2009,03,29, Sunday
テーマ:朝子おばあちゃんの昔話
~神鍋で受け継がれる宿の味~
講 師:森 朝子さん(82歳)
日 時:平成21年3月28日(土)
場 所:神鍋高原 民宿森屋 豊岡市日高町太田41
◎朝子さん◎
朝子おばあちゃんは昭和21年12月23日に森屋に嫁いで来られた。まだ、テレビが無い時代。「スキーに来るお客といえば裕福なお嬢さんばかり。自分はもんぺ姿で働いていて、この仕事が嫌で仕方がなかった。」と語るが、今もなお現役でお嫁さんと民宿を切り盛りされている。嫁がれてから60数年。昔の苦労話もニコニコ。おもしろおかしく語る口調は、会員の我々を笑いの渦へ巻き込んでいく。
その隣で、こちらもニコニコお嫁さん。二人の仲良しぶりが直に伝わってくる。
○スキー場
昭和25年頃。一人15円でスキーボートという4人載せて山の上まで運んでくれる乗り物があった。つるべ式でワイヤーで引き上げていた。
昭和28年頃。奥神鍋にリフトが完成。
昭和32年に関西で初めて国体スキー大会(第12回国民体育大会冬期大会スキー競技会)が執り行われた。それに伴い、スキー場一帯は整備。全国から集まった選手は関西にこんな素晴らしいスキー場があったのかと驚かれ、さらに、昭和40年にも国体スキー大会(第20回)が執り行われた。
○太田地区と民宿とお客さん
国体開催を受け、辺りはスキー場の全盛期を迎える。森屋がある太田地区も民宿が急増。それまでは免許も何も無い時代だったが、国体となると免許がいることとなり、小学校の裁縫室で全員で試験を受けた。「なんて書いたん?」なんて答案用紙を見せ合いながら(?)全員合格。
当時太田地区は、肉屋・魚屋・豆腐屋・酒屋などなど多くのお店が軒を連ねた。昭和58年に民宿が75件あったとの記録があるので、全盛期はそれ以上あり、ほとんどの家が民宿であったと思われる。
お客さんは、江原駅からバスで来られる。江原駅はバス待ちのお客さんで溢れていた。バスは約50台がどんどん上がってきた。中には、スキー板を担いで歩いて登ってこられる方あったり、この道は上がりばかりで下りることができない程だった。
朝ご飯には、のり・生卵・豆腐の味噌汁。お昼はスキー小屋で食べていたが、あまりにもお客が多いので溢れた方が何か食べさせて欲しいと帰って来たほどで、帰ってくる当てはなくても鍋いっぱいにカレーを作っておけば食べてくれた。なので、お昼はカレーが定番。夜ご飯は、すき焼きやカニスキ。連泊の方は魚屋で刺身を用意するなどしていた。
突然、泊めて欲しいというお客さんもいたので、何を食べさせようかと思ったときは養鶏していた鶏をつぶして食べてもらったこともある。当時は、ご飯を炊くのもお風呂も暖をとるのも薪。お客さんも薪を取りに出るのを手伝ってくれたりした。
「お客さんがよく我慢したと思う。」「人が温かったですな。」と当時を振り返る。
○民宿の人々の生活
忙しくて忙しくて寝る暇がなかった。夜12時頃まで働いたと思ったら朝の3時には夜行列車のお客さんが到着される。鍵もかけずに疲れて寝ていた。住み込みの人を八鹿や轟(現在の養父市)から雇い、パートもお願いして1月~2月を乗り切った。
朝子おばあちゃんは2月に3人目を出産。病院で出産する時代ではない。蔵の上に畳を2畳ほど引いてそこで寝ていた。しかし、朝の3時には賑やかになるため眠れない。
子ども達も部屋なんて無い。蔵の壁を白壁にして少しでも明るくなるようにして、畳を敷いて過した。
雪が消えた頃に、みんなで山へ行き木を切りに行った。
現在も4月の10日前後には山焼きが行われ、山が守られている。
○現在の太田地区と森屋
民宿の数はペンションも入れて26件にまで減少した。最近はカニの方が冬場は人気なのかもしれない。夏も大勢来られるようになった。グラフスキーやマウンテンバイクなども盛んである。
森屋では、“すず豆茶”という昔の人はみんなが飲んでいたお茶を今も作りつづけている。河原決明(かわらけつめい)という草本に豆のような果実がなる。それですず豆(?)なのか。それを、鉄鍋で焙じて飲む。手間がかかるので一度作るのを止めたが楽しみにしているお客さんがあり、また、作り始めた。今は、作っている人もほとんど無いらしい。春に種を巻き、秋に刈って乾燥させ陰干しにしお茶にする。
ピーナッツも栽培している。ピーナツ豆腐も人気メニューの一つ。お味噌も麹も自家製。
他にも、ずいきを炊いたもの、酢ずいき、ぜんまい、麹漬けなどなどどこか懐かしいメニューが今も並んでいる。
