2010年6月例会 「目の神様?山岳信仰?青倉神社を訪ねる」

開催日   2010年6月26日(土)
開催市町  朝来市
テーマ  「目の神様?山岳信仰?青倉神社を訪ねる」
講 師   和田 誠 氏(青倉神社先達・川上地区在住)
      古田誠一氏(青倉神社先達・伊由市場在住)
場 所   青倉神社 籠もり堂
参加者   峠・高石・足立・谷岡・飯尾・戸田・中嶋・小川・中田
      成田・福井・宮元・守山(13名)
      (会員外・1名)
担 当   足立・中嶋・中田・久保



青倉神社は、朝来市伊由谷の奥深く青倉山(標高811m)の山頂付近にあります。創始年は不詳ですが、7世紀中頃に「山岳信仰」の対象として建立されたとの言い伝えがある。ご神体は巨石。ご神体の裏山からでる湧き水は、目の病気に効くとされて、「目の神様」としても信仰されている。

地元の言い伝えでは、「青倉」の所以は、「青=太陽」、「倉=岩」を意味し、『太陽が上がる山(巨岩)』とされる。また、密教の五輪塔において、一番上の「空輪」は、方角は「東」、色は「青」とされている。まさに、青倉神社のある伊由谷の東にそびえ、朝日が昇りでる。



例会場となった青倉神社の「籠もり堂」に掛かっていた一枚の絵。手前(下側)の鳥居は、国道312号線のすぐ横にあるあの大鳥居。大鳥居から、伊由谷を通り、約5キロの参道を登ったtころに青倉神社がある。伊由谷には、伊由市場、山内、納座、川上の4地区がある。



今回は、青倉神社の先達であるお二人の長老にお話を伺った。和田誠氏(川上地区、78歳、右側)、古田誠一氏(伊由市場、82歳、左側)。特に、昭和初期から戦前の頃、青倉神社に参拝する信者が蟻の行列のように青倉駅から神社まで続いていたと言うお話が印象的でした。JR(当時は国鉄)青倉駅舎は、青倉神社の賽銭の寄付でできたと言う。4月と9月の大祭には、関西一円から、「青倉詣で」の信者が参拝。そのために、各地に「青倉講」を行なう世話人もたくさんいたと言う。



「籠もり堂」の一室でお話を聞く。外は、あいにくの雨でしたが、水の滴る新緑がとても美しい。青倉山は、まだまだ自然のままの広葉樹が豊富。窓の外の大木は天然杉なのだそうだ。



お話の後、本殿に参拝。本殿裏側にまわると、巨石の横には、湧き水が滝のようになって流れ落ちている。



雨降りにもかかわらず、ポリタンクを持って、御霊水を汲みに来る人たちと次から次に出会う。御霊水は、実際の水質検査からも微量のホウ酸を検出しており、目の病気に効くとされている理由の裏づけともなっている。

【報告者 中田孝一】



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2010年5月例会 『ただのコンクリート橋とちゃう!~土木技術者の意気「新余部橋梁架替工事物語」~』
開催日  2010年5月22日(土)
開催市町 香美町
テーマ  「ただのコンクリート橋とちゃう!~土木技術者の意気「新余部橋梁架替工事物語」~」
講師   山陰線鎧・餘部間余部橋りょう改築他工事特定建設工事共同企業体
     (清水建設・錢高組JV)
     現場代理人 中原俊之さん
場所   余部鉄橋
参加者  
担当   


