2008年10月例会 「山里の恵み」~川ガニを食べる

開催月日   10月25日(土)
開催市町   豊岡市竹野町
テーマ   「山里の恵み」~川ガニを食べる
講 師    井上貞義さん (ドライブイン山里 経営)
場 所    ドライブイン山里
参加者    岩本(か)、岩本(め)、峠、宮本、飯尾、高石、谷岡、木村
       中嶋、椿野、成田、島垣、宮元、太田、久保、中田、福井
       西躰、戸田、小川 藤原(ひ) (21名)
       (会員外 2名)
担 当    中田、久保



竹野町南地区(兵庫県豊岡市)の山里の食材を使ったお料理をいただきながら、その漁や生活の様子を伺った。今日の講師は、その名も「ドライブイン山里」を経営されている井上貞義さんとその漁の仲間の方。



お店に入ると、いきなりこれ!川ガニがずらーっと並んでいる。この辺りの秋の味覚である川ガニをいただきながら、と井上さんにお願いをしたら、なんとこんなに。これ全部、井上さんがお店のすぐ横を流れている竹野川で獲ってきてもの。今年は数が少ないと聞いていたのに。井上さんのお心遣いにまずは感謝である。



これが「川ガニ」。地域によっては「ズガニ」「モクズガニ」などと呼ぶ。体長20〜25cmの立派な川ガニ。「川ガニ釜飯」が炊ける前に、まずこの湯がいた川ガニをいただく。



さてボチボチ「川ガニ釜飯」が炊けてきた。ご飯の上には、川ガニ1匹がまるまる一緒に炊けている。蓋をあけると、川ガニの香ばしい匂いがプーンと漂う。



「川ガニ釜飯」の食べ方にはちょっとしたコツがある。のっかっている川ガニを一旦、そとのお皿に取り出し、殻から中身を丁寧に取り出して再びご飯の上にのっけていく。川ガニのミソは、風味があって、そんじょそこらのカニミソとはワケが違う。



本日の講師であり、川ガニを獲る漁師であり、「ドライブイン山里」の料理人である井上貞義さんである。

出身は、このお店のある竹野町森本からさらに上流にある小さな集落・川南谷(かなんだに)。平家の落人の村との言い伝えもある最上流のドン着きの集落。現在は5軒しかなく、限界集落の一つになっている。かつて自給自足の生活であった。焼き畑をやりながら、ソバの栽培もしたそうだ。

この「ドライブイン山里」の名物は蕎麦。そば粉と自然薯(じねんじょ)で練った井上さんのこだわりの逸品。ここのお蕎麦は本当に美味しい。また、地元の栃の木から採取した栃の実入りの「栃餅ぜんざい」も美味しい。

すべて、お話をお聞きした井上さんの手に掛かった川ガニ、お蕎麦、栃餅ぜんざいのフルコースをいただいた。何とも身も心もとろけるような例会であった。

山里の恵みを、ぜひ「ドライブイン山里」で味わってみてください。

【報告者 中田孝一】

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2008年4月例会 「但馬の食文化を考える」~栄養士から見た食と健康~

開催月日   4月26日(土)
開催市町   豊岡市竹野
テーマ   「但馬の食文化を考える」~栄養士から見た食と健康~
講 師    田中香代子さん(地域活動管理栄養士)
場 所    竹野町須野谷「すのたに屋」
参加者    中田、峠、小川、戸田、能登、浜野、成田、谷岡、岩本か
       岩本め、久保、藤原次、西躰、太田、椿野、島垣、高石(17名)
       (会員外1名)
担 当    島垣、住吉、高石

講師の田中香代子さんは、豊岡病院の栄養士として昭和40年から38年間勤められた。定年退職後は、農業や地産地消などへの関心、保田茂先生の「食と環境」についての学習などを通して、病院時代の病気の治療・予防の取り組みとしての臨床栄養から、健康に大切な食生活を考えるようになったとのこと。
現在は、自宅で料理教室を開催したり母親を対象とした「食育」の取り組みを行ったりして、地域で栄養士として活動されている。

 

1. 医療現場で感じた食習慣の変化
病院勤めの時代を振り返ると、昭和40年当時は米の配給制度(米穀手帳)がまだ残っており、1食1合が常識であり米飯主体の食生活が普通であった。しかし、今では米飯は1日1合となってしまった。平均して大人1人あたり1日の活動に2000キロカロリー必要であるが、米1合=500キロカロリーとして、米3合の時代は米飯で1500キロカロリー、その他のおかずで500キロカロリーを摂っていたことになる。

現在、厚生労働省は穀類でカロリーの6割を摂取することを推奨しているが、いまは米離れでご飯が少なくおかずが多い食事になっている。食料自給率が40%を切ってしまっている今、米飯を見直さなければならない。

