2007年6月例会 「但馬と曹洞宗のかかわり~禅寺の作法に学ぶ」
開催月日 : 6月23日(土)
開催市町 : 豊岡市
テーマ   : 「但馬と曹洞宗のかかわり~禅寺の作法に学ぶ」
講 師   : 大田清旦(長松寺東堂)  前橋泰信(長松寺方丈)
場 所   : 万寿山 長松寺(豊岡市下鶴井2177)
参加者   : 中田、岩本和、岩本名、島垣、高石、浜野、衣川、守山、戸田、
         小川、成田、西躰、藤原次、友田、原田、藤原博、能登、峠、
         (会員外7名)岸田、北、飯尾、城田、高石蕗、西村  (計25名)
担 当   : 能登、峠(記録)

【ねらい】
 昨今の世情は大変殺伐としている。飽食の中、資源の枯渇と地球環境の破壊が忍び寄ってきている。しばらくの間、この喧騒をのがれ、静かに食事をいただき、坐禅を行ずることにより己のなすべきは何かを探るきっかけとしたい。

【場 所】
 万寿山 長松寺豊岡市下鶴井2177 宗派は曹洞宗。檀家数約190.。開創は、永享元年(1429)を遡ること数十年前に、若狭小浜(福井県)の妙徳寺から竹堂慧厳和尚が来錫して廃寺を復興されたとの口碑がある。永平寺68世貫首秦慧昭禅師、同じく76世貫首秦慧玉禅師は長松寺の17世と19世である。現住は22世前橋泰信方丈。

 

【指 導】
 東堂(隠居された住職のこと。大田清旦) 方丈(現在の住職のこと。前橋泰信)

【内 容】

①本尊上供
方丈さまの指導を受け、本堂で般若心経を唱えた。木魚と時折打たれる鐘の音が身にしみた。

②中食
  方丈様の指導を受け、本堂で作法に従い昼食をいただいた。東堂様が見本を示された。最初に「五観の偈」(ごかんのげ)を唱える。むずかしい言い回しだが、感謝・反省・修行の心・正しい目的、仏道をなすためにこの食事をいただくことを各自確認する作法とのこと。
  食器は木製の黒の漆塗りの五つ重ね、應量器(本来は僧侶が托鉢の際に用いる鉄鉢)ともいう。メニューは玄米のご飯、お吸い物、酢の物、たくあん、生ゆば、野菜の煮付け。箸の置き方、取り方、手の支え方、食器は音をさせない、食べる順番、たくあんで食器を洗う、とにかく無駄が全くない。そして静か。ご飯は100回噛む。これで満腹感が得られたのには驚く。テレビを見ながら、好き放題に食べている日常を少し反省した。約1時間半要した。

  

③坐禅
  方丈様の指導で本堂で坐る。叉手の仕方、五体投地の礼拝の意味(頭を地につけ、両手のひらを両耳の傍で上げる。お釈迦さまの足をいただく様子)、坐蒲の使い方、一礼の仕方、結跏趺坐、半跏趺坐、法界定印などを教わり、およそ20分ほど坐る。4~5人が警策をいただいた。音が痛そうで、警策を敬遠したという人がいた。

④法話・行茶
  場所を庫裡に移し、東堂様からお茶を頂戴しながらお話を伺った。

 

