垣屋氏の支配下に入った後は、この備後衆山城も同じ運命を辿ったのだろう。
4.鶴城跡、備後衆山城跡のみどころ
* 縄張りの特徴:連郭式山城 曲輪・堀切・折れを持つ土塁・外枡形虎口・ 縦堀・畝状竪堀
畝状竪堀の遺構は、天正3年以降垣屋豊続の改修によるもの
* 正福寺跡:田結庄氏の菩提寺
* 戦国城下町:「殿屋敷」(田結庄氏居館)を中心とした鶴城下町
「殿屋敷」・「一日市」(市場)・「馬場」・「八坂神社」・ 「船町」(船着場)・「厳島神社」
「貴船神社」・鋳物師集団の職人町=六地蔵・森・日撫
* 宝城寺と愛宕神社
愛宕神社=元和5年(1619)杉原氏(豊岡城主が勧請)
宝城寺(真言宗・勝利山)=元和5年~明治4年(1871)別当寺
<この項、西尾さんの資料原文のまま転記>
5.春雨に濡れて見学
* この日に限って全国的な雨となった。全員雨具を持参しており、西尾さん も経験則から登山可能と判断され、実地踏査を決行した。浜野さんが大きな 尻餅をついたが、全員怪我はなかった。
* 約半日間の見聞で、山の見方が変わった。もしかしたら、近くの名もない 山にも城跡があるかもしれない。勿論、我々には新たな城の発見だったにし ても、西尾さんのデータにはとっくに入力されているとは思うが。
* 地元(田鶴野地区)の公民館長さん方が会員外だが参加してくださった。 愛宕山に城跡があるということは知っていても、いざ具体的にどこがどうだ という知識が全くなかったので、いい機会をいただいたと感謝されていた。
* 近くに山本窯跡の発掘が進められており、更に田結庄氏の居館跡といわれ ている「殿屋敷」の発掘調査もやがて始まるとの事で、鶴城跡周辺は、いま 500年のタイムスリップをしているようである。
* 昼食と集合場所にした「香林会館」は、備後衆山城の一角にある。忠臣蔵 の大石蔵之助夫人りくの祖父(石束源五兵衛毎術)が開基した正福寺ともい う。りくの遺髪塚がある。正福寺はもともとは田結庄氏の菩提寺で、鶴城の 一角にあったが、落城で廃絶していたのを豊岡藩主京極高住候がこれを惜し み、同名の正福寺の名を賜ったとされている。このお寺の檀家は河本家一軒 である。初代豊岡城主「宮部善祥房継潤」が天正9年(1581)町内五町に地 子税を免除する安堵状を下したが、そのときの安堵状が今では唯一河本家に 伝わっている。
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