●担当者感想●
朝子おばあちゃんの人柄が詰まった例会だった。会員の笑い声が絶えない。本当はとても苦労されたと思う。戦争・戦後の時代。その時代の移り変わり、お客さんのニーズの変化に雪が降らなくなった環境の変化。周りは閉業される中、今も頑張り続けている。
昼食に頂いた一品一品も人柄が出るのかほっとする味ばかり。たけのこもぜんまいも・・・とてもおいしく頂いた。
私もこんなおばあちゃんになりたい。
(報告者:福井久子)
~神鍋で受け継がれる宿の味~
講 師:森 朝子さん(82歳)
日 時:平成21年3月28日(土)
場 所:神鍋高原 民宿森屋 豊岡市日高町太田41
◎朝子さん◎
朝子おばあちゃんは昭和21年12月23日に森屋に嫁いで来られた。まだ、テレビが無い時代。「スキーに来るお客といえば裕福なお嬢さんばかり。自分はもんぺ姿で働いていて、この仕事が嫌で仕方がなかった。」と語るが、今もなお現役でお嫁さんと民宿を切り盛りされている。嫁がれてから60数年。昔の苦労話もニコニコ。おもしろおかしく語る口調は、会員の我々を笑いの渦へ巻き込んでいく。
その隣で、こちらもニコニコお嫁さん。二人の仲良しぶりが直に伝わってくる。
○スキー場
昭和25年頃。一人15円でスキーボートという4人載せて山の上まで運んでくれる乗り物があった。つるべ式でワイヤーで引き上げていた。
昭和28年頃。奥神鍋にリフトが完成。
昭和32年に関西で初めて国体スキー大会(第12回国民体育大会冬期大会スキー競技会)が執り行われた。それに伴い、スキー場一帯は整備。全国から集まった選手は関西にこんな素晴らしいスキー場があったのかと驚かれ、さらに、昭和40年にも国体スキー大会(第20回)が執り行われた。
○太田地区と民宿とお客さん
国体開催を受け、辺りはスキー場の全盛期を迎える。森屋がある太田地区も民宿が急増。それまでは免許も何も無い時代だったが、国体となると免許がいることとなり、小学校の裁縫室で全員で試験を受けた。「なんて書いたん?」なんて答案用紙を見せ合いながら(?)全員合格。
当時太田地区は、肉屋・魚屋・豆腐屋・酒屋などなど多くのお店が軒を連ねた。昭和58年に民宿が75件あったとの記録があるので、全盛期はそれ以上あり、ほとんどの家が民宿であったと思われる。
お客さんは、江原駅からバスで来られる。江原駅はバス待ちのお客さんで溢れていた。バスは約50台がどんどん上がってきた。中には、スキー板を担いで歩いて登ってこられる方あったり、この道は上がりばかりで下りることができない程だった。
朝ご飯には、のり・生卵・豆腐の味噌汁。お昼はスキー小屋で食べていたが、あまりにもお客が多いので溢れた方が何か食べさせて欲しいと帰って来たほどで、帰ってくる当てはなくても鍋いっぱいにカレーを作っておけば食べてくれた。なので、お昼はカレーが定番。夜ご飯は、すき焼きやカニスキ。連泊の方は魚屋で刺身を用意するなどしていた。
突然、泊めて欲しいというお客さんもいたので、何を食べさせようかと思ったときは養鶏していた鶏をつぶして食べてもらったこともある。当時は、ご飯を炊くのもお風呂も暖をとるのも薪。お客さんも薪を取りに出るのを手伝ってくれたりした。
「お客さんがよく我慢したと思う。」「人が温かったですな。」と当時を振り返る。
○民宿の人々の生活
忙しくて忙しくて寝る暇がなかった。夜12時頃まで働いたと思ったら朝の3時には夜行列車のお客さんが到着される。鍵もかけずに疲れて寝ていた。住み込みの人を八鹿や轟(現在の養父市)から雇い、パートもお願いして1月~2月を乗り切った。
朝子おばあちゃんは2月に3人目を出産。病院で出産する時代ではない。蔵の上に畳を2畳ほど引いてそこで寝ていた。しかし、朝の3時には賑やかになるため眠れない。
子ども達も部屋なんて無い。蔵の壁を白壁にして少しでも明るくなるようにして、畳を敷いて過した。
雪が消えた頃に、みんなで山へ行き木を切りに行った。
現在も4月の10日前後には山焼きが行われ、山が守られている。
○現在の太田地区と森屋
民宿の数はペンションも入れて26件にまで減少した。最近はカニの方が冬場は人気なのかもしれない。夏も大勢来られるようになった。グラフスキーやマウンテンバイクなども盛んである。
森屋では、“すず豆茶”という昔の人はみんなが飲んでいたお茶を今も作りつづけている。河原決明(かわらけつめい)という草本に豆のような果実がなる。それですず豆(?)なのか。それを、鉄鍋で焙じて飲む。手間がかかるので一度作るのを止めたが楽しみにしているお客さんがあり、また、作り始めた。今は、作っている人もほとんど無いらしい。春に種を巻き、秋に刈って乾燥させ陰干しにしお茶にする。