* 曹洞宗は、鎌倉時代に道元禅師が永平寺で開創。当時の日本の表玄関は大陸側(日本海側)。その教えは、船で各地に広がった。但馬の中心のルートは、円山川。船は今考えるより遠く出石、養父の方まで上っていた。但馬の曹洞宗寺院は83カ寺、最も古いお寺は円山川河口に属している。1番古いのが帯雲寺(隣村の野上)、2番目が長松寺、3番目が香積寺(隣村の飯谷、長松寺の末寺)、4番目が龍雲寺(浜坂町)、5番目が金勝寺(隣村の下宮)。
* 平安時代は、天台・真言の時代。当時の学問は、仏教を学ぶことだった。学問を志すものは皆比叡山を目指した。但馬の人たちは真面目だった。真面目を表す固有名詞として「但馬の法師」が「但馬法師」になった。
* 江戸時代、山紫水明の但馬は思索上勝れた環境。但馬は禅窟といわれた。各宗派を問わず、人物を生み出す風土。沢庵和尚、池田草庵、浜尾新、近藤英弥(豊岡中学校長、高校に珍しく胸像がある)
* 新しくお寺が出来ると、初代住職が出身したお寺を本寺という。(本寺、末寺関係)
     永平寺⇒大乗寺(加賀)⇒禅昌寺(萩)⇒妙徳寺(小浜)⇒長松寺
* 曹洞宗の教え(釈迦の教え) 正法眼蔵95巻。「威儀即佛法 作法是宗旨」仏様の作法。仏様がご飯を召し上がったように我々がいただく(真似をする)即仏様である。泥棒の真似をすれば泥棒である。形は精神を表す。色即是空とまったく同じ。心は形を表す。形の威儀は、内容の仏性、宗旨は言わない。心の威儀は体を言わない。心ともの。理念なき事物はない。理念を言うときは具象を言わない。
* 物事の道理 物事には両面がある。証一方一方暗(一方ヲ証スレバ一方ハ暗シ) 理事一枚=色即是空=平等としゃべつ差別 同時に並べて言わない。師匠がしゃべっている時は弟子はしゃべらない。弟子がしゃべっている時は師匠はしゃべらない。お父さんが表でしゃべっている時は、奥さんは表でしゃべってはならない。

Q&A

* 禅宗と食事 托鉢でいただいたものは全部食べる⇒時代の変化で肉食がなくなった。
* 修行 佛性は、原石のままではダイヤにはならない。千里の道も一歩の上にある。一歩一歩が連続している。それが修行。
* 禁葷酒入山門 「葷酒山門ニ入ルヲ禁ず」 禅寺の寺門の傍に、不浄なものや浄念を乱すものは寺に入ることを禁ずるという意味が刻まれた石柱が立っている。これを「禁ズル葷酒、山門ニ入ル」などと冗談で読み替えるものもいる。
* お寺は、本来道場である。ひとりではなかなか修業は難しい。大勢おれば牽制や競争も生まれ可能。三人居れば大叢林という。道場に入れば、金魚でも龍に変ずるといわれている。
* 法系 長松寺は、世襲でなく師匠から弟子に継がれてきた。これを法系という。師匠からは「陰徳を積め。偉い坊さんよりありがたい坊さんになれ」と言い伝えられてきた。
* お仏壇の前ではどう拝むか。感謝を捧げるのが理屈にあっている。

⑤参加者の所感

* 坐禅、わずか20分だったが、雑念が激しく行き交った。でも普段の生活の中で無作為に区切る20分とは全く違った。(N)
* 坐禅が終って、人には「静態視力」があることに気付いた。「動態視力」は動いているものをいかに的確に見るかだが、「静態視力」はとどまっているものを見抜くというものだ。また、仏壇に向かっては一言感謝することでよいとのこと。これですがすがしい気分になれた。(H)
* 「健全な精神は健全な肉体に宿る」に象徴される心身2元論と異なり、立ち居振る舞いこそが佛法であり、作法に則る行いをすることが仏の教えであるという考え方は、分かりやすく、現在見失われがちな大切なことを教えていると思った。(T)
* どの宗派がいいとか、教義がオリジナルに近いとかは問題ではなく、ただ、心安らかに「作法」をやっていれば、それが「宗旨」というのは、今回の坐禅で納得というところです。(I)
* 玄米は、サジで3回に分けて口に入れる。そして最低100回は噛んで食べる。ところがこれがなかなか難しい。普段、いかに忙しくいただいているのか痛感する。(N)
* 食事をよく噛んでいただくことが当たり前になったら、静かな気持ちで生活するという時間の使い方が普通の暮らしの中で出来るかもしれない。実際家でやってみると食べることに発見がある。(H)
* あれだけの食材で食事が出来ることにショックを受けた。(T)
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2007年5月例会 「新緑の阿瀬に金山の面影を訪ねる」
開催月日 : 5月26日(土)
開催市町 : 豊岡市日高町
テーマ   : 「新緑の阿瀬に金山の面影を訪ねる」
講 師   : 富山利一さん(猟師、金山最後の住人)
場 所   : 阿瀬渓谷 ~ 金山廃村
参加者   : 中田、木村、峠、原田、谷岡、能登、中尾、友田、藤原じ、
         島垣、浜野、高石、西躰、(会員外)久保、高橋、児玉
担 当   : 中田(記録)、木村

