2006,05,30, Tuesday
開催月日 : 5月27日(土)
開催市町 : 香美町
テーマ : 「水と農がつくる山村の暮らし風景 ~うへ山の棚田 ─ 日本の棚田百選」
講 師 : 田村哲夫さん(貫田区役員・香美町小代地域局農業担当)
場 所 : 美方郡香美町小代区貫田 うへ山棚田・吉滝キャンプ場管理棟
参加者 : 島垣、衣川、木村、谷岡、友田、中田、中安、成田、西躰
能登、浜野、藤原博、守山
担 当 : 友田、藤原博、守山(記録)
■棚田百選のうへ山棚田
小代の谷は国道9号から矢田川に沿って国道482号が走る。小代中学校を過ぎたあたりで右側に上ってじきに貫田の集落がある。正面に瀞川山系を望む東向きの傾斜地に民家がかたまっている。ヘアピンのカーブから集落を過ぎ山中をどんどん上る。途中猿の群に出会った。さらに上ると林間から、右側に田んぼが突然開ける。うへ山棚田である。
うへ山棚田は約40枚、平均勾配1/5、面積3.1haを7軒の農家で耕す。休耕田はほとんどなく、よく管理されている。棚田を取り囲む自然環境もよく、背景の山並みと調和した景観が美しいことで平成11年に農林水産省から「日本の棚田百選」として認定された。海抜500メートル。
但馬では、同じく香美町村岡区和佐父の「和佐父・西ヶ丘」も棚田百選に認定されている。
■湧き水
うへ山棚田の水は、棚田の最上部に位置する湧き水を使っている。日量千トンの水が湧く。昔は湧き水があると、一鍬でも面積を広げたいと田んぼを開いた。でも今は「一鍬でも作りたくない」という風潮だ。
現在はここの湧き水のほか、上の高原に引いている吉滝からの水のオーバーフローもパイプで引いている。ここの水は、うへ山棚田からさらに下の田んぼにも使って、合わせて15haを潤している。棚田の管理は水の管理と言っても言い過ぎではない。水源や田の水量、水路や田の水漏れ、畦の点検など、農民は田んぼと水に向き合っている。
4月下旬に総出で水路掃除をする(「いで」掃除)のを合図に、水の取り口から近い田んぼから順に水を入れる。自分の都合で我田に引水をすることは許されないことである。うへ山の棚田の全体に水が行き渡るのは2日ぐらいかかった。上の田んぼの水がいっぱいになったら下の田んぼに流れる。「あてこし水」という。「なかいで」「おおいで」など湧き水からの水路にはそれぞれ名前がついている。
しかしどうしても水が冷たいので収量は平地の7割ほどとのこと。水源にもっとも近いいちばん上の2枚は作っていない。野生化したわさびが生えていた。水を貯めて少しでも水温を上げたのかもしれない。また水路から水を取り入れたあたり(水口)の稲は実がつかない。このため田のなかに小さい畦をつくって、水を迂回させている田が多い。
これも水温を上げるための知恵だ。
■うへ山棚田の米づくり
みんなの協力がないと田植えは出来なかったので、かつては人々は互いに田植えや稲刈りを手伝い、互いに「手間返し」をした。棚田は農業共同体の中で守られてきた。
今ゴールデンウィークの後に田植えをするのは、都会に出ている若者が帰ってきて田植えをしてくれるからである。早い時期の田植えは水も冷たく米に実が出来ないためぎりぎりの選択である。昔は6月に田植えをしていた。今は軽トラがあるが、昔は弁当を持って村から歩いてうへ山棚田に稲を作りにきた。
小屋があって弁当を食べ昼寝をした。できた米は背負って下りた。
自分の田んぼの周辺は他人の山でもかってに切ってもよいことになっている。日当たりをよくするための暗黙の了解だった。
米作りは水の管理がいちばん大事。田村さんは「よその田んぼの水管理はむずかしい。ひとの田んぼを作ってみてよくわかる」という。水が抜けやすい箇所などよその田んぼのくせがわかりにくいからだろう。
現在うへ山棚田の作っている人の平均年齢は68歳。田んぼを維持する問題点は高齢化である。でも「田んぼを荒らすのは罪悪」という気持ちをみんな持っている。
■「ぬけ田」
貫田(ぬきた)は「ぬけ田」が起源ではないかとのこと。山がぬけたところに田んぼをつくったということかもしれない。貫田地区は地下水が多く、10数カ所で水抜きの工事をした。「流れた山を棚田にしているので、棚田に水が溜まって村にどっと来ない。棚田が荒れたら村が、町が荒れる」。うへ山棚田から下に続く「流れ尾」の地名の田んぼもある。
■オーナー制度のこと
貫田地区は農業体験・自然体験など都市との交流が盛んで、民宿も何軒かある。うへ山棚田もかつてはオーナー制度を設けていた。しかし米つくりには自分のパターンがあり、ひとに合わせることの煩わしさがある。また高齢化が進んだ。このため今は受け入れていない。
■但馬牛のこと
小代は熱田蔓牛(雌)、中土井(雄・種牛)と但馬牛の名牛の里。子どものころは学校に行くまでに歩いて放牧地に連れていき、学校から帰ると連れ帰るのが日課だった。
どの家も家の中で家族といっしょに暮らすのが当たり前だった。牛で田んぼを耕した。敷きわら・牛糞は乾かして肥料にした。今、貫田で牛を飼っているのは2戸だけになった。
■出稼ぎ
冬期の酒屋への出稼ぎで小代は栄えてきた。農閑期の出稼ぎの現金収入は生活に大きな潤いを与えていたが、杜氏の仕事が機械化され、労働力を必要としない傾向にある。
■高原
うへ山棚田からさらに上ると高原に出る。ここに吉滝キャンプ場がある。高原はかつては雑木林だったが、国のパイロット事業の補助金で開拓し、大根を作った。しかし連作障害がでて放牧地にした。
高原の窪地に「しまち」と呼ぶため池があり、田んぼが周囲に作られている。ため池よりも上の田は、山の尾根の反対側の吉滝から水を引いて作っている。ここの田の水は佐坊の集落へ流れ、棚田が矢田川までずっと続いている。
■雑感
農地は作物の衣を着てはじめて美しい。過疎・高齢化の農村問題はいろいろあるが、純粋な農業生産で生活が出来るようにならないものか。都会のひとに迎合して右往左往すると農村はだめになる。
相互扶助の農村共同体は、棚田を守り、水を守るためには不可欠の組織であったことをうかがった。美しい棚田を育んでいる人々の魂を忘れないようにしたいものだ。
今自分たちの命の故郷でなにが起きているのか。私たちは何をしないといけないのか。大きな課題を感じながら棚田を後にした。帰路は貫田から佐坊集落を抜けた。雨の後の棚田の美しさが心に残る。
開催市町 : 香美町
テーマ : 「水と農がつくる山村の暮らし風景 ~うへ山の棚田 ─ 日本の棚田百選」
講 師 : 田村哲夫さん(貫田区役員・香美町小代地域局農業担当)
場 所 : 美方郡香美町小代区貫田 うへ山棚田・吉滝キャンプ場管理棟
参加者 : 島垣、衣川、木村、谷岡、友田、中田、中安、成田、西躰
能登、浜野、藤原博、守山
担 当 : 友田、藤原博、守山(記録)
■棚田百選のうへ山棚田