ピーナッツも栽培している。ピーナツ豆腐も人気メニューの一つ。お味噌も麹も自家製。
他にも、ずいきを炊いたもの、酢ずいき、ぜんまい、麹漬けなどなどどこか懐かしいメニューが今も並んでいる。
●担当者感想●
朝子おばあちゃんの人柄が詰まった例会だった。会員の笑い声が絶えない。本当はとても苦労されたと思う。戦争・戦後の時代。その時代の移り変わり、お客さんのニーズの変化に雪が降らなくなった環境の変化。周りは閉業される中、今も頑張り続けている。
昼食に頂いた一品一品も人柄が出るのかほっとする味ばかり。たけのこもぜんまいも・・・とてもおいしく頂いた。
私もこんなおばあちゃんになりたい。
(報告者:福井久子)
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2009,02,28, Saturday
開催年月日 2009年2月15日(日)
開催市町 豊岡市
講 師 阪井芳雄氏(赤石 88歳)
場 所 豊岡市赤石 兵主神社および赤石営農センター
参加者 友田 椿野 高石 太田伸 中安 衣川 福井 中田 上田 浜野 宮元 戸田
小川 島垣 西躰 守山 岩本和 岩本名 飯尾 宮本 峠 島垣(会員外)計22名
担 当 飯尾 宮本 峠
(ねらい)
いつ頃から始まったか分からないが、赤石の兵主神社のお祭りに、境内で兎の餅搗きのような杵を使って4人がかりで餅を搗く神事が続いている。五穀豊穣、無病息災,家内安全などを祈念した農耕儀礼の名残りと考えられる。餅搗きに参加し、試食し、神事にあやかって頂き、また「千本杵」の意味を考えることとしたい。
(赤石という所)
豊岡市の北部、玄武洞のある集落で農村地帯。かつて田は海抜0メートルの低湿田で、小さな水路が縦横に走り、稲は舟で運んだ。明治3年の記録によると「農用船50艘、牛13匹」とあるが、実は今から43年前までその舟が活躍していた。川魚の漁も行われていた。今では、56アール区画の田地約30ヘクタールに整備されている。大昔、低湿田だったので遡上してきた海水の塩害に悩んでいたが、どこからかやってきた浪人がリーダーになって村人を督励し、潮垣(しおがき。防潮堤のこと)を完成させたので、そのリーダーを祀ったといわれる若宮神社が兵主神社の境内にある。そのことを伝える「潮垣」伝説があるし、若宮土提と呼ばれるところも最近まで残っていた。人口は明治5年の記録では戸数62軒299人、平成20年10月1日では戸数33軒116人、高齢化率38.8%。明治の中期に北海道に移住された方もある。
(兵主神社)
延長5年(927)に国でまとめられた「延喜式」の巻9・10に政府公認の神社が記載されているが、これを式内社といい赤石の神社もその中に入っている。ということは、今から約1,100年前にすでにこの神社があったことになる。この兵主と言う社名を持つ神社は、式内社に限られている。但馬では、5社6座あるが、全て円山川水系に沿っている。兵主とは、中国の天主、地主など八神中の武神のことで、兵器を作った神である。天の日槍の帰来伝説地帯の近くに兵主神社が分布しているので、朝鮮半島・大陸との関係が深いのではないかと思われる。
(餅あれこれ)
餅は日本を含む東アジアと東南アジアの一部にしか存在しない極めて地域固有性の高い不思議な存在であるといわれている。農耕社会では、古くから人間の力が及ばぬ自然に対して、目に見えぬ神の加護を求めて春には作物の豊穣を祈願し、秋にはその収穫に感謝する神祭りがしばしば生活の節目として執り行われてきた。餅は神饌(神に供える酒食)として神社に供えた農耕儀礼の名残りだろう。
(千本杵の意味)
広辞苑によると、千本搗きとは「新造の堤防または置き土の上などを、小棒で搗き固めること」とある。千本格子とか千本たちなどの言葉にもあるように数の多いことを意味しているものと考えられる。赤石の千本杵餅搗きでは、4人の搗き手が勢いよく杵を何回も繰出している。
(講師 阪井芳雄さんのお話)
・ 兵主神社のある山の頂上付近は、昔から大平(おおなる)といい、なだらかな広い場所だ。先祖はここで戦の訓練をしていた。武器庫もあったと言い伝えられている。
・ お祭りは、覚えている限りでは2月17日と6月17日にあった。先輩の話では、旧暦の2月17日はこの地球が自転と公転を始めた起算日にあたるとか。