阿瀬渓谷は「ひょうご森林浴場50選」のコースとして知られている人気のハイキング・コースでもある。阿瀬渓谷には48の滝があり、素晴らしい景観をつくっている。
今日の目的地は「金山廃村」。文字通り、室町時代に遡るが、阿瀬川の上流に金、銀の鉱脈があり、かつて1000軒を超える集落があった。

 

今回の例会は、単なるハイキングではない。昭和37年12月26日に最後の住人として「金山廃村」を離れた冨山利一さん、ご本人にを案内していただくのだ。

冨山さんには、但馬学の例会でお話を伺ったことがある。1996年2月「廃村・金山の生活と山の恵み」のお話で、山の生活をお聞きし会員みんな多いに感動した。2000年4月の但馬学10周年記念行事で再び冨山さんのお話をお聞きしたのだが、村を降りるその瞬間のくだりは、何度聞いても心にジーンとくる。

考えてみれば、そんな冨山さんのお気持ちを思うと、「廃村の案内」なんてとんでもないことを依頼してしまったのかと心が痛んだが、かつてお聞きした冨山さんのお話は私の心の宝。今日は、現地で再びしっかりと心に刻みたいと誓った。

第二駐車場まで車に乗り合わせて集合する。冨山さんにご挨拶をして出発。途中のコースを案内板で確認。

 

歩き始めて、5分もしないうちに、道の脇にある大きな杉の木に遭遇する。かつて通り難い個所に道を付け替える為に岩を粉砕する為に発破を仕掛けた時に、その破片が多数、この杉に食い込んだそうだ。

「この杉の中にはいっぱい岩の破片が入っている。間違って伐って製材しようものならノコギリが一発でやられてしまう」と、いきなり冨山さん一流のユーモアたっぷりの案内が始まる。

 

下から5つ目の滝「源太夫滝」(げんだゆうのたき)。阿瀬川と若林川の合流地点にある。まだ、歩き始めて10分も経っていないのに、渓谷の景観にみんな感動である。

「ガラン橋」。今は鉄骨で架かっているが、よーく見ると橋の下には、昔架かっていた橋の木材が残っている。カズラを絡ませて架けたからカラミ橋、さらに訛ってガラン橋になったそうだ。

 

例会の担当をしたKさんと私は、この日の天気予報が気が気ではなかった。週間予報がでた1週間前の予報は「雨時々曇り」(>_<)。ところが前日になって、予報が突然「晴れ」。やったー!(^_^)の心境。

 

打合せのときは、少し脚を故障されていて途中までの案内と言うことでしたが、結局、今日は金山(きんざん)まで案内していただくことができた。龍王滝は、帰路に寄ることにする。

但馬の5月は新緑が美しい。但馬学の5月例会は、毎年山、川に出向いて「気持ちよい季節」を満喫するように企画する。今年の5月例会も最高だ!

 

「不動滝」。阿瀬渓谷の景色を満喫しながら、上、上へと登る。

歩き始めて50分ぐらいで、「関西電力水取口」に遭遇する。阿瀬川の水の一部がここからトネンル通って、下流の「阿瀬発電所」の発電モーターを回す。

「金山廃村」までは、あと20分ぐらい。今日の行程の4分の3ぐらいまで来た。まだまだ、この上にかつて集落があった。最盛期には1000軒も。想像がつかない。

 

