2007年1月例会 「但馬における近代化遺産の特徴」
開催月日 : 1月27日(土)
開催市町 : 養父市
テーマ  : 「但馬における近代化遺産の特徴」
講 師  : 中尾康彦 氏(兵庫県ヘリテージマネージャー)
場 所  : 例会  大屋地域局
        見学  旧養父合同銀行大屋支店見学(現ヴェネックス事務所)
参加者 : 島垣、中尾、友田、峠、高石、藤原J、中田、能登、西躰、
       衣川、岩本K、岩本M、浜野、谷岡、宮元(一般参加)、但馬夢テーブル委員(共催)4名
担 当  : 島垣、岩本和(記録)

講師は株式会社ヴェネックス代表の中尾康彦氏。
メンバーは但馬学会員と、会員外では「但馬夢テーブル」のメンバー4名と大屋町出身宮元氏。

まず、中尾氏の会社を訪問。
ここは旧養父合同銀行大屋支店。平成17年まで、但馬銀行が大屋支店として使っていた建物。取り壊しの運命であったその建物を、中尾氏が購入し、建築工房ヴェネックスの建築事務所として残した。中尾氏自らヘリテージマネージャーであり、事業と平行して、建造物を保護している役目も実践している。

 

シンプルで荘厳な雰囲気の素晴らしい建物。中尾氏は、購入の経緯とディテールの説明をしてくださった。面白かったのは、この建物が北但大震災後に復興建築として建てられたものなのに、かなり手を入れて作られているところ。柱のディテールもやや凝っている。豊岡市役所と日高商工会館が同じ流れをくむ建造物だということだった。

また、窓の鉄格子も、刀と同じ作りかたである鍛造で作られたもので互い違いに組み立てられているところなども面白かった。二階の窓には、非常に珍しい、オレンジ色のダイヤガラス。ガラスの凸凹面が外側にあるというのも珍しいという事だった。中尾氏は、この建物の中の小物にもこだわり、大昔の電話やラジオやぜんまい仕掛けのレコードプレーヤーなどがさりげなく置かれ、建物の中の雰囲気もまた大切にされているのがうかがえた。

 

この後、場所を大屋地域局にかえて、中尾氏から写真を見せてもらいながらの講義となった。

但馬に残っている、近代化遺産の数々を見せていただいた。今まで知らなかったものや、知っているものなど、たくさんの近代化遺産を紹介していただき、書ききれないくらいのエピソードを聞き、非常に面白いものでした。これは、私たちも身近な近代化遺産を探してみたいという思いが湧いてきて、知識欲がどんどんと出てきたのでした。詳しくは、平成19年6月、そのmapが県民局より出されるので是非見てみたい。

近代化遺産とは
明治以降昭和初期までの「産業遺産」を言いたい。日本の文化に、異国の文化が重なったもので、産業革命の遺産ととらえてもらえればという事でした。建物であったり、橋であったり煙突であったり。時にはクルマなどの物であっても対象という面白いもの。はっきりと定義しにくく、定義しろと言われれば辛いものがあるとの事。

ヘリテージマネージャーとは
阪神淡路大震災の影響もあり、将来登録文化遺産になる要素のあるものを守ろうという意識が高まり、生まれてきたもの。これは、文化遺産を考えるマンパワーを高めるための、民のボランティア団体のようなもの。現在兵庫県下に150名登録。建物などの調査をする人であり、きちんと県と文化庁の講義を受けなければなれないもので、しっかりとした団体。実績として、近代化遺産のmapを作った。

中尾氏からの提案
建物を店舗などにして価値を高めているところもある。それを見習ってはどうか。但馬の観光ルートを作ることが出来ればと思う。例えば現在は餘部鉄橋を中心とした観光が組まれているが、そこを中心とした鉄道のルート。鉄道のトンネルなども面白い近代化遺産。また、豊岡の復興建築を見てまわるルート。これは豊岡にしかないもの。コウノトリとあわせたルートというのも面白いのではないか。
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2006年12月例会 「大乗寺と圓山應擧 〜偉大な空間プロデューサーの足跡〜」
開催日  2006年12月9日(土)
開催市町 香美町
テーマ  「大乗寺と圓山應擧 〜偉大な空間プロデューサーの足跡〜」
講師   味田晃氏 (元・香住町教育長)
場所   大乗寺
参加者
担当