○余部鉄橋(余部橋梁)について
橋の長さ:310メートル
高さ:41.5メートル
着工:明治42年12月
竣工:明治45年1月
築100年。当時、東洋一の鉄橋であった。
材料は、アメリカから3ヶ月かけて船で搬送された。現在のように出来合いの硬性の材料もヘルメットもない中、丸太を組み足場に用い、延べ25万人の方々が従事された。
鉄橋の精度は、すばらしく、昭和に入り補強工事が行われたものの、橋脚は当時のまま、その橋脚に横向きに走る柱(通り)は100年経った今も寸分の狂いもなくまっすぐ通っていることである。
しかし、そんな鉄橋も潮風の影響を受け、特に、東側(京都側)は半面が海に面しているため、塩害による腐食が激しい。
○列車転落事故
昭和61年12月28日
その日は、列車が落ちた音も聞こえない程の強風が吹いていたらしい。香住駅で乗客を降ろした回送列車は、トンネルを出てすぐ強風に煽られ転落。鉄橋の真下には、蟹の水産加工工場があり、そこで働く従業員5名と車掌1名の合計6名の方が亡くなられた。工場跡地には、慰霊の観音像が建てられている。以後、風速25メートルで運休とする規制が風速20メートルと厳しくなった。
そのため、今も年間で100本の列車が運休・遅延の影響を受けている。
○餘部駅
 開通当初、餘部には駅が無かった。地元の人々は、山を登り列車の合間を縫って、線路を歩いて鉄橋を渡り、トンネルを抜け、隣の鎧(よろい)駅を利用するしかなかった。国鉄に働きかけたり、地元の小学生が兵庫県知事に手紙を書くなど働きかけ、昭和34年、ようやく駅が完成し、鉄橋の恩恵にあやかれたのである。その間、約50年。
 駅を待ち望んでいた住民は、村中が総出で駅の基礎工事に役立てようと浜から丸石を集めて駅まで運んだ。初めて駅に列車が到着した際は、住民大勢が駅で出迎えたらしい。
昨年春、開設50周年祭が執り行われた。
○余部鉄橋対策協議会
 列車転落事故を機に、設けられた。築100年の塩害による腐食。運休・遅延をせざるを得ない列車が相次ぐ。駅まで列車が来てもそこから動かない。動かせない。
 その状況を打破するため、防風が可能な新橋梁が必要となり “橋梁架け替え工事”に至る。
○ただのコンクリート橋とちゃう! その①ただの橋梁架替工事ちゃう!
 鉄橋と同じ高さで南側7メートルの位置に平行に建設中。西側は隣の駅までに山側を削り、路線を一致させる。東側トンネル口への接続は3,800トンのS字型橋桁を移動し完成させる。橋桁の平行移動はよくあることだが、この橋桁移動はちゃう!。S字型(R=300)を4メートル平行移動させ、橋脚を軸に約5°回転させる。回転軸となる橋脚には3300トン、先端部には500トンの重量がかかる。つまり、重心が中央ではない超不安定な移動で国内に例は無い。
 H22.7.17~H22.8.11まで運休にし、鉄橋を撤去し、その最も難しい「橋桁移動旋回工法」が行われ、H22.8.12~“新”余部橋梁がスタートする。
○ただのコンクリート橋とちゃう! その②コンクリートがちゃう!
 プレストレストコンクリート。列車が通るということはトラックとは比較にならない荷重が橋桁にかかる。通常のコンクリートは、圧縮力には強いが引っ張られる力には弱い。橋の上を列車が通り荷重がかかれば、重みでコンクリートの底辺(下部)にひび割れが生じる。
 それを防ぐため、コンクリートの中にスパイラル管を通し、その中にメタル鋼線を入れて、ジャッキで引っ張り上げ、固定する。鋼線が縮もうとする力を利用している。
 さらにセメントは、鋼材を入れることができないため、ペットボトルを細かく砕いたものを混ぜ、塩害に強く、低発熱のひび割れしにくいものを使用している。
○ただのコンクリート橋とちゃう! その③橋桁・防風壁がちゃう!
 橋桁の高さ3.5メートル。幅7.5メートル。中は空洞になっており、将来、修理点検に人が入れるようになっている。高速道路などの橋桁は橋脚に近づくに連れ、下向きに高くなっているものが多いが、高さを統一するためにケーブルを外に出している。
 防風壁は、透明のアクリル板。下から橋梁を見上げた際、全てがコンクリート壁だと威圧感が強い。また、乗客も景観を楽しめるようにデザインされた。
○ただのコンクリート橋とちゃう! その④土木技術者の意気込みがちゃう!(中原さん)
 100年経っても狂っていない鉄橋はやっぱり凄い。土木遺産。11本の橋脚のうち西側の3つの橋脚とそこまでの橋桁(鉄橋)が残され『空の駅』となる。記念館や道の駅などの建設も検討がなされている。
 【100年後の土木遺産】を目指して、また、新・旧両方の橋が見れるここが新名所となればいいなと思い仕事をしている。