2.味噌汁を使った減塩指導の誤り
高血圧や脳卒中予防のため減塩指導を盛んにおこなった時代があり、味噌汁を持参してもらってその塩分濃度を測定してきた(減塩運動が盛んになったのは1970年代の後半からです)。その中で味噌汁が良くない、ととらえられてしまったことは大いに反省している。煮干や味噌の蛋白質、野菜や豆腐などを入れて身近で手軽な栄養食を遠ざける結果になってしまった。病院でもパン食の拡大、肉とマヨネーズ、ハムやソーセージの普及とともに味噌汁が減ってきた。昭和45年頃からマヨネーズが市販されたが、マヨネーズは15グラム=100キロカロリー。肉とマヨネーズ・ドレッシングをやめることでダイエットは出来る。

3.若者の食習慣、子育ての不安
子どもたちの食生活調査をしたら、箸がいらない食事が増え、パンも食パンでなく調理パンになり、家族はいても一人で食べる「個食」「孤食」が増えている。体重80キロで脂肪肝の小学6年生や栄養失調で入院してきた1歳半の子どもの食事を調べたら、パン、牛乳とジュース、ラーメン、たこ焼きなどを食べさせていることが分かって愕然としたことがあった。まな板がない家、家が汚れるからと魚を焼かない家が増えている。60歳台の女性でも魚の3枚おろしが出来ない人がいる。

家庭でどんな食事・料理をしているかが問題であり、「食育」は、繰り返しながら家庭で一緒に暮らし、米を炊いて食べ続けること、そのような食事の作り方を教えていかないと出来ない。

4.朝食は家庭における食育のチャンス、ご飯と味噌汁こそ和食の原点
世界的人口増加、化石燃料の不足によるバイオ燃料の拡大などにより、小麦など穀物中心に食糧価格が高騰しており、輸入に依存しているわが国の食糧は危機的な状況にある。     おなじ小麦でも、日本の小麦は中力粉でうどんに向くが、パンの小麦は薄力粉である。米粉のパンを作ろうという動きがあるが、ご飯と味噌汁を主体にした和食を見直し、とくに朝食にこだわりたい。離乳食も米と味噌汁で充分出来る。

 

5.学校給食の影響
学校給食が味覚を変えてしまったのではないか。ある雑誌の記事「学校給食ワースト3」にラーメン、ヤキソバ、パンが挙がっていたが、日本人が本来持っていた味覚を壊している気がする。行儀や作法を含めた食文化の破壊が進んでいると感じ、寂しくなる。

6.伝えたい食文化
もともとの土地で採れた旬のものを食べることを習慣にすることが大切であり、地元でとれるものでまかなっていくことでバランスのとれた食生活になる。主食をご飯にするとおかずが豊かになり、味噌汁が合う食事になる。食材を無駄なく調理する技術の伝承が必要であり、それが食糧危機に対する啓蒙と自給率アップにつながる。

7.流通の問題
食品アレルギーのもとは、加工食品の中に入っている抗酸化剤や防腐剤などに多くの原因がある。遠隔地から食糧を搬送して消費していることが問題である。スーパーでも地物を売っていない。もっと地元のものが手に入りやすいシステム、場作りが必要である。卸売市場にも地元産の物が少ないが、消費者が求めるものは販路に入ってくるので消費者が変わらなければだめである。

 安いからという理由で、例えば中国から大量の野菜類が輸入されているが、農薬の問題だけでなく輸送にかかるエネルギー問題が大きいし、生産地である中国の土地はやせていき多量に消費される日本の土地は富栄養化となる。生産する技術の担い手(農家)も育たなくなる。農協の役割が大切である。






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2008年1月例会 「北海道浦河町絵笛を開いた但馬人たち」

開催月日   2008年1月26日(土)
開催市町   豊岡市
テーマ   「北海道浦河町絵笛を開いた但馬人たち」
講 師    中奥 薫さん(豊岡市役所職員)山本晃司さん(移住者の但馬の縁故者)
場 所    豊岡市立図書館
参加者    岩本名、小川、衣川、木村、高石、谷岡、峠、戸田、友田、成田、西躰
       能登、守山、久保(14名)
       会員外5名(飯尾、宮本、城田、岸田、池田)
担 当    友田、峠(記録)、上田、中安

■ねらい
 北海道浦河町絵笛地区は、いまから120年ほど前の明治年間に但馬各地から開拓移住した人たちが切り開いた地である。既に移住者たちは3~4代目に移っている。但馬学研究会としても、いつか彼の地を表敬訪問し、先人の苦労を偲び、発展の姿を称えたいと思う。今回の例会は、その予備知識を得ることを目的とする。

■講師
中奥 薫さん ─ 豊岡市役所職員。今から15年前、市広報担当当時、関係者とともに絵笛を訪問された。
山本晃司さん ─ 北海道移住者の但馬の縁故者。豊岡市在住。関係者とともに絵笛を訪問された。

 

■内容

1. この例会を開いた動機と北海道開拓史のあらまし(メンバー:峠 宗男)