兵庫県香美町香住にある「大乗寺」を訪ねた。正式には、「高野山真言宗 亀居山 大乗寺」と言う。圓山應舉の襖絵で有名なので通称「應舉寺」と呼ばれることもある。大乗寺は、りっぱな石垣の上に「客殿」があり、お寺と言うよりもお城か砦と言った印象を受ける。昔は藩(領地)の境目に当たり、砦の役割も果たしていたのかも知れない。



本日の講師は、味田晃氏(みた・あきら)元・香住町教育長)。味田さんは大乗寺の檀家でもある。大乗寺と圓山應舉に関する第一人者。



味田氏曰く、『漢字は円山応挙でなく、「圓山應舉」と書くべし』。さらに、『「圓山應舉と大乗寺」ではなく、「大乗寺と圓山應舉」なのだ』そうだ。当時の資料を調べあげた味田さんのこだわりに、惹きつけられた。

應舉が修業中の貧しい頃に、その才能を見込んで学資を援助したのが、当時の大乗寺の住職だった。後に、画壇の第一人者になり、円山派の祖として仰がれた圓山應舉の恩人とも言える。その縁で、安永年間、1770年代の大乗寺復興に際し、應舉に障壁画を依頼し、應舉はこれに応えた。「恩返し」とも言われているが、「謝礼金」を払っている古文書がある。



障壁画は、十一面観世音菩薩の仏間を中心に13の部屋に描かれている。仏教上の東西南北の隅に、四天王の司る世界を絵画化した内容の襖絵が描かれ、寺院全体で一つの立体曼荼羅を表現していると言う。一つ一つの襖絵が素晴らしいのは、鑑賞するたびに感じていたが、各部屋の襖絵の構図や仏教的な意味が込められていることを知り、いっそう、大きな感動を覚えた。味田氏がおっしゃった「圓山應舉は、単なる絵描きに収まらず、優秀なインテリアデザイナーでもあった」と言うお話には、多いに納得した。

当時の住職・密蔵法印、弟子の密英上人が地元出身であり、圓山應舉の代表的な作品のほとんどがこの大乗寺にあることを改めて知った。私自身の中で、地元の誇りがまた一つ増えた。

(報告者:中田)
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2006年11月例会 但馬の地層と化石 ~但馬は化石がけっこうでます~
テーマ:但馬の地層と化石~但馬は化石がけっこう出ます~
講 師:北但層群化石研究会代表 三木 武行 氏
場 所:豊岡市


【主旨】

今回の例会は、但馬で見かける地層やその中で発見される様々な化石などから、日本列島や但馬の地質学的な成り立ちなどを学ぼうという目的で北但層群化石研究会代表の三木 武行さんを講師に迎えお話をお聞きしました。

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【内容】

古生代の「ぺルム紀」と呼ばれる今から2億5000万年ほど前の時代の地球上の地形は現在の世界地図で見られるものとは大きく異なり、北アメリカ・南アメリカ・アフリカ・ヨーロッパなどの大陸は互いに隣接し合い一つの巨大な大陸を形成していた。その頃、現在の中国大陸のほとんどは水面下にあり、日本列島もごく一部の地域がかろうじて島のように点在していた。この時代の中国大陸では石灰岩が多く堆積し、現在の日本列島でも九州北部から山陰地方にかけて、この時代の地層が広く分布している。古生代の地層からは藻類・シダ植物・三葉虫・魚類・両生類など化石が見つかっている。また、関宮の蛇紋岩はぺルム紀よりもさらに2億年ほど前に、海中での火山爆発により形成されたと考えられる。蛇紋岩はカンラン岩という火成岩が海水に反応して生成することから、当時海面下にあった地層部分で海底爆発の発生をうかがえる。