●担当者感想●
100年前の技術に驚かされ「凄い!」っと思って聞いていましたが、新橋の工事で3,800トンという想像もつかないような重さのコンクリートの塊を移動させ旋回させるなんて・・・驚愕。
 実際に新橋の上を歩いて見ると、41.5メートルは思っている以上に高い。この大きな塊をこんなに高いところで移動・旋回させる。しかも、下は道路。カケラ一つ落とすわけにはいかない緊張感。
 これは、どこにでもあるコンクリート橋とちゃう。本当にちゃう!!。

○但馬学研究会2003年11月例会で「余部鉄橋秘話」と題して余部鉄橋を取り上げています。ホームページに例会報告がありますのでご参照ください。


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2010年4月例会 「但馬はフィッシングの聖地だ!!」
2010年4月24日
北前館 (豊岡市竹野町)
講師 谷 泰介氏 (海族副代表、FINAインストラクター、あわび本舗ロイヤルスタッフ、Devilfish・暁ジーンズアドバイザリースタッフ)
参加 島垣 太田 小川 岩本か 浜野 福井 中嶋 中田 飯尾 峠 高石 久保 戸田 成田 谷岡 
    会員外3名
担当 太田 小川 中尾 岩本か(報告者) 

●生い立ち
豊岡市津居山出身 漁師である祖父に連れられて3歳の頃から沖釣りを始める。小学生の時は釣りクラブで部長を務める。山陰・若狭・四国・九州などを釣り歩く。アオリイカ・メバル・ソイ・ハタ系を得意とする。
釣りが好きで、今は「スポンサード」を受けている。つまり、スポンサーがあるプロの釣り師。

●道具などの変遷
最初は、人から借りた疑似餌と竿で釣ってみたところ、岸からすぐの所でたくさんのアオリイカが釣れた。疑似餌は餌が要らなくて、車も臭くならないし、手軽。竿(ロッド)と、疑似餌(ルアー)と糸(ライン)とリールがあれば、出来る。祖父の頃、かつての釣りは糸を手で持つか竹の竿。糸は10メートル程度。餌はクルマエビだった。祖父は、その当時から既に疑似餌を使っていた。イカ釣り用の餌疑は、歴史が非常に古く、発祥は鹿児島で武士の嗜みであった。300年ほど前からされていたのではないか。
リールも、今は格段に変化している。昔はアメリカから輸入して使っていたが、ものすごく大きなものだった。今は性能が良く、小さくなった。



●釣り人口
釣り人口は確実に増えている。あまりお金がかからず、身近で手軽。最近では、女子もルアーフィッシングをするようになった。毎年2月にインテックス大阪で行われるフィッシングショーでは、人がすれ違えないほど。今は、不景気で、メーカーがつぶれて少なくなっているが、釣り人口は増えている。ショーでは、2日間で、6-7万人が訪れる。

●道具のいろいろ
ロッドは、太さや長さに少しずつの違いがあって、季節や場所によって、目的によって使い分けられるようになっている。リールも、太鼓リールは船釣りにもってこい。巻上げしやすいリール、スピニングリールは、投げ釣りにもってこい。ラインは、数本の強靭な糸をよって作ってある。細くて、ルアーを投げたときに、リールやロッドとの干渉が少なく、少ない力で遠投が出来る。細くても、5キロくらいまでの引っ張りに耐える。丈夫で1-2年は持つ。ルアーやおもりに使われていた鉛は、環境への負荷への配慮から、最近ではタングステンに代わってきている。針もチタンに。軽くて、魚の吸い込みが良いこともあるし、錆びない。