だんだんと近くなる「廃村金山」。かつての住民の営みが見えてくる。石垣を積み、田んぼを作り稲を植える。川の両側に石垣が続く。今はそのほとんどが杉の林になっている。当時の米作りの様子は、かなりの想像力を働かせてみないと浮き上がってきにくい。集落の下流に位置する田んぼの一部は、鉱夫の墓地、集落のお墓などがあったと冨山さんから説明を受ける。

 

「廃村金山」に到着する。まず目に飛び込んで来るのが壊れた家屋。金山にあった学校。この建物は私が中学生時代に訪れた時には、ちゃんと建っていた。オルガンもあって、実際に音が出た。それが、今はこの姿。今回一緒に参加した私の高校時代の同級生T君によれば、まだ2年前は建っていたそうだ。
自然に朽ちて行く。その実感は、実際に目の当たりにする以外に得られない。

お風呂の釜。。。。暫し無言。
語ることは出来ない。冨山さんの自宅跡である。

お弁当を食べながら、冨山さんから、「座布団も出さず、お茶も入れずに申し訳ない」と冗談が飛び出す。ここで、当時の生活を語っていただいた。ウサギ狩り、炭焼き、濁酒(どぶろく)名人のこと、そして、発電機を備えた時のこと。

 

話のあった発電機は、今も冨山さん宅から30m程上流の竹やぶの中にあった。昭和30年に初めて灯りが点いたそうだ。電力が余り過ぎてモーターが加熱するので、全戸(6戸)、24時間照明を点けっぱなしするようにしていた。金山集落は不夜城だったのだ。山の上の空は真夜中もこうこうと明るかったそうだ。

発電機の設備は、村の若い衆が手分けをして運んだ。コンクリート袋は背中に1袋、手に1袋抱えて、下の村から運ぶ。今、私たちが歩いて来た道を。気が遠くなる。

 

冨山さん宅裏には清流が流れている。ある時にニジマスを繁殖させないかと下の集落の人に薦められ放流。数が増えるまで獲るなよと申し合わせた。当時はニワトリをさばいて食べることも多かったそうだが、川のほとりで内蔵取り出し、肉を切っていると、バチャバチャとニジマスが寄って来て臓物を食べるそうだ。そもそも食用にするために放流したニジマスだが、鶏肉を食べる姿を思い出すと、食べる気がしなくなった、と。冨山さんのお話はともかくオチがあって面白い。

下山の途中、龍王滝に立ち寄る。大きな岩を伝って滝の下まで行く。

 

写真右下にN君がいるので、滝の大きさがお分かりいただけるでしょうか。金山への道はこの滝の写真左側を通っている。滝の落下地点はその道のすぐ脇にある。

 

金山集落の面影を胸にしまいながら、それぞれのペースで下山する。

もうすぐで出発地点のところまで下山。阿瀬川に夕方の陽が差す。

新緑を眺めながらハイキングするだけでも、充分楽しめる阿瀬渓谷を、今日は冨山さんのお話を聞きながら、金山集落を訪ねることができた。かつての金山の賑わいと、金山集落の存在を語り継いで行かなければならないと強く思った。冨山さんに感謝、感謝です。ありがとうございました。


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2007年4月例会 「但馬弁を探る ~ほんてぇ~たじまべんてぇあるんじゃろうか?~」
開催月日 : 4月28日(土)
開催市町  : 豊岡市竹野町
テーマ   : 「但馬弁を探る ~ほんてぇ~たじまべんてぇあるんじゃろうか?~」
講 師   : 山田寿夫氏
場 所   : 竹野御用地館
参加者   : 島垣、能登、原田、峠、高石、岩本か、岩本め、椿野、藤原じ
         浜野、中田、谷岡、戸田、小川、木村、中尾、友田、成田 (18名)
担 当 : 島垣、能登、岩本和(記録)


まず、膨大な貴重な大屋方言一覧表に驚く。
但馬の限られた地区での方言の考察で、これだけあるので、但馬全体を調べたらとんでもないことになると想像できた。

●これが但馬弁というのは無いようだ
但馬でも、東西南北で、方言が変わってくる。
今のところ、「これが但馬の方言だ」というのがない。
また、取材は行政の急ぎの仕事で短期だったので、まだ不満足な仕上がり。
50年~100年スパンで見れるものではないので、非常にわかりにくい。言葉は変化しているもので、それだからこそ、方言は大事とも言える。
また、秀吉の頃、金鉱があったからか、秀吉とお上とのつながりが大屋には残っている。交差点的な場所だから、言葉が混ざっている。