小代の谷は国道9号から矢田川に沿って国道482号が走る。小代中学校を過ぎたあたりで右側に上ってじきに貫田の集落がある。正面に瀞川山系を望む東向きの傾斜地に民家がかたまっている。ヘアピンのカーブから集落を過ぎ山中をどんどん上る。途中猿の群に出会った。さらに上ると林間から、右側に田んぼが突然開ける。うへ山棚田である。
うへ山棚田は約40枚、平均勾配1/5、面積3.1haを7軒の農家で耕す。休耕田はほとんどなく、よく管理されている。棚田を取り囲む自然環境もよく、背景の山並みと調和した景観が美しいことで平成11年に農林水産省から「日本の棚田百選」として認定された。海抜500メートル。
但馬では、同じく香美町村岡区和佐父の「和佐父・西ヶ丘」も棚田百選に認定されている。
■湧き水
うへ山棚田の水は、棚田の最上部に位置する湧き水を使っている。日量千トンの水が湧く。昔は湧き水があると、一鍬でも面積を広げたいと田んぼを開いた。でも今は「一鍬でも作りたくない」という風潮だ。
現在はここの湧き水のほか、上の高原に引いている吉滝からの水のオーバーフローもパイプで引いている。ここの水は、うへ山棚田からさらに下の田んぼにも使って、合わせて15haを潤している。棚田の管理は水の管理と言っても言い過ぎではない。水源や田の水量、水路や田の水漏れ、畦の点検など、農民は田んぼと水に向き合っている。
4月下旬に総出で水路掃除をする(「いで」掃除)のを合図に、水の取り口から近い田んぼから順に水を入れる。自分の都合で我田に引水をすることは許されないことである。うへ山の棚田の全体に水が行き渡るのは2日ぐらいかかった。上の田んぼの水がいっぱいになったら下の田んぼに流れる。「あてこし水」という。「なかいで」「おおいで」など湧き水からの水路にはそれぞれ名前がついている。
しかしどうしても水が冷たいので収量は平地の7割ほどとのこと。水源にもっとも近いいちばん上の2枚は作っていない。野生化したわさびが生えていた。水を貯めて少しでも水温を上げたのかもしれない。また水路から水を取り入れたあたり(水口)の稲は実がつかない。このため田のなかに小さい畦をつくって、水を迂回させている田が多い。
これも水温を上げるための知恵だ。
■うへ山棚田の米づくり
みんなの協力がないと田植えは出来なかったので、かつては人々は互いに田植えや稲刈りを手伝い、互いに「手間返し」をした。棚田は農業共同体の中で守られてきた。
今ゴールデンウィークの後に田植えをするのは、都会に出ている若者が帰ってきて田植えをしてくれるからである。早い時期の田植えは水も冷たく米に実が出来ないためぎりぎりの選択である。昔は6月に田植えをしていた。今は軽トラがあるが、昔は弁当を持って村から歩いてうへ山棚田に稲を作りにきた。
小屋があって弁当を食べ昼寝をした。できた米は背負って下りた。
自分の田んぼの周辺は他人の山でもかってに切ってもよいことになっている。日当たりをよくするための暗黙の了解だった。
米作りは水の管理がいちばん大事。田村さんは「よその田んぼの水管理はむずかしい。ひとの田んぼを作ってみてよくわかる」という。水が抜けやすい箇所などよその田んぼのくせがわかりにくいからだろう。
現在うへ山棚田の作っている人の平均年齢は68歳。田んぼを維持する問題点は高齢化である。でも「田んぼを荒らすのは罪悪」という気持ちをみんな持っている。
■「ぬけ田」
貫田(ぬきた)は「ぬけ田」が起源ではないかとのこと。山がぬけたところに田んぼをつくったということかもしれない。貫田地区は地下水が多く、10数カ所で水抜きの工事をした。「流れた山を棚田にしているので、棚田に水が溜まって村にどっと来ない。棚田が荒れたら村が、町が荒れる」。うへ山棚田から下に続く「流れ尾」の地名の田んぼもある。
■オーナー制度のこと
貫田地区は農業体験・自然体験など都市との交流が盛んで、民宿も何軒かある。うへ山棚田もかつてはオーナー制度を設けていた。しかし米つくりには自分のパターンがあり、ひとに合わせることの煩わしさがある。また高齢化が進んだ。このため今は受け入れていない。
■但馬牛のこと
小代は熱田蔓牛(雌)、中土井(雄・種牛)と但馬牛の名牛の里。子どものころは学校に行くまでに歩いて放牧地に連れていき、学校から帰ると連れ帰るのが日課だった。
どの家も家の中で家族といっしょに暮らすのが当たり前だった。牛で田んぼを耕した。敷きわら・牛糞は乾かして肥料にした。今、貫田で牛を飼っているのは2戸だけになった。
■出稼ぎ
冬期の酒屋への出稼ぎで小代は栄えてきた。農閑期の出稼ぎの現金収入は生活に大きな潤いを与えていたが、杜氏の仕事が機械化され、労働力を必要としない傾向にある。
■高原
うへ山棚田からさらに上ると高原に出る。ここに吉滝キャンプ場がある。高原はかつては雑木林だったが、国のパイロット事業の補助金で開拓し、大根を作った。しかし連作障害がでて放牧地にした。
高原の窪地に「しまち」と呼ぶため池があり、田んぼが周囲に作られている。ため池よりも上の田は、山の尾根の反対側の吉滝から水を引いて作っている。ここの田の水は佐坊の集落へ流れ、棚田が矢田川までずっと続いている。
■雑感
農地は作物の衣を着てはじめて美しい。過疎・高齢化の農村問題はいろいろあるが、純粋な農業生産で生活が出来るようにならないものか。都会のひとに迎合して右往左往すると農村はだめになる。
相互扶助の農村共同体は、棚田を守り、水を守るためには不可欠の組織であったことをうかがった。美しい棚田を育んでいる人々の魂を忘れないようにしたいものだ。
今自分たちの命の故郷でなにが起きているのか。私たちは何をしないといけないのか。大きな課題を感じながら棚田を後にした。帰路は貫田から佐坊集落を抜けた。雨の後の棚田の美しさが心に残る。
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2006,02,28, Tuesday
開催月日 : 2月25日(土)
開催市町 : 養父市大屋町
テーマ : 「山郷の水利 ─ 大屋川に育まれた生活文化」
講 師 : 小畑 佐夫氏さん
場 所 : (現地見学)大屋町栗の下・大屋町筏
(お話) 農村公園「翡翠」
参加者 : 島垣、友田、浜野、中嶋、中尾、能登、衣川、戸田、粂井
木村、高石、中田、峠、成田、細見、太田、西躰
担 当 : 島垣
暮らしの中の水といえば、私たちの多くは蛇口から流れる水を思い浮かべる。でもそれは、水道が普及してからのことだ。では少し昔までどうだったのか、その面影を探して大屋川上流の集落を歩いた。栗の下集落では、地元の区長を務める小畑佐夫さんに案内していただいた。
■栗の下編 若杉川・横行川合流の地の利を生かす
兵庫県一高い山、氷ノ山を源にして流れる横行川、そして、藤無山を源にして流れる若杉川、両方の川の交わる所に、栗の下集落がある。
集落は、川面から5メートルほど高い位置にあるために、集落内を縦横無尽に流れる水路は、それぞれの川の上流500メートルくらいに、井堰を設けて流入されている。