●道具と流行
魚を釣る前に、まず人を釣らなければいけない。ルアーのデザインや、ロッドのデザインも、流行がある。プロとして活動し、メーカーと契約して活動している関係で、どうしても釣らなければいけないのが辛いところ。しんどく感じることも。自然相手で、あまり神経質な人には向いていないかもしれない。のめり込み過ぎるのも考えものかも。
漁師は、昔のやり方を変えたがらないが、釣果が明らかに違うと変える。
ルアーにも様々な種類があり、メタルジグ・ミノー・ラバージグなどなど。色、大きさも様々。

●魚の目とルアーの色の関係
ルアーは美しい色をしているが、色自体は、一部の魚を除いて判別できていないようだ。魚には「色素胞」が無く、「キラメキ」が魚にアピールして、釣果につながる。最近では、アワビを使った、非常にキラメキのあるシートも販売されていて、それをルアーに貼り付けることにより、さらにアピール力が増す。天然の魚皮もなかなか良い。
日本海では、緑青の海水の色なので、アングラー(釣り人)から見ると、オレンジ色のルアーが良く見えて、海水の中での動きをチェックできる。但し、メバルは色がわかっているようだ。柔いルアーのラバージグの色を変えるとアタリが変わる。ルアーも。「マッチザベイト」と言って、ベイトフィッシュと似たルアーに魚は反応しやすい。



●特別な場所、但馬
日本海は、プランクトンの影響なのか、魚が非常に多い。遠征してみると、但馬にいない美しい大きな魚も釣れるが、水がきれい過ぎ釣れない場所もある。但馬の魚影の濃さがあらためてわかる。日本海側の但馬から少し離れると、砂地になるので、但馬の海底の素晴らしさを感じる。



●その他
海族(うみぞく)というクラブ(現在会員数50余名)では、年2回の海岸の掃除などの活動をしている。多くのアングラーが休日返上で活動に参加してくれる。結果、魚釣りがしやすい環境になり、ダイバーとも仲良くなれる。魚がルアーに乗ってきやすくなるが、行政は乗ってこない・・と皮肉も。実際、竹野のダイバー仲間と谷氏が手を振り合うというシーンも。地元に愛されている。

(報告者:岩本和)


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2010年2月例会 「城崎温泉今昔」

開催日   2010年2月27日(土)
開催市町  豊岡市城崎町
テーマ   城崎温泉今昔
講 師   元井 康恵 氏(豊岡市役所城崎総合支所 温泉課課長)
      小川 祐泉 氏(高野山真言宗別格本山 末代山温泉寺住職)
場 所   温泉寺薬師庵および本堂(豊岡市城崎町湯島)
参加者   中田・浜野・峠・高石・足立・谷岡・久保・岩本m・上田・椿野
      飯尾・戸田・中嶋(13名)
      (会員外2名)
担 当   椿野・戸田・守山・飯尾・中嶋

   

■温泉課課長
城崎町は1400年の古い歴史を持つ温泉地で、昔から「但馬の湯」として多くの人々に知られている。
天正天皇の養老元年(717年)に道智上人がこの地を訪れ、難病に苦しむ人々を救うため千日の間難行を修め、その満願の日養老4年1月8日の明け方、8か所を選んで掘り下げると「天より華雨降り、地より沸々と温泉が湧いた」ので、里人達は「まんだら湯」と名付けたと伝えられている。
明治28年、湯島財産区にこれが移管されたが、その頃の湯銭は1まわり(1週間)が3銭から10銭であった。
日露戦争の傷病兵の療養地として指定され、明治43年山陰線の鉄道開通によってにわかに活気づき日々賑わい繁栄した。
また町の財産区なるものは特別地方公共団体であるため、毎年の年度末には議会が開かれる。
(Q)泉源はいくつありますか?
(A)4箇所ある
(Q)総湧出量はいくらですか?
(A)毎分1470L、平均温度59.4度C
(Q)城崎の外湯は有名だがいくらあるのでしょうか?
(A)まんだら湯、鴻の湯、御所の湯、一の湯、柳湯、地蔵湯、さとの湯の七湯がある