 現在の日本列島は「プレートテクトニクス」と呼ばれる地殻変動により何千万年もの時間をかけて形成されていった。地表下の地殻部分より下にあるマントルと呼ばれる岩の部分は水のように流動して地表下をゆっくりと流れている。その上にプレートと呼ばれる地殻が乗っている。プレートは何枚にも分かれており、マントルの流れに乗ってプレート同士が重なりあったり、ぶつかりあったりしながら地殻変動をおこしている。中国大陸の一部であった日本列島でも1~2億年前の中生代「白亜紀」・「ジュラ紀」に生息していた裸子植物や恐竜・アンモナイトなどの化石が当時形成された地層から発見されている。丹波地方で発見された恐竜の化石などは、当時の日本列島と大陸とのつながりを裏付けるものである。

その後も、プレートテクトニクスにより世界の地形はゆっくりとその姿を変えて行くのだが、日本列島は哺乳類・鳥類が誕生する数千万年前の新世代には現在の姿に近づいていく。およそ7千万年前に中国大陸の東部では大規模な火山の噴火活動が起こり、このころに形成された地層は花崗岩層を形成した。その分布は現在の山陰地方で広く見られる。火山はやがてカルデラを形成し、巨大な湖へと変化していく。このころの堆積地層からは湖の存在を裏付ける淡水性の化石が見つかっている。また、サイや象やツルといった動物の足跡も香住の海岸周辺で発見されており、湖畔が当時の動物の水飲み場や漁場になっていたと考えられる。

その後の地殻変動により、約1500万年前には巨大な湖の南方から対馬海流が流入して、淡水が海水へ変わっていくことにより日本海は誕生した。そして、当時の日本列島は暖流の影響で熱帯環境であったことが、当時の化石から判る。およそ500万年前には但馬地方での火山活動が活発になり、氷ノ山や玄武洞火山などが噴火したのもこの時代である。現在山陰海岸で見られる流紋岩やデイサイトの地層もこのころに形成されたものである。その後、地殻変動や氷河期が繰り返され、日本列島は現在の形に出来上がっていった。

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【感想】

今回たくさんの化石(標本)も見せていただき、古代生物とその生息環境や但馬の歴史について多くの事を学ぶことが出来ました。改めて、但馬の地層を観察することにより、様々な小さな発見が出来、それらをひとつずつパズルのように組み合わせて行くことで、やがては壮大なスケールの歴史的・地質学的理解へと繋がっていくのだということをこの例会で気付かされました。ふだん特に気に掛けることもない身近にある物を手に取り、それをじっくりと見つめ深く考えることで、意外な新しい発見が実は隠されているのだと。
         
(報告者:上田直樹)

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2006年10月例会 「畑ヶ平(はたがなる)開拓の歴史と奥八田の暮らし」
開催月日 :  10月28日(土)
開催市町 : 新温泉町
テーマ   : 畑ヶ平(はたがなる)開拓の歴史と奥八田の暮らし
講 師   : 植村哲(さとし)さん  (専業農家)
場 所   : <会場>青下公民館(新温泉町青下)
        <現地見学>畑ヶ平高原
参加者  : 峠、能登、木村、中田、戸田、小川、高石、成田、西躰、藤原じ
         浜野、友田、向井(会員外)
担 当  : 木村、能登、友田(記録)

鳥取県境の蒲生峠の手前で国道9号から分かれ、扇ノ山(おうぎのせん・1310㍍)から流れる岸田川に沿って南へ上って行った地域が奥八田(おくはった)である。奥八田小学校・上山高原ふるさと館を過ぎ、道標に従って右折して進むと、やがて青下(あおげ)に着く。上山高原に至る急な山を背にした段丘状の平地に集落がある。
 今回はお宮の境内にある公民館を会場に、夏大根を畑ヶ平で作る専業農家の植村哲さんのお話を聞き、植村さんの案内で畑ヶ平の開拓地を訪ねた。また上山高原エコミュージアムの代表で青下区長の小畑和之さんにいろいろアドバイスいただきお世話になった。
 かつて畑ヶ平はブナの原生林で山が深く険しく、たやすく里の人を寄せ付けなかったが、ただ木地師にとっては深山だけが生活の舞台であり、その足跡が見つかっているという。

 