水路を豊富な水が流れる。各戸の水辺には「かわと」「かわいと」があり洗い物などに現在も利用されている。池の水も引く。また防火用水として生活の安全を守る。
かつて水路は、日々の生活に欠かせなかった。早朝、まず水路の水を汲んで飲料水を水甕に蓄える、そして、顔を洗う、歯を磨く、うがいをする。使用した水は下流には流さない。食事の用意では、米を研ぐ、研ぎ汁は池または畑の野菜や庭の植木に利用する。野菜ものを洗う。里芋の皮むきには水車(芋水車。六角形の箱に芯棒を通した物)が利用される。洗濯から、何を洗うにも利用されていた。もちろん、風呂水は川の水を汲んで沸かしていた。
池には、鯉や、ヤマメなどがいて、鍋やお櫃など漬けて置くと、綺麗に食べてくれる。
冬には、雪の捨て場所として利用されて、夏は打ち水をし、下流域の田畑を潤す。
こんな田舎の原風景が色濃く存在している地区、栗の下。
養豚、養鶏が盛んになって水が汚れ、困った時期もあったが、そのころには簡易水道が出来ていたので飲料水としては問題がなかった。その後上下水道が完備され、水路の水を日々の暮らしで利用することは少なくなった。若い人は水離れ。ひねるとすぐ出る水とお湯。年老いた人は「もったない、節約、節約」。今も続く月に2回の川掃除には、1戸から必ず一人以上の参加があると聞く。
この地区に、屋号が「清水屋」と呼ばれている家があり、裏山から清水が池に引かれている。その下の家は最近まで豆腐屋を営み、おいしいと評判の豆腐と揚げが売られていた。きっと水が良かったからだろう。
集落を縫ってたっぷりの水が流れる水路、しぶき、水音、悠然と泳ぐ鯉。本流にも何箇所か川いとが残る。いつまでもこのままの風景であってほしいと思ったのは、私だけではないだろう。
■筏編 雪との闘い「融雪設備」
村中を流れていた用水路を、道路幅を広げるために暗渠にすることになった。しかし、冬期の積雪が多く、その上日当たりも悪いので、排雪は必要不可欠であった。そこで考えたのが「暗渠排水融雪設備」である。10メートルくらいに1箇所、蓋(グレーチング)を設けてそこに雪を捨てて流す。それだけでは雪は水を含んで塊になり水路をふさいでしまう。そのためこの水路にはもう一つ工夫が凝らされている。水路の両サイドに、ステンレス製の穴明き板が取り付けられている。水路の壁とステンレスとの10センチの隙間を何の抵抗もなく流れる水によって雪は融けて流れていく。
地域の人たちは、近くで同時刻に排雪ができる上、高齢者でも楽に作業が可能となった。なかには、雪を運ぶ台車にも工夫を凝らす人もいる。たくさん積みこめ、滑りやすく、また水路蓋の幅(50センチ)に合わせて作られている。
開催市町 : 養父市大屋町
テーマ : 「山郷の水利 ─ 大屋川に育まれた生活文化」
講 師 : 小畑 佐夫氏さん
場 所 : (現地見学)大屋町栗の下・大屋町筏
(お話) 農村公園「翡翠」
参加者 : 島垣、友田、浜野、中嶋、中尾、能登、衣川、戸田、粂井
木村、高石、中田、峠、成田、細見、太田、西躰
担 当 : 島垣
暮らしの中の水といえば、私たちの多くは蛇口から流れる水を思い浮かべる。でもそれは、水道が普及してからのことだ。では少し昔までどうだったのか、その面影を探して大屋川上流の集落を歩いた。栗の下集落では、地元の区長を務める小畑佐夫さんに案内していただいた。
■栗の下編 若杉川・横行川合流の地の利を生かす
兵庫県一高い山、氷ノ山を源にして流れる横行川、そして、藤無山を源にして流れる若杉川、両方の川の交わる所に、栗の下集落がある。
集落は、川面から5メートルほど高い位置にあるために、集落内を縦横無尽に流れる水路は、それぞれの川の上流500メートルくらいに、井堰を設けて流入されている。
水路を豊富な水が流れる。各戸の水辺には「かわと」「かわいと」があり洗い物などに現在も利用されている。池の水も引く。また防火用水として生活の安全を守る。
かつて水路は、日々の生活に欠かせなかった。早朝、まず水路の水を汲んで飲料水を水甕に蓄える、そして、顔を洗う、歯を磨く、うがいをする。使用した水は下流には流さない。食事の用意では、米を研ぐ、研ぎ汁は池または畑の野菜や庭の植木に利用する。野菜ものを洗う。里芋の皮むきには水車(芋水車。六角形の箱に芯棒を通した物)が利用される。洗濯から、何を洗うにも利用されていた。もちろん、風呂水は川の水を汲んで沸かしていた。
池には、鯉や、ヤマメなどがいて、鍋やお櫃など漬けて置くと、綺麗に食べてくれる。
冬には、雪の捨て場所として利用されて、夏は打ち水をし、下流域の田畑を潤す。
こんな田舎の原風景が色濃く存在している地区、栗の下。
養豚、養鶏が盛んになって水が汚れ、困った時期もあったが、そのころには簡易水道が出来ていたので飲料水としては問題がなかった。その後上下水道が完備され、水路の水を日々の暮らしで利用することは少なくなった。若い人は水離れ。ひねるとすぐ出る水とお湯。年老いた人は「もったない、節約、節約」。今も続く月に2回の川掃除には、1戸から必ず一人以上の参加があると聞く。
この地区に、屋号が「清水屋」と呼ばれている家があり、裏山から清水が池に引かれている。その下の家は最近まで豆腐屋を営み、おいしいと評判の豆腐と揚げが売られていた。きっと水が良かったからだろう。
集落を縫ってたっぷりの水が流れる水路、しぶき、水音、悠然と泳ぐ鯉。本流にも何箇所か川いとが残る。いつまでもこのままの風景であってほしいと思ったのは、私だけではないだろう。
■筏編 雪との闘い「融雪設備」
村中を流れていた用水路を、道路幅を広げるために暗渠にすることになった。しかし、冬期の積雪が多く、その上日当たりも悪いので、排雪は必要不可欠であった。そこで考えたのが「暗渠排水融雪設備」である。10メートルくらいに1箇所、蓋(グレーチング)を設けてそこに雪を捨てて流す。それだけでは雪は水を含んで塊になり水路をふさいでしまう。そのためこの水路にはもう一つ工夫が凝らされている。水路の両サイドに、ステンレス製の穴明き板が取り付けられている。水路の壁とステンレスとの10センチの隙間を何の抵抗もなく流れる水によって雪は融けて流れていく。
地域の人たちは、近くで同時刻に排雪ができる上、高齢者でも楽に作業が可能となった。なかには、雪を運ぶ台車にも工夫を凝らす人もいる。たくさん積みこめ、滑りやすく、また水路蓋の幅(50センチ)に合わせて作られている。
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2006,01,30, Monday
開催月日 : 1月28日(土)
開催市町 : 朝来市和田山町
テーマ : 「但馬禿山考 ─ 里山・灌漑用水の管理と秩序」
講 師 : 宿南 保氏 (朝来市史編纂室室長)
場 所 : 竹田コミュニティセンター(JR竹田駅前)
参加者 : 島垣・中田・峠・能登・中嶋・友田・衣川・粂井・守山・太田
細見・西躰・小川・木村 谷下・谷岡・木村(会員外)
担 当 : 戸田、小川、木村
但馬の山は昔、禿山だった??