・ 赤石の千本杵餅搗きの起源はよく分からない。57年前の昭和27年2月17日のお祭りの残り火がもとで、お籠り堂が全焼し、村の古文書類や諸道具一切を失ったので調べようがない。しかし、今から216年前の寛政5年(1793)に現社殿が再建された時の棟札によると、そのときの寄進に「八三郎 餅米壱俵」の記載が見られるので、その当時既に餅搗きがあったのではないかと思われる。
・ 6月17日のお祭りは約60年ばかり前に中止した。
・ 以前は、お祭り当日に、各家が餅米大盛り一升を持ってお宮に登ったが、今では区が一括購入している。約30キロ。当番は四人、毎年輪番制で、早朝からお宮に上り、餅米を洗ったり、蒸したりする。昔は、餡も当番が作ったが、今は購入している。
・ こしきは一回に四斗蒸すことができる。戸数の多い時代には二回に分けて蒸していた。こしきと大釜を密着させるパッキンを「然る(さる)」という。これがいい餅が出来るか出来ないかの肝腎要のところだ。今使っている「然る」は昔村が素人芝居や慣らし踊りに使っていた純木綿の古幕を引き裂き素麻(あらそ)を交互にまぜあわせて私が作った。「然る」は昔からこの村に伝わる固有名詞だ。
・ 臼は特別大きなものでないと間に合わないが、籠り堂が焼けたとき焼失し困っていたが、気比の中井靖次という大工さんが寄進してくれた。
・ 餅米が蒸しあがると、五尺の杵を持った搗き手四人がホイホイホイホイの掛け声とともに杵で左を突いて右に引く。この動作を四人が一つ心になって繰り返していると、臼の中の餅はグルグル回りながら丸うなって搗き上がる。搗き手は若い者が自由に志願する。搗き手のほかに混ぜ手一人、器用な人が担当する。一臼は大体三升くらい。
・ 昔は、一番早く神社に上った人が「一番杵」と言って最初に搗く権利を与えられ、餅もたくさん貰えた。
・ 搗きあがった餅は、餡をまぶし三方に載せまず氏神さまにお供えする。子どもたちにも小餅を分けてやり、残りは分け餅として各戸が持ち帰り、家族が頂く。
・ 昔の人が言っている。「餅搗く家はもちゃつかん、もちゃつく家は餅搗かん」と。餅は喜びの象徴である。
(その他特記事項)
但馬学研究会の通常の例会は毎月第4土曜日であるが、今回は赤石地区の定例行事日である2月15日(日)に実施した。
(報告者:峠宗男)
開催市町 豊岡市
講 師 阪井芳雄氏(赤石 88歳)
場 所 豊岡市赤石 兵主神社および赤石営農センター
参加者 友田 椿野 高石 太田伸 中安 衣川 福井 中田 上田 浜野 宮元 戸田
小川 島垣 西躰 守山 岩本和 岩本名 飯尾 宮本 峠 島垣(会員外)計22名
担 当 飯尾 宮本 峠
(ねらい)
いつ頃から始まったか分からないが、赤石の兵主神社のお祭りに、境内で兎の餅搗きのような杵を使って4人がかりで餅を搗く神事が続いている。五穀豊穣、無病息災,家内安全などを祈念した農耕儀礼の名残りと考えられる。餅搗きに参加し、試食し、神事にあやかって頂き、また「千本杵」の意味を考えることとしたい。
(赤石という所)
豊岡市の北部、玄武洞のある集落で農村地帯。かつて田は海抜0メートルの低湿田で、小さな水路が縦横に走り、稲は舟で運んだ。明治3年の記録によると「農用船50艘、牛13匹」とあるが、実は今から43年前までその舟が活躍していた。川魚の漁も行われていた。今では、56アール区画の田地約30ヘクタールに整備されている。大昔、低湿田だったので遡上してきた海水の塩害に悩んでいたが、どこからかやってきた浪人がリーダーになって村人を督励し、潮垣(しおがき。防潮堤のこと)を完成させたので、そのリーダーを祀ったといわれる若宮神社が兵主神社の境内にある。そのことを伝える「潮垣」伝説があるし、若宮土提と呼ばれるところも最近まで残っていた。人口は明治5年の記録では戸数62軒299人、平成20年10月1日では戸数33軒116人、高齢化率38.8%。明治の中期に北海道に移住された方もある。
(兵主神社)
延長5年(927)に国でまとめられた「延喜式」の巻9・10に政府公認の神社が記載されているが、これを式内社といい赤石の神社もその中に入っている。ということは、今から約1,100年前にすでにこの神社があったことになる。この兵主と言う社名を持つ神社は、式内社に限られている。但馬では、5社6座あるが、全て円山川水系に沿っている。兵主とは、中国の天主、地主など八神中の武神のことで、兵器を作った神である。天の日槍の帰来伝説地帯の近くに兵主神社が分布しているので、朝鮮半島・大陸との関係が深いのではないかと思われる。