  

●例題を出して、方言を集める
例えば、「美しい景色」「美人」「全部」「必ず」「気の毒」「干し大根」「漬物」「お手玉」を会員の方々に、但馬の言葉でどう言うのか挙げてもらう事をした。すると、出身により、いろいろな方言が出てきた。

「美しい景色」→きれぇげなけしき あじけぇけしき 等
「美人」→べっぴんさん 等
「全部」→でんぶ ありこまち 等
「必ず」→どんでも どーでも ぜってゃあ しゃっても 等
「気の毒」→かうゃあさげな かわいさげな けうぇえそうな 等
「干し大根」→ほしでゃあこ (干し方の状態により変化)たこのあし まるぼし 等
「漬物」→こうこ つけもん くせもん くもじ おくもじ (これまた状態による) 等
「お手玉」→こびいし おおさわら 等

※これらのわずかな方言の違いで、出身地が少しわかるという。

●取材の話
方言を聞き取れても、文字に落とせない場合がある。また、発音が出来ない事もあり、取材して第三者に伝えると、間違って伝わることもある。

取材は、地域の人に入り込んで、自然体でやらないと、方言が出てきにくい。かまえてしまうと、出てこない。

特に大屋の人はやさしい。歴史的にも対立しない人々のいる村人はあたたかい。
そんな場所には古い言葉が残っていることがある。宮中の女官が使った宮中言葉も残っている。また、よそには無い言葉も残っている。

歴史の中から人為的に消し去られた言葉も。
時の支配力のある人の都合からかも知れない。タブーとなっている。
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2007年3月例会 「但馬の山城 ~兵どもが夢の跡を探る~」
開催月日  : 3月24日(土)
開催市町  : 豊岡市
テーマ    : 「但馬の山城 ~兵どもが夢の跡を探る~」
講 師    : 西尾孝昌さん(八鹿高校教諭・但馬考古学研究会幹事)
場 所    : 豊岡市 香林会館(日撫)⇔愛宕山鶴城跡(山本)
参加者   : 中田、峠、岩本、岩本、島垣、木村、能登
         (会員外)中田、岸田、城田、稲葉、子ども2人、
         豊岡市出土文化財管理センター宮村氏がアシスタント参加
担 当 : 峠(記録)、木村

【ねらい】戦国時代の但馬地方の守護大名である山名氏の四天王といわれた武将の一人、田結庄是義の居城「鶴城」跡(平成8年4月豊岡市指定文化財)を現地見学し、往時の築城の規模、技術、思想などを探る。

【講師 西尾孝昌さん】豊岡市日高町西芝在住。県立八鹿高校教諭、日本史の先生。専門は地理学。但馬の城郭研究の第一人者。縄張り図を書かせたら兵庫県を代表する調査者の一人といわれている。この度山の中の随所で分かり易い説明をしていただいたが、脚の速いのには驚いた。長年の山城調査を単独で行動されてきた癖が出たのだろう。なお、この3月末で退職されるので、時間の束縛から解放されて、更にご活躍の場が広がることだろう。

 

1.城という字を分解すれば
講師の西尾さんは、我々参加者がテーマについての全くの門外漢である事の前提で、たいへん綿密で系統だったテキストを用意してくださった。注意深く読んでいくと腑に落ちて納得できる仕組みになっており、貴重な資料を頂いたと感謝したい。ところで、「城」と言う字を分解すると「土」と「成」になるように、本来「城」は「土」で造られていたものをいうそうである。鎌倉末期、南北朝時代から戦国時代にかけての約300年間に築城され、戦いに明け暮れしていたのは土城だったのである。つまり、これらを「中世城郭」と呼ぶ。だから、国取り物語当時の城は、土の城だったといえる。