こんな話が飛び出したのは、昨年の12月例会。「昔の人は豊かな自然と共生していたとか思われがちだけど、実際には禿山だらけだったんでしょうね」…三田市にある「県立 人と自然の博物館」で案内役の三橋さんがつぶやかれた言葉に一同あっけにとられた。たしかに昔は薪の需要も多かったはずで、そのために木が伐られてたというのもうなずける。しかし、どの程度の「禿」だったのか。昔って、いつごろ?但馬一円の話?疑問はどんどん膨らんだ。そこで今回は、但馬全域の史実に詳しい宿南先生から、江戸時代の人々がどのように山や水を利用してきたか、お話を伺うことになった。
「赤山」、すなわち「禿山」
結論からいうと、江戸時代の山には禿山が多かった。山には個人の持ち山と共有山(入会山)があるが、禿山が多かったのは共有山の方である。明治十年代に設立された勧業会でも、暴風雨の際、赤山が崩れて谷川を埋めて困ると問題になっていた記録が残っている。赤山というのは、土がむき出しになった山、すなわち禿山である。
昔は焚き木の需要が多かったが、持ち山のない大多数の人は共有山に入って焚き木を取る。しかし、意外なことに、焚き木よりも「草」の方が切実だったそうだ。農家の人は山の草を刈り、積み上げて堆肥を作っていた(肥草)。したがって、草の生える面積が減るようなもの(行李柳など)の栽培を禁止した入会山もあったという。入会山の面積は個人所有の山よりもはるかに広かったが、もちろんすべてが禿山になったわけではなく、自然にまかせた山もあった。
出石の場合
出石に多かった武士とその家族は城山を利用した。一般の町の人は、藩に米一斗二升をおさめて柴札(鑑札)を入手して、指定された入会山へ入っていた。
焚き木は江戸時代では重要な商品であり、出石へは、糸井や朝日、奥山などから売りに来ていた。円山川を下る舟の積荷も米に次いで焚き木が多かった。近代になっても需要は膨らみ続け、いくつもの村が入った袴狭(はかざ)の山(白糸の滝の谷一帯)などはなかなか木が育たず、赤土がむき出しになった禿山状態であったという。
禿山がなくなった時期については、化学肥料が生産されるようになり、肥草が必要なくなった頃からではないかと、宿南さんは推測する。燃料が石油に代わったのは戦後なので、焚き木の需要は第二次世界大戦ごろまであったという。
村落共同体の意識を育てた山と水
江戸時代の農村共同体を支えていたのは、山と水であった。特に、水(灌漑用水)は分割することができず、谷川や用水路の近くに住む人で共有するしかない。井堰の管理、用水路の維持、水の管理が村落共同体としての意識を育てていた。
諏訪神社の湧水の場合
和田山町竹田の諏訪神社。この神社の湧水を巡っては、竹田と、隣接する加都(かつ)の間で争いが繰り広げられた。
元々は、北側の加都の農民が水田を作るのに湧水を利用していた。ところが、文化年間に拝殿改築工事に伴って流れを南側に移したため、畑を作っていた竹田の農民が水田を作り出し、加都で水が不足しがちになる。近隣の庄屋たちの仲裁により、いったんは加都の「先占めの権利」が認められたが、しばらくすると竹田も使い出し、争いが再燃。結局、竹田に出ている水を竹田の者が使うことを差し止めることはできないとされ、竹田側に所有権があると認められた。ただ、代償として加都の庄屋に小作料を収めるという合意がなされた。
このように、先占めの権利(既得権)が認められることもあるが、水の出てきたところの村が所有者であるとするのが、最も筋が通ると考えられた。
大川(円山川)の利用
円山川などの大川に井堰を作る技術は、江戸時代から始まった。川にくいを打ち、石をはめて水を堰き止めた。
[和田山町竹田の絹屋溝] ─ 竹田の町なかを流れる「絹屋溝」および「絹屋井堰」は文政10年(1827年)に作られ、防火用水と水車に利用された。しかし、以前からあった加都の井堰の上流に井堰を作ろうとしたため、加都が大反対。近隣の庄屋の仲裁の結果、水量から考えると、加都にそれほど不利益にならないと判断された。加都の水不足(特に田植えごろ)を防ぐため、田植えから1か月間は竹田の用水路に水を上げないことを条件に、円満に解決された(例外的)。
[八鹿町伊佐の例] ─ 八鹿駅裏側には上小田の井堰、またその200mほど下流に伊佐の井堰がある。この伊佐の井堰は但馬で最も早く建設された井堰で、右岸の坂本からトンネルを通って伊佐に水を運んでいる。井堰、トンネルの建設後、伊佐には大きな水田が開け、村が出来た。
その後、上小田の井堰がそれより上流に出来ている。これは通常であれば許されないことだが、実は、上小田の井堰を作った人は、伊佐の新田地主の家から上小田に養子に入った人だったため、伊佐が協力したようである。その代わりなのかどうなのか、上小田の田んぼは、近隣地区の田植えが終わるまで、田植えをしない。この慣習は今でも続いているそうだ。
地主同士の姻戚関係があったこのケースも例外的で、一般的には、水取りの権利の問題はなかなか難しい問題だった。
円山川の主な大洪水の記録
[慶長11年(1606年)6月27日の大洪水] ─ 八鹿町高柳の大庄屋、福田ソウエモンが屋根の上に上がったまま家ごと流されたという記録が残っている。
また、八鹿町米里のお当(おとう)渡しが、慶長11年から10年ほど中断している(文書に記録がない)。お当渡しは、辰巳の方向(南東:冬至の太陽が昇る方角)に鎮座する五穀豊穣の神様を地主明神として祀るもので、11月の巳の日(冬至の後の巳の日)に執り行う。民俗行事では、このように方位の干支と日暦の干支を一致させて行うことが多い。
当時祀っていたのは、中世の財産家仲間。大洪水のため10年ほど中断した後、村中の人が祀るようになったと考えられる。
[貞享3年(1686年)7月25日の大洪水] ─ 大屋の玉見の神社が流され、八鹿の寄宮(よのみや)に流れ着いた。これが、寄宮の地名の由来になった。
講師の宿南保さんは、八鹿町史、養父町史などの編纂に携わってこられた、江戸時代を中心とした但馬の近世史の第一人者。
禿山や水の話だけでなく、お当渡しや、養父神社のお走り祭の初期の頃に見られた方位信仰など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。
開催市町 : 朝来市和田山町
テーマ : 「但馬禿山考 ─ 里山・灌漑用水の管理と秩序」
講 師 : 宿南 保氏 (朝来市史編纂室室長)
場 所 : 竹田コミュニティセンター(JR竹田駅前)
参加者 : 島垣・中田・峠・能登・中嶋・友田・衣川・粂井・守山・太田
細見・西躰・小川・木村 谷下・谷岡・木村(会員外)
担 当 : 戸田、小川、木村
但馬の山は昔、禿山だった??