(餅あれこれ)
餅は日本を含む東アジアと東南アジアの一部にしか存在しない極めて地域固有性の高い不思議な存在であるといわれている。農耕社会では、古くから人間の力が及ばぬ自然に対して、目に見えぬ神の加護を求めて春には作物の豊穣を祈願し、秋にはその収穫に感謝する神祭りがしばしば生活の節目として執り行われてきた。餅は神饌(神に供える酒食)として神社に供えた農耕儀礼の名残りだろう。
(千本杵の意味)
広辞苑によると、千本搗きとは「新造の堤防または置き土の上などを、小棒で搗き固めること」とある。千本格子とか千本たちなどの言葉にもあるように数の多いことを意味しているものと考えられる。赤石の千本杵餅搗きでは、4人の搗き手が勢いよく杵を何回も繰出している。
(講師 阪井芳雄さんのお話)
・ 兵主神社のある山の頂上付近は、昔から大平(おおなる)といい、なだらかな広い場所だ。先祖はここで戦の訓練をしていた。武器庫もあったと言い伝えられている。
・ お祭りは、覚えている限りでは2月17日と6月17日にあった。先輩の話では、旧暦の2月17日はこの地球が自転と公転を始めた起算日にあたるとか。
・ 赤石の千本杵餅搗きの起源はよく分からない。57年前の昭和27年2月17日のお祭りの残り火がもとで、お籠り堂が全焼し、村の古文書類や諸道具一切を失ったので調べようがない。しかし、今から216年前の寛政5年(1793)に現社殿が再建された時の棟札によると、そのときの寄進に「八三郎 餅米壱俵」の記載が見られるので、その当時既に餅搗きがあったのではないかと思われる。
・ 6月17日のお祭りは約60年ばかり前に中止した。
・ 以前は、お祭り当日に、各家が餅米大盛り一升を持ってお宮に登ったが、今では区が一括購入している。約30キロ。当番は四人、毎年輪番制で、早朝からお宮に上り、餅米を洗ったり、蒸したりする。昔は、餡も当番が作ったが、今は購入している。
・ こしきは一回に四斗蒸すことができる。戸数の多い時代には二回に分けて蒸していた。こしきと大釜を密着させるパッキンを「然る(さる)」という。これがいい餅が出来るか出来ないかの肝腎要のところだ。今使っている「然る」は昔村が素人芝居や慣らし踊りに使っていた純木綿の古幕を引き裂き素麻(あらそ)を交互にまぜあわせて私が作った。「然る」は昔からこの村に伝わる固有名詞だ。
・ 臼は特別大きなものでないと間に合わないが、籠り堂が焼けたとき焼失し困っていたが、気比の中井靖次という大工さんが寄進してくれた。
・ 餅米が蒸しあがると、五尺の杵を持った搗き手四人がホイホイホイホイの掛け声とともに杵で左を突いて右に引く。この動作を四人が一つ心になって繰り返していると、臼の中の餅はグルグル回りながら丸うなって搗き上がる。搗き手は若い者が自由に志願する。搗き手のほかに混ぜ手一人、器用な人が担当する。一臼は大体三升くらい。
・ 昔は、一番早く神社に上った人が「一番杵」と言って最初に搗く権利を与えられ、餅もたくさん貰えた。
・ 搗きあがった餅は、餡をまぶし三方に載せまず氏神さまにお供えする。子どもたちにも小餅を分けてやり、残りは分け餅として各戸が持ち帰り、家族が頂く。
・ 昔の人が言っている。「餅搗く家はもちゃつかん、もちゃつく家は餅搗かん」と。餅は喜びの象徴である。
(その他特記事項)
但馬学研究会の通常の例会は毎月第4土曜日であるが、今回は赤石地区の定例行事日である2月15日(日)に実施した。
(報告者:峠宗男)
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2008,11,23, Sunday
開催月日 2008年11月22日(土)
開催市町 朝来市和田山
テーマ しいたけ栽培名人 ~原木にこだわり続けて~
講 師 畠山 弘さん(兵庫県きのこ生産振興会会長)
参加者 谷岡、飯尾、宮本、浜野、島垣、成田、中嶋、西躰
小川、戸田、福井、高石(12名)
会員外1名(足立)
担 当 高石、福井、足立(報告者:例会の時点では会員外)
■ 趣旨
大量に輸入される中国産しいたけに押されて衰退する一方の栽培林家。巷のマーケットでは菌床栽培が主流になりつつある中で、原木栽培にこだわり続けて40年。全国・兵庫県の品評会において57回入賞、名人の認定を得た畠山さんのしいたけ栽培の工夫の数々と美味しさの秘密とは?