わたしたちは、城といえば石垣や天守閣があるものと思ってきたが、このような城は織豊時代(安土桃山時代)から江戸時代にかけて造られたもので、これらは「近世城郭」と呼ばれている。但馬には約220の城跡や砦跡があるようだが、石垣のあるのは竹田城、出石城、有子山城、八木城くらいのようである。

 

2.中世の生き証人が城
中世には、純粋な武力集団である武士はいなかった。実態は、武士兼農民兵だった。今でいう区長さんクラスの地侍の下に、農民兵がいざと言う時には集結したようだ。だから、戦争は農閑期にした。戦いの原因は、主として猟場の争い、山の境界争いなどで、これらが、荘園対荘園、村対村の争いになった。お互いに掠奪し合うのが通常で、負ければ奴隷に落ちるので、自治、つまり自分たちのことは自分で守るしかなかった。そこで生まれたのが城である。城は、自分たちの生命、財産を守るための避難場所でもあった訳だ。だから、農民は城の普請や修理も当然の事として従事した。

わたしたちは、近世の権威の象徴のような、いかめしく石で固められて聳え立つ城しか知らず、その城はまさしく民百姓を収奪する元凶のように思っていたが、中世の土城の多くは、農民たちの生存権を守る拠点そのものだったことを知り、目から鱗が落ちた思いがした。

もっとも、戦場に駆りだされる農民兵の実態は、全てが精鋭と言う訳には行かず、往々にして頭が弱く、農家の労力にあまり役立たない者があてられたという記録もあるそうだ。今でも通用する発想で、思わず笑えてしまった。西尾さんは、これを「三年寝太郎」のようなと分かりやすく表現された。なお、なぜ平城でなく山城なのか。それは、守るに守り易く、攻めるに攻めにくいのが山城だそうだ。鶴城の急峻な掘り切りを見ると、確かによじ登ることは至難の業に思えるし、仮によじ登っても上から槍で突かれ、石を投げられたらひとたまりもないだろうことを実感した。

3.鶴城と備後衆山城の歴史背景

(ア)鶴城
豊岡市船町と山本に位置する愛宕山(標高115m)に立地している。永享年間(1429~41)以後に但馬守護山名持豊が築き、その被官田結庄氏が居城したといわれている。天正3年(1575)山名氏の被官の間の争いで、田結庄是義(織田党)と垣屋豊続(毛利党)が対立、世にいう野田合戦(毛利と織田の代理戦争)で、田結庄氏は敗れ、以後垣屋氏の支配下に入った。その後、羽柴秀長の但馬進攻によって、廃城となったものと思われる。

(イ)備後衆山城
豊岡市日撫の丘陵(標高20~50m)に立地している。約500m北方の鶴城の支城として位置づけられたものといわれている。山名氏は、備後(今の広島県)守護も兼ねていたところから、備後国の被官山内家に知行を与えたので、山内氏がこの山城を守備したものと推定され、備後衆山城と呼ばれる。鶴城が垣屋氏の支配下に入った後は、この備後衆山城も同じ運命を辿ったのだろう。

4.鶴城跡、備後衆山城跡のみどころ

 

* 縄張りの特徴:連郭式山城 曲輪・堀切・折れを持つ土塁・外枡形虎口・ 縦堀・畝状竪堀
  畝状竪堀の遺構は、天正3年以降垣屋豊続の改修によるもの
* 正福寺跡:田結庄氏の菩提寺
* 戦国城下町:「殿屋敷」(田結庄氏居館)を中心とした鶴城下町
    「殿屋敷」・「一日市」(市場)・「馬場」・「八坂神社」・ 「船町」(船着場)・「厳島神社」
    「貴船神社」・鋳物師集団の職人町=六地蔵・森・日撫
* 宝城寺と愛宕神社
    愛宕神社=元和5年(1619)杉原氏(豊岡城主が勧請)
    宝城寺(真言宗・勝利山)=元和5年~明治4年(1871)別当寺

<この項、西尾さんの資料原文のまま転記>

 