■温泉寺住職
「温泉寺縁起」(大永8年)によれば、温泉寺は城崎温泉を開いた道智上人により創建された。道智上人は地蔵菩薩の化身といわれ、広く衆生済度の大願を発して諸国を巡り、養老元年(717年)この地に来て当所鎮守四所明神に祈願をこめ、明神の信託を得て、翌養老2年から4年にかけて一千日の間、八曼荼羅の修行をなし温泉を開いた。
温泉寺の御本尊は十一面観音立像で、但馬地方の代表傑作。奈良や京都のこの頃の観音像に比べても堂々と対抗し得る彫刻だ。一本の彫成で量感に満ち満ちたものだ。
大和の仏師稽文が長谷寺の観音と同木(桧)で観音像を作り、それが安置されている。この像は33年目ごとの御開帳の秘仏である。次の御開帳は平成30年4月23日からの3年間。但し毎年4月23・24日の開山忌には御開扉があり、拝顔することは出来るが全体像を見ることは出来ない。
試みに温泉寺に祀られている仏像を示してみる。
・木造十一面観音立像(国指定重要文化財)
・木造千手観音菩薩立像(国指定重要文化財)
・木造四天王立像(県指定重要文化財)

温泉寺の記録によると、明治の終わり頃までは入浴に来た者はまず温泉寺に参詣し、寺から祈祷した湯杓を受け、肩から湯を浴びせていたと記されている。
既に知られている事ですが、城崎には生粋の但馬人画家、斉藤畸庵がいる。彼は沢庵宗彭と池田草庵を含め但馬三庵と呼ばれ、但馬を代表する文化人である。同寺の襖絵は畸庵が1840年40歳位の時に描いたもので、他にも掛け軸も各地で大切に所蔵されている。
※(注)この書面の畸庵に関する資料は但馬史の中から戴いたものです。

(Q)現在ご住職は何代目ですか?
(A)29世をお勤めしている。
(Q)別格本山とは何を意味しているのか?
(A)真言宗大本山は高野山にあり、3500の末寺がある。その内の50ヶ寺が天平10年(738年)、時の聖武天皇から末代山温泉寺の勅号を賜った。
(Q)私達は真言宗の住職さんの事を法印さんと呼んでいるが、その呼び名でよいのですか?
(A)一般的にはその名で呼ばれているが、正式に法印さんと呼ばれる人は本山にただ一人しか居られない。それ程の高貴な職名の人を指す。

今回の講演を受け、少なくとも1400年も前から人々は温泉によって常に体を休め、心も癒して来たのでしょう。現在もそうしている事を知った。格差社会という難しい今、文明の力だけでなく無欲で自然の力を受けるなら道は開けるのかも知れないですよ…。

【報告者 飯尾文男】



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2010年1月例会 「ハンガー一筋60年!~環境と経営を語る~」
開催日  2010年1月22日
開催市町 豊岡市日高町
テーマ  「ハンガー一筋60年!~環境と経営を語る~」
講師   中田孝一(中田工芸株式会社・社長)
     (但馬学会員)
場所   中田工芸(株)本社・岩中工場
参加者  
担当   