■ 講師紹介
畠山 弘さん
朝来市和田山町久田和在住
兵庫県きのこ生産振興会会長
日本特用林産振興会名手名人認定
兵庫県指導林家
各種の品評会での受賞暦57回(品評会は生産者の祭りやと思うてるから出します)
■ 内容
原木栽培と菌床栽培の違い
始めた当時はほとんどの林家が原木栽培だった。今は逆にほとんどが菌床栽培。菌床は糠におがくずや薬品を混ぜたものを固めて作ったもの。菌床栽培は約30年前から徐々に広まってきた。そして、25、6年前から中国のしいたけが入ってきた。安い中国産しいたけが入ってきたことで相場が崩れた。特に干ししいたけの安いものが大量に流入した。その多くは加工食品の原料に使われている。今の日本の干ししいたけの生産量が3600トン。一方消費量は12300トン。不足分はほぼ中国からの輸入。
安い中国産しいたけに押される中、重労働を伴う原木栽培に比べて、菌床のほうが体力的にもきつくなくて、大量生産、企業的な生産に向いている面がある。一方で菌床栽培は、菌床に様々な化学薬品が混ぜられている場合がある。原木栽培はほぼ100%天然のものを使う。食の安全性の面から僕は菌床栽培に疑問がある。また、栄養価についても原木栽培のしいたけの方が優れていると考えている。人に喜んでもらうものを作りたいという、志に反すると感じる部分があるため菌床栽培はせず、原木栽培にこだわっている。
研究と工夫の数々
採算性を考えると、半年発生で栽培しないといけない。それで色々なところを見てまわって、話を聞いて研究した。しいたけ菌は、温度が15度から22度の時に一番活発に活動する。7度より低いと活動しない。以前は4月に殖菌して、すぐ山に持って行って5月から6月になり暖かくなるのを待った。しかし、10度から15度を3000時間キープできたら半年でも生えるということに研究の結果行き着いた。今は2月に殖菌している。寒い時期だがハウスかまたはナイロンにくるむことで温度調節ができる。その状態にしておけば大丈夫。また殖菌の数を倍にしている。倍に植えて春と同じ状態にすれば菌が原木の中にまわってくれる。
それから、弟に開発してもらったマイコンの存在も大きい。これで温度と散水量を制御できるようになった。コンピューターの導入は県内の原木栽培林家で唯一。これで2年を半年に短縮することが可能になった。今の時期から2月にかけて栽培しているのは雪の降る地方しか取れない品種。10月までと4月20日からと2種類の品種を、年間を通して栽培している。
原木は、樹種はコナラ、この辺ではホウソともいう。その17年から25年生のものがよい。それから切ってから3ヶ月から5ヶ月のものじゃないと菌がまわらない。5ヶ月でもちょっとたちすぎ乾いてしまっている。立ち木だと水分がありすぎる。
最近は木を切る方が減っているため木が大きくなってしまっている。大きい(古い)木は皮が硬くてしいたけが生えにくい。今は90パーセントほどは東北の木を使っている。東北のものは皮が薄くて生えやすい。残りは近くで切ったもので買ってくれませんかという話があったものを使っている。
しいたけはあほやから??