こんな話が飛び出したのは、昨年の12月例会。「昔の人は豊かな自然と共生していたとか思われがちだけど、実際には禿山だらけだったんでしょうね」…三田市にある「県立 人と自然の博物館」で案内役の三橋さんがつぶやかれた言葉に一同あっけにとられた。たしかに昔は薪の需要も多かったはずで、そのために木が伐られてたというのもうなずける。しかし、どの程度の「禿」だったのか。昔って、いつごろ?但馬一円の話?疑問はどんどん膨らんだ。そこで今回は、但馬全域の史実に詳しい宿南先生から、江戸時代の人々がどのように山や水を利用してきたか、お話を伺うことになった。
「赤山」、すなわち「禿山」
結論からいうと、江戸時代の山には禿山が多かった。山には個人の持ち山と共有山(入会山)があるが、禿山が多かったのは共有山の方である。明治十年代に設立された勧業会でも、暴風雨の際、赤山が崩れて谷川を埋めて困ると問題になっていた記録が残っている。赤山というのは、土がむき出しになった山、すなわち禿山である。
昔は焚き木の需要が多かったが、持ち山のない大多数の人は共有山に入って焚き木を取る。しかし、意外なことに、焚き木よりも「草」の方が切実だったそうだ。農家の人は山の草を刈り、積み上げて堆肥を作っていた(肥草)。したがって、草の生える面積が減るようなもの(行李柳など)の栽培を禁止した入会山もあったという。入会山の面積は個人所有の山よりもはるかに広かったが、もちろんすべてが禿山になったわけではなく、自然にまかせた山もあった。
出石の場合
出石に多かった武士とその家族は城山を利用した。一般の町の人は、藩に米一斗二升をおさめて柴札(鑑札)を入手して、指定された入会山へ入っていた。
焚き木は江戸時代では重要な商品であり、出石へは、糸井や朝日、奥山などから売りに来ていた。円山川を下る舟の積荷も米に次いで焚き木が多かった。近代になっても需要は膨らみ続け、いくつもの村が入った袴狭(はかざ)の山(白糸の滝の谷一帯)などはなかなか木が育たず、赤土がむき出しになった禿山状態であったという。
禿山がなくなった時期については、化学肥料が生産されるようになり、肥草が必要なくなった頃からではないかと、宿南さんは推測する。燃料が石油に代わったのは戦後なので、焚き木の需要は第二次世界大戦ごろまであったという。
村落共同体の意識を育てた山と水
江戸時代の農村共同体を支えていたのは、山と水であった。特に、水(灌漑用水)は分割することができず、谷川や用水路の近くに住む人で共有するしかない。井堰の管理、用水路の維持、水の管理が村落共同体としての意識を育てていた。
諏訪神社の湧水の場合
和田山町竹田の諏訪神社。この神社の湧水を巡っては、竹田と、隣接する加都(かつ)の間で争いが繰り広げられた。
元々は、北側の加都の農民が水田を作るのに湧水を利用していた。ところが、文化年間に拝殿改築工事に伴って流れを南側に移したため、畑を作っていた竹田の農民が水田を作り出し、加都で水が不足しがちになる。近隣の庄屋たちの仲裁により、いったんは加都の「先占めの権利」が認められたが、しばらくすると竹田も使い出し、争いが再燃。結局、竹田に出ている水を竹田の者が使うことを差し止めることはできないとされ、竹田側に所有権があると認められた。ただ、代償として加都の庄屋に小作料を収めるという合意がなされた。
このように、先占めの権利(既得権)が認められることもあるが、水の出てきたところの村が所有者であるとするのが、最も筋が通ると考えられた。
大川(円山川)の利用
円山川などの大川に井堰を作る技術は、江戸時代から始まった。川にくいを打ち、石をはめて水を堰き止めた。
[和田山町竹田の絹屋溝] ─ 竹田の町なかを流れる「絹屋溝」および「絹屋井堰」は文政10年(1827年)に作られ、防火用水と水車に利用された。しかし、以前からあった加都の井堰の上流に井堰を作ろうとしたため、加都が大反対。近隣の庄屋の仲裁の結果、水量から考えると、加都にそれほど不利益にならないと判断された。加都の水不足(特に田植えごろ)を防ぐため、田植えから1か月間は竹田の用水路に水を上げないことを条件に、円満に解決された(例外的)。
[八鹿町伊佐の例] ─ 八鹿駅裏側には上小田の井堰、またその200mほど下流に伊佐の井堰がある。この伊佐の井堰は但馬で最も早く建設された井堰で、右岸の坂本からトンネルを通って伊佐に水を運んでいる。井堰、トンネルの建設後、伊佐には大きな水田が開け、村が出来た。
その後、上小田の井堰がそれより上流に出来ている。これは通常であれば許されないことだが、実は、上小田の井堰を作った人は、伊佐の新田地主の家から上小田に養子に入った人だったため、伊佐が協力したようである。その代わりなのかどうなのか、上小田の田んぼは、近隣地区の田植えが終わるまで、田植えをしない。この慣習は今でも続いているそうだ。
地主同士の姻戚関係があったこのケースも例外的で、一般的には、水取りの権利の問題はなかなか難しい問題だった。
円山川の主な大洪水の記録
[慶長11年(1606年)6月27日の大洪水] ─ 八鹿町高柳の大庄屋、福田ソウエモンが屋根の上に上がったまま家ごと流されたという記録が残っている。
また、八鹿町米里のお当(おとう)渡しが、慶長11年から10年ほど中断している(文書に記録がない)。お当渡しは、辰巳の方向(南東:冬至の太陽が昇る方角)に鎮座する五穀豊穣の神様を地主明神として祀るもので、11月の巳の日(冬至の後の巳の日)に執り行う。民俗行事では、このように方位の干支と日暦の干支を一致させて行うことが多い。
当時祀っていたのは、中世の財産家仲間。大洪水のため10年ほど中断した後、村中の人が祀るようになったと考えられる。
[貞享3年(1686年)7月25日の大洪水] ─ 大屋の玉見の神社が流され、八鹿の寄宮(よのみや)に流れ着いた。これが、寄宮の地名の由来になった。
講師の宿南保さんは、八鹿町史、養父町史などの編纂に携わってこられた、江戸時代を中心とした但馬の近世史の第一人者。
禿山や水の話だけでなく、お当渡しや、養父神社のお走り祭の初期の頃に見られた方位信仰など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。
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2005,12,21, Wednesday