■畑ヶ平と開拓の歩み
    ♪天下になる畑ヶ平   かいびゃく以来のぶな林
       切り開くべきときが来た   これぞ八田の生命線

 植村さんはかつて歌われた畑ヶ平開拓の歌を口ずさんだ。畑ヶ平は海抜約1千メートル、西は扇ノ山、東は仏ノ尾(1227㍍)・南は青ヶ丸(1240㍍) の山々に囲まれた鳥取県に接する高原だ。岸田川沿いで最も奥の集落である霧滝・菅原から幅3メートルほどの林道を約5キロ、標高差で500メートルほどの急峻な谷を登りつめる。冬は2メートルを超える雪が普通に積もる。
 畑ヶ平は昭和7・8年ごろから当時の八田村によって開拓の構想が立てられ、戦後の昭和22年に9家族11人(和光開拓団)が、25年に11家族12人(森里開拓団)が入植した。人力のみでブナなどの大木の伐採に明け暮れ、高冷地のため思うように作物もできなかった。当時は作ったハッカや野生のすずたけなどを売っていたが、厳しい生活に昭和28年をピークに離団者が相次ぎ、両開拓団は消滅してしまった。
 その後馬鈴薯・イチゴなどを地元の農家が登ってきて作っていた。馬鈴薯は種芋として淡路島などに売っていた。イチゴはアメリカからの輸入によって値が半額ほどに下がった。  

 このため昭和51年、鳥取県側に広がる広留野(鳥取県若桜町)で大根を作っていた小谷会長の指導を受け、植村さんら3戸が夏大根の栽培を始めた。現在は地元の5戸の農家が生産している。
 開拓団が開いたあたりを「きばたけ」と呼び、さらに高いところに第1団地、第2団地を切り開いた。面積は合わせて20ヘクタールほどあり、国有地の払い下げを受けた。 

 

■夏大根の専業農家
植村さんは大阪の高槻で会社に勤めていたが昭和50年にUターンし、畑ヶ平での大根作りに新たな人生を賭けた。39歳のときだ。青下から畑ヶ平まで約10 キロ、車で45分かけて、息子さんと二人で通う。
 きばたけ・第1・第2団地に合わせて4ヘクタール作っている。雪が消える5月半ば過ぎに畑をトラクターで耕し、6月5日ごろから種を植え付ける。種を蒔くのではなく種を貼り付けたテープ(シーダテープ)を使う。
8月になると収穫が始まる。まだ真っ暗な朝2時半から8時まで大根を手で引く。両手で2本を一度に引いていく。1日に息子さんと二人で7千本引く。8時になって雇った10人が小型マイクロバスで到着すると、夕方5時までいっしょに大根を洗い梱包し出荷する。この仕事が出荷を終える10月半ばまで続く。きばたけの中央に数戸の作業小屋が建ち、ここで大根を洗う。冬は雪で埋まってしまうためか、頑丈な作りだ。
 畑ヶ平の大根は神戸と京都の市場に出荷している。植村さんは昔からの馴染みで京都だ。かつて夏大根が高値のころがあったが、今は北海道産が出回り、競争が激しい。でも「畑ヶ平の大根」とひいきにしてくれる得意先がある。形の悪い大根も値は落ちるが加工用に引き取られるので、すべて出荷する。
 10アールあたり5千本作るので、4ヘクタールで20万本生産する。仮に1本100円で売るとすると粗収入2千万円、ざっと5戸で畑ヶ平は1億円を産む。

 

■高原の水
 畑ヶ平の高原は一面の大根畑だが、周辺や少し低いところはブナの林だ。かつては高原全体がブナに覆われていたことがわかる。畑ヶ平の高原のブナ林を歩いて気付くのだが、あちこちで水が湧き、小さな流れとなって北へ下っていく。ここは岸田川の源流なのだ。大根を作るのに散水はしない。植村さんは「大根を作るには日照りのほうがいい。必要な水分は土の中から供給される」と言う。ブナ林を切り開いた開拓地だが、それでも周辺や高原に残るブナ林が水を豊かに蓄えているのだろう。
 高原から南西へ下ると鳥取県だ。水は鳥取市に流れる。