丸太に殖菌するのは機械を使って1本あたり60箇所。一個約3円。一番生えやすいのは6月の梅雨の時期。その後の7月とかはちょっと散水してやる。それから生える前に一昼夜水につけないと生えない。(今、家では裏の山からとった山水を、温度調節しながら使っている。)しいたけはあほやから、刺激を与えないと生えない。温度差の刺激で生えてくる。よく原木の頭を金槌でたたくと生えるというが本当で、水の刺激を与えた上でたたけば確かに良く生える。
使えるものは最後まで
原木はサイクルに載せて繰り返し使う。目安としては8回転したら廃木にしている。それ以上でも生えるけど、小さいものしかできなくなる。8回転を終えたら山に持っていって2年ほど積んでおく。そうするとカブトムシの幼虫がたくさん入ってくる。その後はクワガタムシの業者さんに売る。最後まで資源は無駄にしない。
畠山さんのしいたけの価値と美味しさの秘密
しいたけは何といっても分厚いのほど美味しい。今の時期から2月に栽培しているのは雪の降る地方でしか取れない品種。冬の2月あたりの日が照らない時期はゆっくりしか成長しない。ハウスに機械を入れて温度を上げる方法もあるけど、それはしていない。そのかわりに沢山ハウスを持っている(7本)。成長はゆっくりだけどその分時間をかけて美味しくなる。それから採ってすぐに冷蔵庫に入れると身がしまる。完全無農薬で安全で美味しいものを作りたいと思っている。
しいたけの美味しい保存方法
10年前までは郡農協に100パーセント出荷していた。農協さんを窓口に郡内の生産者は奨励金をもらって組合を作っていた。私も役員を務めたこともある。その頃農協さんに全部卸してしまうことに役員の中で一人反対していた。農協さんに出荷したら、農協さんから市場に出荷されて競りにかけられる。あなた任せではなくて自分で販路を開拓しないといけない、そうでないと将来採算がとれなくなるんではないかという思いがあった。姫路の卸問屋に直接売ろうとしたこともある。
現在は近隣の道の駅3箇所とAコープさん、ジャスコさんに直接出荷している。今の時期は朝と夕方に採取をして包装し、合間を見て午前中に出荷にまわっている。
以前にはネット販売も進められたこともあったがそれはやらなかった。注文があった時に、今はありませんというのが申し訳ないから。その代わり、運送会社と提携して直接販売をするようになった。きっかけは、どこかでしいたけを買われたお客さんからラベルを見て直接売ってくれないかという問い合わせがくることが度々あったから。北海道と沖縄以外は次の日の間に届けることができる。今、遠いところでは那覇市のお客さんで毎年買ってもらっている方がいる。そういう待ってくれているお客さんが全国にいるから、後継者がいなくて僕もいつまでできるかわからないけど、健康な限りやると決めている。
但馬のシイタケ栽培の過去・現在・未来
26年ほど前に組合を作ったときは、旧朝来郡内で年間1000本以上殖菌される林家が45名だった。15年ほど前に組合が生産者の減少でなくなった。今市内で3名ほどしかいない。但馬全体で27、8人。県内をみても原木生産者の後継者がほとんど育っていない。
取引価格は30年前でキロ7000円、今は高値の平均でキロ7000円。これではやっていけない。それでも県で何人かは生き残っている。始めたころは僕が一番若かったが今この歳。当時の先輩は亡くなった方も半分以上。新規の参入者もいない。生産者は減る一方。80歳にもなると体力的にも難しい。日本産が足りず、仕方なく輸入しているという言い方をされることもあるが、僕はちょっと納得がいかない思いがある。僕の売っているやつは全部売れている。完売。需要はあるはずだと思う。
【11月例会を担当して】
○椎茸に原木栽培と菌床栽培とがあることすら知らずに訪問させていただきました。ビニールハウスに入るとずらっと奥の方までぎっしりと並ぶ原木。そこににょきにょき顔を出している椎茸。畠山さんは、とても楽しそうに椎茸作りの話しをしてくださいましたが、原木を冷たい水に浸して、それをビニールハウスへ運んで・・・重労働。包装した椎茸をお店まで運ぶのも大変。それを毎日。
早速、例会後に店頭に並んだ椎茸を見に行ってきました。ありました。畠山さんのお写真に原木栽培の説明書き。そして、こだわりの椎茸。食べてみると本当にしっかりした味がしておいしい。
しかし、そんな椎茸つくりも後継者が少なくなってきていると聞くと何だかさみしい気がしました。畠山さんも自分の代で終わりなのだそう。とても残念。
今回の例会を通じて、自分自身が納得出来る物を作り続ける畠山さんの生き方もすばらしいなと感じました。今後は原木栽培椎茸に希少価値が付いて高値が付く日も近いかも!?(H・H)