開催市町 : 三田市
テーマ : 「兵庫の自然・風土と地球環境を学ぶ」
講 師 : 三橋弘宗さん(主任研究員、兵庫県立大学講師)
参加者 :
担 当 : 中田
今回は丹波に遠征しました。兵庫県立「人と自然の博物館」を見学し、研究員の三橋弘宗さんより館内の案内と研究テーマのお話等をお聞きした。この博物館は身近な自然と風土と地球規模での自然と環境、このふたつのテーマを扱っている。但馬学と言うローカルな活動・研究を地球・環境という大きな視野で考えてみる必要があるのではないかと考え、今回の例会の運びとなった。
三橋さんは、流域生態研究グループの主任研究員である。私たちと水の関わりを、生き物やヒトの生活、文化、歴史などの視点から語っていただく。これからの活動テーマのヒントとして「湧水」「流域の牧草地と遊水地の関係」「砂防ダムとヨシの群生、ホタルの数の関係」など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。
第2部は、丹波篠山に移動し、鍋囲炉裏を囲みながらボタン鍋の忘年会である。今日の三橋さんのお話を思い起こしながら、今年の活動を振り返ったり、来年へ向けて何をするのか、を話し合った。最後にみんなから、今日学んだこと、印象に残ったこと、重要と思ったこと、などを「キーワード」として順番に発表した。
「禿げ山」、「自然科学の視点」、「全体を観る〜砂防→砂地→ヨシ→ホタル」、「5人家族が使用する1週間の水の量」、「発想の転換〜崖崩れは緑を育む」、「熊の出没〜緑が民家近くまで迫ってきた」、「森は万能ではない」、「寒の水」、「森の香りが大切」、「山里の知恵」
5時半から始めた食事も気がつけば9時を回っている。
テーマ : 「兵庫の自然・風土と地球環境を学ぶ」
講 師 : 三橋弘宗さん(主任研究員、兵庫県立大学講師)
参加者 :
担 当 : 中田
今回は丹波に遠征しました。兵庫県立「人と自然の博物館」を見学し、研究員の三橋弘宗さんより館内の案内と研究テーマのお話等をお聞きした。この博物館は身近な自然と風土と地球規模での自然と環境、このふたつのテーマを扱っている。但馬学と言うローカルな活動・研究を地球・環境という大きな視野で考えてみる必要があるのではないかと考え、今回の例会の運びとなった。
三橋さんは、流域生態研究グループの主任研究員である。私たちと水の関わりを、生き物やヒトの生活、文化、歴史などの視点から語っていただく。これからの活動テーマのヒントとして「湧水」「流域の牧草地と遊水地の関係」「砂防ダムとヨシの群生、ホタルの数の関係」など、興味深いお話をたくさん聞かせていただいた。
第2部は、丹波篠山に移動し、鍋囲炉裏を囲みながらボタン鍋の忘年会である。今日の三橋さんのお話を思い起こしながら、今年の活動を振り返ったり、来年へ向けて何をするのか、を話し合った。最後にみんなから、今日学んだこと、印象に残ったこと、重要と思ったこと、などを「キーワード」として順番に発表した。
「禿げ山」、「自然科学の視点」、「全体を観る〜砂防→砂地→ヨシ→ホタル」、「5人家族が使用する1週間の水の量」、「発想の転換〜崖崩れは緑を育む」、「熊の出没〜緑が民家近くまで迫ってきた」、「森は万能ではない」、「寒の水」、「森の香りが大切」、「山里の知恵」
5時半から始めた食事も気がつけば9時を回っている。
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2005,11,29, Tuesday
開催月日 : 11月26日(土)
開催市町 : 養父市大屋町
テーマ : 「森と水 ─ 山の恵みと、木々の嘆き」
講 師 : 田村 準之助さん (元 森林組合、森と緑の公社、県民局勤務)
場 所 : 養父市大屋地域局
参加者 : 衣川、能登、中田、中島、成田、西体、浜野、戸田、峠、
高石、太田、木村、粂井、島垣、向井(一般)
担 当 : 島垣、戸田、小川、友田(記録)
2005年11月、養父市大屋町の大屋地域局で「森と水」をテーマに例会がもたれた。講師は森林組合に37年間勤めた大屋町の田村準之助さん。まず養父市大屋地域局の屋上に上がり、東にそびえる大屋富士と呼ばれている雄大な山を見ながら、林相を紹介していただいた。
頂上付近の濃い緑は県有林でヒノキが植林されている。下は地元の大屋市場区有林や私有林となっている。正面は下まで針葉樹の植林で埋まっている。私有林には雑木(ざつき)が残っている。右のなるい(なだらかな)あたりは昔は畑があったが、今は山に戻っている。左のほうに昔からのヒノキ林を伐ったあとがあり、植林をしなかったら、最初は雑木が生え、やがて松が生えてきた。
田村さんは、「大屋富士を見て今日の話の参考にしてほしい。『大屋のジョージョー、有名ジョー』と言われるようです」と、大屋弁が混じるのを照れながら話を続ける。
■山林の変遷
戦前から船の材料などに木材の供出(軍事用などか)が始まり、戦後は燃料用に木炭を大量に焼いて出した。戦争で家屋が焼失し、木を乱伐した。木材価格が高騰し、木がどんどん伐られた。このため、昭和26年ごろから失業対策で造林をするようになった。
しかし乱伐は進み、山が裸になっていくと、台風が来るたびに災害が起きるようになった。昭和30年代になって、「全山緑化」の国のかけ声でスギ・ヒノキ・マツを植える本格的な造林事業が始まる。
国土保全・災害対策と建築用材確保にねらいがあったようだ。針葉樹は一時的な保水力がある。夕立はだいたい3回ほど強い雨が降って止み、これを「三降り」と言った。山仕事に行って夕立に遭い、針葉樹の下に逃げると三降りでも濡れなかったが、広葉樹の下だと一降りでずぶ濡れになったと田村さんは体験から言う。葉に蓄えられる保水力は針葉樹のほうが上ということである。
苗木代は賄えるだけの補助金が出た。また「官行造林」と言って、区の共有山を国のお金で植林し、50年後に伐採したとき、所有形態によって率が変わるが国に4割、区に6割といった内容の造林事業が進んだ。区(ムラ)の負担はなくいい話だった。昔は「一財産できる」「左うちわで暮らせる」とムラは考えた。県や町も面積は少なくなるが同じような制度を作った。