5.春雨に濡れて見学

* この日に限って全国的な雨となった。全員雨具を持参しており、西尾さん も経験則から登山可能と判断され、実地踏査を決行した。浜野さんが大きな 尻餅をついたが、全員怪我はなかった。
* 約半日間の見聞で、山の見方が変わった。もしかしたら、近くの名もない 山にも城跡があるかもしれない。勿論、我々には新たな城の発見だったにし ても、西尾さんのデータにはとっくに入力されているとは思うが。
* 地元(田鶴野地区)の公民館長さん方が会員外だが参加してくださった。 愛宕山に城跡があるということは知っていても、いざ具体的にどこがどうだ という知識が全くなかったので、いい機会をいただいたと感謝されていた。
* 近くに山本窯跡の発掘が進められており、更に田結庄氏の居館跡といわれ ている「殿屋敷」の発掘調査もやがて始まるとの事で、鶴城跡周辺は、いま 500年のタイムスリップをしているようである。
* 昼食と集合場所にした「香林会館」は、備後衆山城の一角にある。忠臣蔵 の大石蔵之助夫人りくの祖父(石束源五兵衛毎術)が開基した正福寺ともい う。りくの遺髪塚がある。正福寺はもともとは田結庄氏の菩提寺で、鶴城の 一角にあったが、落城で廃絶していたのを豊岡藩主京極高住候がこれを惜し み、同名の正福寺の名を賜ったとされている。このお寺の檀家は河本家一軒 である。初代豊岡城主「宮部善祥房継潤」が天正9年(1581)町内五町に地 子税を免除する安堵状を下したが、そのときの安堵状が今では唯一河本家に 伝わっている。
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2007年2月例会 「宿場街から継がれた生業」
開催月日 2月24日(土)
開催市町 : 養父市
テーマ   : 「宿場街から継がれた生業」
講 師   : 「生ゆば製造」  松田甚兵衛商店 松田正司さん
         「醤油醸造」   中野醸造(有)  中野利洋さん
場 所   : 松田甚兵衛商店、中野醸造(有)
参加者  :  島垣、能登、中田、峠、粂井、浜野、戸田、小川、友田
         細見、谷岡、衣川、成田、西躰、宮元(会員外)
担 当   : 島垣、中田(記録)

今月のテーマは「ゆばとお醤油」。それぞれの製造元を訪ねてまわる。場所は兵庫県養父市である。いつのように、正午に集合してまずみんなで昼食をとる。今回は、ある食堂に持ち込みをさせていただいて、これから見学する製造元の生ゆばを同じく見学させていただくところのお醤油でいただく。美味しい!見学が楽しみだ。

 

まずは、ゆばを製造されている「ゆば甚」さんを訪問する。正式名は、松田甚兵衛商店。主に京都の市場に出荷されているこだわりのゆば製造元である。最近はインターネットの販売も伸びているそうだ。

 

工場内でゆばの製造工程をお聞きする。原料の大豆は、国産とアメリカ産とカナダ産をブレンドしている。遺伝子組換えの大豆は使用しない。当然のことながら、合成保存料はいっさい使用しない。松田商店の一番のこだわりは「水」。この地で湧く井戸水を使う。これだけは、他の地では得られないこだわりに違いない。

続いて、車で5分もかからない場所にある「中野醸造」さんにおジャマする。創業は1899(明治32)年。「マルナカ醤油」の商号で親しまれる。

100年以上前に建てられた土蔵のなかで、仕込みが行なわれている。2年間、1年間、半年前、と熟成時間が仕切りごとに違い、時間の経過とともに色が濃くなってくる。

大豆は北海道産、小麦は播州(兵庫県)、食塩は赤穂(兵庫県)と地元の素材にこだわる。1年掛けて熟成させたもろみを布で包んでしぼる。年季が入った絞り機をまえに説明を受ける。

 

「生ゆばと醤油」。以前は、全国各地にあったが、最近は少数になってきている。これからは、老舗で素材と製法にこだわり、家族を中心とした家業としてやっていらっしゃるところが、製造を続けいかれるのだろうと、確信した例会であった。
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