■上山高原エコミュージアム
 畑ヶ平から周囲の扇ノ山・仏ノ尾・青ヶ丸は近い。なにしろ標高差で200メートルあまりなのだから。1時間も歩けば登れそうな距離だ。扇ノ山はここからの登山道がある。しかし仏ノ尾と青ヶ丸まで直線距離で1キロあるかないかだが、「日本海側の山特有のスズ竹がびっしり生えていて、雪のない季節はとても歩けない」と、ここを歩いたことのある加古川の向井さんは言った。
 扇ノ山は扇を広げたように見える南北に連なるなだらかな山容から名付けられたという。火山であるが、基盤は堆積岩で溶岩・火山岩は薄く、畑ヶ平は神鍋山のようには土は黒くない。四方にいくつかの高原状の地形が広がり、やがていっきに急峻な谷へ落ちる。畑ヶ平は東、上山高原は北に位置する。
 奥八田は岸田川と支流の小又川に沿った二つの大きな谷が刻まれ、上山高原がその真ん中にある。いわば上山高原は奥八田のシンボルといえる。この上山高原や麓の村々など奥八田地域を「まるごと生きた博物館」ととらえ、平成16年7月にNPO法人・上山高原エコミュージアムが設立された。
 イヌワシやツキノワグマなど貴重で多様な生態系を育む自然を守り、復元・育成して次代に継承すること、自然の循環の仕組みや自然と共生してきた人々の暮らしに息づく知恵を学ぶことを基本に、地域内外の交流を促進して元気な奥八田をつくることを目標にした住民活動である。
 上山高原ふるさと館を拠点に「明治の水路を歩こう(霧滝~青下・わさびの植え付け収穫も)」「扇ノ山新緑登山」「きのこ観察会(畑ヶ平)」など、多彩な自然体験プログラムも実施している。
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2006年9月例会 「執念の豊岡かばん職人」~カバンストリート散策、モノ作りの真意
開催月日 : 9月23日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : 「執念の豊岡かばん職人~カバンストリート散策、モノ作りの真意」
講 師  :  植村美千男さん (職人・植村美千男のかばん修理工房)
場 所  : 豊岡市カバンストリート
参加者   :
担 当   : 中田、浜野、



豊岡市は全国一のカバンの生産地です。しかし「灯台下暗し」で、意外とこの地場産業のことを知らない地元の人は多い。そこで、但馬学では満を持して「カバン」を取り上げました。訪ねたのは豊岡かばんの情報発信基地「カバン・ストリート」を運営している宵田街商店街。

私たちは「宵田いっぷく堂」で昼食をいただき、宵田街商店振興組合の兼崎理事長に、カバン・ストリート誕生の経緯をお聞きし、カバンストリートを案内していただいた。(写真中央が兼崎氏)



最初は、7月にオープンしたばかりの「ARTPHERE」。画材専用バッグを切り口として豊岡かばんのオリジナルを全国に発信しようとされている。しばらくするとメンバーの目つきは、ほとんど視察モードからショッピング・モードに変わってしまっている。


次は服地の店「万勝」さん。店内には「火山灰&山土染」の説明とともに素朴な風合いのバッグが陳列されている。企画・製作しているのは(株)フィードさん。



こちらは「レコード店」からカバン作りに転職された「bags VOICE」。ミシンを置いてオリジナル・バッグを製作されている。特注も受けていただけるそうだ。



カバンストリートの目玉の一つ「カバンの自動販売機」。城崎温泉へ向かう国道312号線沿いに設置されている。



「カバン・ステーション」はストリートの中心店舗。ここで人気のバッグがある。「365 birthday tote bag」。配色パターンが366種類ある。自分のバースディ・カラーのカバンを購入すると日付を入れてもらえる。



いよいよ、今日のメイン講師をお願いしている植村美千男さんの登場です。

場所はカバンストーリの中にある「職人・植村美千男のかばん修理工房」である。修理中のカバンや道具がところ狭しと並んだ作業台を挟んでお話をお聞きする。

「命を懸ける。背水の陣をひかないといい仕事はできない」
「若い者には、世界一のカバンを作ろうやと声をかけている」
「伝統(いいもの)を守るには、稼ぐ商品も持たなければならない」
「商売はしっかりと利益をとれば良い。でも、あとで赤恥をかかないように。オンリー・ワンの隠し味をもっているか?」
「修理をやれば、さまざまなカバン技術がわかる」
「ヨーロッパの有名ブランドのバッグもいっぱい修理してきた」

植村さんが仰った言葉の数々。本物の職人とは、植村さんのような人を言うだと強く思いました。
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