こうして、人工造林が一気に進み、広葉樹が伐られて山は裾から頂上まで針葉樹に変わっていった。ピークの昭和38年ごろは、1年に300ヘクタールを大屋町域で植林している。旧大屋町の面積は1万4,000ヘクタール、そのうち1万2,600ヘクタール(90%)が山であり、現在、山の面積のうち 7000ヘクタールを人工林が占めている。
しかし、伐採の適期となった今、木材価格が低迷し、伐っても引きあわない。
■山の恵み
山は尾根があって谷があってせせらぎがあって、父に叱られたとき、職場で叱られたとき、どんなときも毎日毎日山へ行って田村さんは癒される。「春の緑になりきらない広葉樹林はとてもきれい。落葉した広葉樹を見ると雪を待つ」「国土の8割が山。雨の8割は山に降る。水の話は山の話。山を守ることは水を守ること」と、山を愛し、山を歩く。山は人もけものも養う。
山は水の供給源である。頂上はからからだが、少し下るとわずかな窪みが出てくる。土を掻いてやると湿っぽい。谷の上からの入り口で、峪(さこ)と山で働く人々は言う。さらに少し下ると土が光る。指を刺すとポツポツ水滴が出てくる。もう少し下って指を刺すとチョロチョロ水が出てくる。山の水源はこの峪と湧き水がある。
田村さんが大屋の大杉地区の関宮との尾根を歩いたとき、ズブズブとふんごんだ。「あんた。そこに入ったらあかんで」と村の人が叫び、「腰まで浸かって出られなくなる」と言われた。また加保のミズバショウも尾根の湿地だ。天滝の上の杉が沢高原にも、大根を作るまでは湿地があった。氷ノ山(田村さんは「ひょうのやま」と呼ぶ)も頂上近くに古生沼がある。これらはいずれも尾根上だが、氷ノ山から続く水脈が湧いていると言う。地元の人はこれを「尾水(おみず)」と呼んでいる。
■木々の嘆き
山の上にはマツ、その下にヒノキ、その下にスギを植える。マツは頂上や尾根などが適し赤土など痩せた土地で育つ。真っ直ぐ伸びた直根が下りるので、幹が強く倒れにくく山の保全に優れている。
峪中(さこなか)はスギがよい。スギは肥沃な土地を好む。ヒノキやマツは峪中では枯れる。ケヤキも肥沃な土地がよい。大きな根を張るので岩があっても育つ。頂上には松(赤土)、直根が下りるので上の部分が強い。広葉樹のコナラやクヌギは根がとても太い。幹を伐ってもまた芽が出て幹が育つ。
山仕事する人は、ここに何を植えるのがよいか分かっている。しかし、大がかりな造林が進み、苗木がどんどん来る。どこに植えるか考えることがおろそかになってしまい、適地適木が崩れた。
森林組合職員として造林事業に携わる田村さんは山をよく知り、全山緑化には疑問をもってきた。「人間社会は男女半々で保ててきた。山も人工林は天然林と半々までだ。悲しいかな大屋は人工林が半分をかなり超えている。但馬では8割いっている町もある」。
森林作業員の通年雇用制度が生まれたが、但馬は雪のため冬の仕事がない。このため人手が足らない県南部に冬は出かけることにした。南は痩せた土地が多い。せき悪林改良事業で「スギは無理でもヒノキなら育つだろう。肥料木を一緒に植えなさい」と向こうで指導を受けた。向こうに適したマツの植林もした。マツの苗は直根が切ってある。切った直根をもう出てこない。植えてもやがて倒れるものが多い。でも植林したマツの種が落ちて実生が出てくる。今はその天然更新のマツが育っている。
向こうの技術者と相談して、前に生えていた樹種を交ぜて植えることができるようになり、ヤマモモやウバメガシなども植林するようになった。さらに林相改良事業として、広葉樹の植林事業もするようになった。三木市にある兵庫県立三木山森林公園では、平成16年台風23号の被害写真が展示されている。森林の荒廃が氾濫の原因になったことを訴える写真だ。
■山が危ない――台風23号と風倒木
平成16年台風23号で養父市大屋地域はとりわけ規模の大きな風倒木被害を蒙った。原因を田村さんは次のようにみる。 豪雨が降ったうえに、強い風で枝葉に貯まった水が落ちた。樋の水が流れるような大量の水が幹を伝う。風が強くても太い木は幹の途中で折れずに、木が大きく揺れて根が切れていき、やがて根から倒れる。根が起きた穴に水がどんどん入り、土砂が崩れ、林が、山が崩れていった。太いスギ林に被害が多かったのはこんな仕組みだ。 峪から谷へ、そして川へ、植林をしたスギもろとも土砂が流れ出した。下流の橋脚には流れてきた倒木が大量にひっかかって流れをふさぎ、水があふれた。浸水した田畑や住宅に倒木が大量に流れ着いた。 田村さんの家の周りでも、全山緑化した山から大量の水が出てきて、家が危なかったようだ。風倒木被害があったのは、たいていスギの人工林だ。間伐など山の手入れができていない。 「人の手で植え育てたものは、しっかり根付くように守ってやらなければいけない。山を放置していると、自然災害になすすべがない。災害の根本は山だ」と強調する。但馬でも里山保全や広葉樹植林の動きが広がってきた。「でも今度は、広葉樹がいいからといって全山ケヤキなんてしないでください」
開催市町 : 養父市大屋町
テーマ : 「森と水 ─ 山の恵みと、木々の嘆き」
講 師 : 田村 準之助さん (元 森林組合、森と緑の公社、県民局勤務)
場 所 : 養父市大屋地域局
参加者 : 衣川、能登、中田、中島、成田、西体、浜野、戸田、峠、
高石、太田、木村、粂井、島垣、向井(一般)
担 当 : 島垣、戸田、小川、友田(記録)
2005年11月、養父市大屋町の大屋地域局で「森と水」をテーマに例会がもたれた。講師は森林組合に37年間勤めた大屋町の田村準之助さん。まず養父市大屋地域局の屋上に上がり、東にそびえる大屋富士と呼ばれている雄大な山を見ながら、林相を紹介していただいた。
頂上付近の濃い緑は県有林でヒノキが植林されている。下は地元の大屋市場区有林や私有林となっている。正面は下まで針葉樹の植林で埋まっている。私有林には雑木(ざつき)が残っている。右のなるい(なだらかな)あたりは昔は畑があったが、今は山に戻っている。左のほうに昔からのヒノキ林を伐ったあとがあり、植林をしなかったら、最初は雑木が生え、やがて松が生えてきた。
田村さんは、「大屋富士を見て今日の話の参考にしてほしい。『大屋のジョージョー、有名ジョー』と言われるようです」と、大屋弁が混じるのを照れながら話を続ける。
■山林の変遷