1946年に創業。父・敏雄が、終戦後中国大陸の兵役から帰国し、家業の「荒物屋」の店番をしていた時に、戦争で疎開してきたハンガーを作る職人さんがハンガーを店に置いてくれと言われたことからハンガーとの出会いが始まる。終戦直後、但馬にいてもお客は少なく、何か売れるものはないかと外に売りに行こうと考え、地元の産品とともにハンガーをもって、神戸の元町や大阪の心斎橋に行った。テーラーさん等がハンガーに反応し注文があった。ハンガーは必需品だということを認識し、職人がハンガーを作り、中田氏の父が営業に回って業容を拡大していった。そして、そうしたなかでお客さんからの注文を受けてその技術も高められた。例えば、静岡は雑貨としてのハンガーの産地であったが、現在では輸入品にとってかわっている。うちは、テーラーから注文を受けたことが示すように、ファッション業界に出していたため、特注ハンガーを作る特別の技術力が備わった。



 この30年間を振り返ってみると、最初の10年(1980年代)はファッションが成長する頃で一緒に成長し休日出勤ばかりであったことを思い出す。これはバブル崩壊まで続き絶頂期には百名以上の職員がいた、登り坂の10年であった。次の10年(1990年代バブルの崩壊後)は、一転して苦労の10年であった。顧客のニーズも中国からの輸入を前提とした低価格指向になり、中国からのハンガーの輸入も開始した。余剰人員の適正化、その他機械設備の会社の構造転換に苦労した。そして、2000年以降のこの10年は、メーカーだがユーザーから直接に注文を受け、いかにナカタハンガーを認識してもらうかの10年が始まった。
 一例として、六本木ヒルズがナカタハンガーの中心的な活躍の場だ。ホテル、レジデンス、テレビ局、専門学校、有名ブランド専門店、これらのすべて又は多くが中田工芸のハンガーを使っている。まさにナカタハンガーがいっぱい詰まっている場だ。



 そして、別の場所でもホテル、内外の有名ブランドで中田工芸のハンガーが使われているとともに、日本一の有名アパレルでも使われている。
 新規市場としては、ブライダル市場がある。「福掛け(福と服を掛ける)」「世界で一つ(名前入りハンガー)」ということで、引き出物としてハンガーが使われ、毎日のように注文がある。また、記念品市場がある。たとえば、大手企業の新製品販売時のノベルティにナカタハンガーが使われた。さらに、創立記念日や卒業記念、昇進祝いや父(母)の日、誕生日といったものもある。これは全部made in JapanでNAKATA HANGERのロゴで作っている。
 ナカタハンガーのこだわりは、①メイド・イン・ジャパン、②ストーリー、③ネットワークで展開を図っている。①made in Japanは、日本人の感性と丁寧なモノづくり、②ストーリーとしては、職人が、コウノトリが飛ぶ自然豊かな豊岡で、手作りで作る、③ネットワークとしては、出会いやご縁を大事にし連携しているということだ。例えば、青山のショールームは、但馬を訪れたアパレル関係の方を案内したことがきっかけでわずか半年間で実現した。



 これらに基づきながら、この10年間はナカタハンガーのブランドを認識してもらおうとしてきた。
 環境との関わりとしては、端材をボイラーの燃料に使うなどリサイクルを行っている。具体的な例はアパレル・メーカなどのユーザーが消費者にアピールする際、使っているハンガーがエコであると情報を提示することにより、エコであることをPRできることとなり、重要なポイントとなっている。
 また、世界に対しても売ろうというのは、20数年前にも取り組んでいた。ドイツ、フランス、イタリアにも出かけたが、驚いたことにどこもハンガー会社は田舎の風光明媚な場所にあるということであった。アメリカにも行ったが、どでかい工場で工場内に貨車が走り、コンピューターのオンラインで結ばれ、24時間体制で作っていた。
 中田工芸も自然豊かな場所にあるが、売り先の多くは東京で、3人の職員が東京に駐在し、東京と日高を行き来するので高い旅費がかかっている。それがハンデと言えばハンデだが、ものづくりは地価や騒音問題などがあり東京ではできない。一方、こだわりやストーリーの点では、豊岡というこだわり、但馬のいいところを見せる、田舎だからこそできることを示せる、という点では優位な場にあるのではないか。

(報告者:谷岡)


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