○専業農家として食べていくことに多くの障害のある但馬にあって、それを成り立たせている畠山さんの大変なバイタリティーと工夫の数々に感銘を受けました。同じ市内に住む者としても、こんなすごい人がいたのかとうれしく思いました。
例会前、現在の手の入らなくなることで荒れてしまった山に対して、しいたけのような林産物の生産は、山の資源を活かし環境を維持するための一つのキーになるのではという思いがありました。畠山さんは、裏山から流れる冷涼な水をほだ木づくりに活用したり、廃木の再利用を考えたりと、資源を有効利用する様々な工夫をされていました。一方で、しいたけの品質の向上とコストの面から、原木については主に東北から取り寄せておられるということでした。一つの理想形として、全てのものが地域内の資源によって賄われた循環型の産業があるとして、採算や商品価値等を考えると簡単ではないのが現状なのかなと感じました。でも東北の木から生まれた畠山さんのしいたけはとても美味しい。理想形は一つではなく今の現実に合わせた違う形の理想形は無いだろうか。考えはうまくまとまりませんでしたが、畠山さんのしいたけにかける情熱に刺激されて、思いは色々と巡りました。(T・A)
○畠山さんのしいたけはみずみずしくよい香りがして本当に美味しい。木の精(エキス)が宿っているような味わいである。以来、マーケットでも原木か菌床をみて買うようになりました。原木しいたけを買うことで、栽培林家を支えることになります。原木の9割は東北から移入されるとのこと。それで東北の林業が成り立ち、山が保全されるともいえます。
しいたけ栽培の研究と工夫の数々を公開し、訪ねてきた同業者にそれを伝えておられることはすばらしいと感じました。
但馬でも原木しいたけ栽培は減少の一途をたどっています。後継者が生まれる土壌はもうなくなってしまっているのでしょうか。(S・T)
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2008,10,28, Tuesday
開催月日 10月25日(土)
開催市町 豊岡市竹野町
テーマ 「山里の恵み」~川ガニを食べる
講 師 井上貞義さん (ドライブイン山里 経営)
場 所 ドライブイン山里
参加者 岩本(か)、岩本(め)、峠、宮本、飯尾、高石、谷岡、木村
中嶋、椿野、成田、島垣、宮元、太田、久保、中田、福井
西躰、戸田、小川 藤原(ひ) (21名)
(会員外 2名)
担 当 中田、久保
竹野町南地区(兵庫県豊岡市)の山里の食材を使ったお料理をいただきながら、その漁や生活の様子を伺った。今日の講師は、その名も「ドライブイン山里」を経営されている井上貞義さんとその漁の仲間の方。
お店に入ると、いきなりこれ!川ガニがずらーっと並んでいる。この辺りの秋の味覚である川ガニをいただきながら、と井上さんにお願いをしたら、なんとこんなに。これ全部、井上さんがお店のすぐ横を流れている竹野川で獲ってきてもの。今年は数が少ないと聞いていたのに。井上さんのお心遣いにまずは感謝である。
これが「川ガニ」。地域によっては「ズガニ」「モクズガニ」などと呼ぶ。体長20〜25cmの立派な川ガニ。「川ガニ釜飯」が炊ける前に、まずこの湯がいた川ガニをいただく。
さてボチボチ「川ガニ釜飯」が炊けてきた。ご飯の上には、川ガニ1匹がまるまる一緒に炊けている。蓋をあけると、川ガニの香ばしい匂いがプーンと漂う。
「川ガニ釜飯」の食べ方にはちょっとしたコツがある。のっかっている川ガニを一旦、そとのお皿に取り出し、殻から中身を丁寧に取り出して再びご飯の上にのっけていく。川ガニのミソは、風味があって、そんじょそこらのカニミソとはワケが違う。
本日の講師であり、川ガニを獲る漁師であり、「ドライブイン山里」の料理人である井上貞義さんである。
出身は、このお店のある竹野町森本からさらに上流にある小さな集落・川南谷(かなんだに)。平家の落人の村との言い伝えもある最上流のドン着きの集落。現在は5軒しかなく、限界集落の一つになっている。かつて自給自足の生活であった。焼き畑をやりながら、ソバの栽培もしたそうだ。
この「ドライブイン山里」の名物は蕎麦。そば粉と自然薯(じねんじょ)で練った井上さんのこだわりの逸品。ここのお蕎麦は本当に美味しい。また、地元の栃の木から採取した栃の実入りの「栃餅ぜんざい」も美味しい。
すべて、お話をお聞きした井上さんの手に掛かった川ガニ、お蕎麦、栃餅ぜんざいのフルコースをいただいた。何とも身も心もとろけるような例会であった。
山里の恵みを、ぜひ「ドライブイン山里」で味わってみてください。
【報告者 中田孝一】
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