戦前から船の材料などに木材の供出(軍事用などか)が始まり、戦後は燃料用に木炭を大量に焼いて出した。戦争で家屋が焼失し、木を乱伐した。木材価格が高騰し、木がどんどん伐られた。このため、昭和26年ごろから失業対策で造林をするようになった。
しかし乱伐は進み、山が裸になっていくと、台風が来るたびに災害が起きるようになった。昭和30年代になって、「全山緑化」の国のかけ声でスギ・ヒノキ・マツを植える本格的な造林事業が始まる。
国土保全・災害対策と建築用材確保にねらいがあったようだ。針葉樹は一時的な保水力がある。夕立はだいたい3回ほど強い雨が降って止み、これを「三降り」と言った。山仕事に行って夕立に遭い、針葉樹の下に逃げると三降りでも濡れなかったが、広葉樹の下だと一降りでずぶ濡れになったと田村さんは体験から言う。葉に蓄えられる保水力は針葉樹のほうが上ということである。
苗木代は賄えるだけの補助金が出た。また「官行造林」と言って、区の共有山を国のお金で植林し、50年後に伐採したとき、所有形態によって率が変わるが国に4割、区に6割といった内容の造林事業が進んだ。区(ムラ)の負担はなくいい話だった。昔は「一財産できる」「左うちわで暮らせる」とムラは考えた。県や町も面積は少なくなるが同じような制度を作った。
こうして、人工造林が一気に進み、広葉樹が伐られて山は裾から頂上まで針葉樹に変わっていった。ピークの昭和38年ごろは、1年に300ヘクタールを大屋町域で植林している。旧大屋町の面積は1万4,000ヘクタール、そのうち1万2,600ヘクタール(90%)が山であり、現在、山の面積のうち 7000ヘクタールを人工林が占めている。
しかし、伐採の適期となった今、木材価格が低迷し、伐っても引きあわない。
■山の恵み
山は尾根があって谷があってせせらぎがあって、父に叱られたとき、職場で叱られたとき、どんなときも毎日毎日山へ行って田村さんは癒される。「春の緑になりきらない広葉樹林はとてもきれい。落葉した広葉樹を見ると雪を待つ」「国土の8割が山。雨の8割は山に降る。水の話は山の話。山を守ることは水を守ること」と、山を愛し、山を歩く。山は人もけものも養う。
山は水の供給源である。頂上はからからだが、少し下るとわずかな窪みが出てくる。土を掻いてやると湿っぽい。谷の上からの入り口で、峪(さこ)と山で働く人々は言う。さらに少し下ると土が光る。指を刺すとポツポツ水滴が出てくる。もう少し下って指を刺すとチョロチョロ水が出てくる。山の水源はこの峪と湧き水がある。
田村さんが大屋の大杉地区の関宮との尾根を歩いたとき、ズブズブとふんごんだ。「あんた。そこに入ったらあかんで」と村の人が叫び、「腰まで浸かって出られなくなる」と言われた。また加保のミズバショウも尾根の湿地だ。天滝の上の杉が沢高原にも、大根を作るまでは湿地があった。氷ノ山(田村さんは「ひょうのやま」と呼ぶ)も頂上近くに古生沼がある。これらはいずれも尾根上だが、氷ノ山から続く水脈が湧いていると言う。地元の人はこれを「尾水(おみず)」と呼んでいる。
■木々の嘆き
山の上にはマツ、その下にヒノキ、その下にスギを植える。マツは頂上や尾根などが適し赤土など痩せた土地で育つ。真っ直ぐ伸びた直根が下りるので、幹が強く倒れにくく山の保全に優れている。
峪中(さこなか)はスギがよい。スギは肥沃な土地を好む。ヒノキやマツは峪中では枯れる。ケヤキも肥沃な土地がよい。大きな根を張るので岩があっても育つ。頂上には松(赤土)、直根が下りるので上の部分が強い。広葉樹のコナラやクヌギは根がとても太い。幹を伐ってもまた芽が出て幹が育つ。
山仕事する人は、ここに何を植えるのがよいか分かっている。しかし、大がかりな造林が進み、苗木がどんどん来る。どこに植えるか考えることがおろそかになってしまい、適地適木が崩れた。
森林組合職員として造林事業に携わる田村さんは山をよく知り、全山緑化には疑問をもってきた。「人間社会は男女半々で保ててきた。山も人工林は天然林と半々までだ。悲しいかな大屋は人工林が半分をかなり超えている。但馬では8割いっている町もある」。
森林作業員の通年雇用制度が生まれたが、但馬は雪のため冬の仕事がない。このため人手が足らない県南部に冬は出かけることにした。南は痩せた土地が多い。せき悪林改良事業で「スギは無理でもヒノキなら育つだろう。肥料木を一緒に植えなさい」と向こうで指導を受けた。向こうに適したマツの植林もした。マツの苗は直根が切ってある。切った直根をもう出てこない。植えてもやがて倒れるものが多い。でも植林したマツの種が落ちて実生が出てくる。今はその天然更新のマツが育っている。
向こうの技術者と相談して、前に生えていた樹種を交ぜて植えることができるようになり、ヤマモモやウバメガシなども植林するようになった。さらに林相改良事業として、広葉樹の植林事業もするようになった。三木市にある兵庫県立三木山森林公園では、平成16年台風23号の被害写真が展示されている。森林の荒廃が氾濫の原因になったことを訴える写真だ。
■山が危ない――台風23号と風倒木
平成16年台風23号で養父市大屋地域はとりわけ規模の大きな風倒木被害を蒙った。原因を田村さんは次のようにみる。 豪雨が降ったうえに、強い風で枝葉に貯まった水が落ちた。樋の水が流れるような大量の水が幹を伝う。風が強くても太い木は幹の途中で折れずに、木が大きく揺れて根が切れていき、やがて根から倒れる。根が起きた穴に水がどんどん入り、土砂が崩れ、林が、山が崩れていった。太いスギ林に被害が多かったのはこんな仕組みだ。 峪から谷へ、そして川へ、植林をしたスギもろとも土砂が流れ出した。下流の橋脚には流れてきた倒木が大量にひっかかって流れをふさぎ、水があふれた。浸水した田畑や住宅に倒木が大量に流れ着いた。 田村さんの家の周りでも、全山緑化した山から大量の水が出てきて、家が危なかったようだ。風倒木被害があったのは、たいていスギの人工林だ。間伐など山の手入れができていない。 「人の手で植え育てたものは、しっかり根付くように守ってやらなければいけない。山を放置していると、自然災害になすすべがない。災害の根本は山だ」と強調する。但馬でも里山保全や広葉樹植林の動きが広がってきた。「でも今度は、広葉樹がいいからといって全山ケヤキなんてしないでください」
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