* 自分の住む村の家々の裏山に、苔むした、手入れされない墓地を見ることがある。お盆前だけ直接関係のなさそうな人が掃除に見えるので、この墓とどんな関係かと聞くと、よく分からないが北海道に行かれた家の墓と聞いているとのこと。その当主が亡くなると、もうその墓は顧みられなくなった。
* 行政マンで市民課長当時、市役所に北海道からルーツ探しにこられた人があり、偶然だが、自分の住む村の出身者だったことが分かり驚いた記憶がある。
* 北海道開拓移住から約120年、おそらく彼我ともに風化が進んでいるだろう。いつの日か、この但馬学研究会として、我々の先人たちが切り開いた北海道浦河町絵笛の地を表敬訪問したく思い、この例会を思いついた次第である。

2. H5浦河町答礼の旅の思い出(豊岡市役所職員:中奥 薫さん)

* 豊岡市広報(平成3年12月号:北海道へ移民 望郷の念100年 先祖たずねる巡歴の旅 但馬へ 平成5年9月号:但馬から北海道開拓の地 浦河町絵笛へ答礼の旅)のコピーをもとに、市広報を担当されていた当時に体験された但馬人と浦河町とのかかわりを話していただいた。なお、その広報は氏が執筆されたものである。
* 年譜
明治20(1887) 但馬人 北海道絵笛に入植 (豊岡市史では詳細は不明とある)
昭和53(1978) 絵笛より川越清夫氏、豊岡市河谷の本家川越匠氏を訪問
関係者の本家探し始まる
昭和57(1982) 絵笛開基百年
平成3.10(1991) 「絵笛但馬会」一行9人、来但、それぞれの本家訪問
平成5.7 (1993) 本家但馬人14人 絵笛を訪問
平成20(2008) 明治20年の北海道入植より約120年経過
* 絵笛但馬会一行の本家訪問に同道した。それまでは、せいぜい手紙の交換か、全く音信不通の関係だったが、本家訪問が叶い、北海道移住のいわくが刻まれた墓石に向かって慟哭されるシーンに感動した。本家が逼塞していないか、突然の訪問で迷惑がられないかなどと、不安な気持ちで来られただろうが、多くの皆さんは感動的な対面をされた。
* こちらからも、絵笛を答礼訪問した。浦河町農協幹部、浦河町長と幹部、絵笛の人たちと懇親会をした。絵笛には「但馬神社」も祭られていた。ご先祖の入植時の苦労を見聞きされた年代、世代としてはもう終わりだろう。3代、4代ともなると遠い過去のことだ。明治20 年、今から120年前とは、石川啄木が生まれたのが明治19年、前田純孝が生まれたのが明治13年だ。和船で津居山から渡ったとあるから、北前船だったのだろうか。着いた所が絵笛川、川沿いは密林だったとは今の絵笛からは想像できない。
* 答礼の旅で歓迎していただいた方とは今も交流をしている。当時の町長谷川弘一郎さんはまだ現職、役場の企画課長太田正克さんは今収入役さんで、今回浦河町の資料などを送っていただいた。しかし亡くなられた方も多い。世代は変わりつつある。
* 日本史は細かいことは書かない。自分史として尊い歴史を見つけていくことは大事なことだ。今絵笛で豊岡、但馬を意識する人は少ないだろう。それでも、浦河町絵笛の基礎を創った人は但馬人である。

 

3. 移住者の但馬の縁故者の思い(豊岡市在住:山本晃司さん)
「豊岡の山本と絵笛の斉藤との縁について」と題したとても分かりやすい系図をもとに興味深いお話が聞けた。これから話すことは、祖母からそれとなく聞かされたのをなんとなく覚えていたことであるとの前置きがあった。

祖母かつは城崎の実家が北海道移住した明治26年頃一緒に移住したが、1年で帰ってきた。その頃は、もう大木を倒すことはなかったが、山仕事、畑仕事は絶え間なかった。津居山からは、「ばいせん」に乗って行ったといっていた。2回絵笛に行っているのだが、2回目は神戸から汽船に乗って行ったようだ。絵笛に行ったのは、「口減らし」のため。昆布、家事など仕事仕事の生活。20歳の時、近くの静内に嫁入りしたが、流産し、離婚。城崎に帰ってきて、山本弥蔵(晃司の祖父)に嫁いだ。

平成3年、川越匠さんが来宅、「絵笛に親戚があるか。向うから9人分の縁故者名簿の調べの依頼があった。」とのこと。そこで調査が始まったが、断りもあった。その結果、今まで年賀はがきのみの交流が、初めてあさぎり荘で対面できた。

対面の過程では、親や先祖から何も聞いていないこちらの縁故者では感動が薄く、儀礼的な対応のケースもあった。

私(山本)の縁故者斉藤 英さんが亡くなり、今は4代目になっている。競馬の飼育に忙しくなり、4代目とは全く交流はない。今まで送られてきた昆布も鮭も途絶えた。

昔の話を聞いたか、聞かないかで語り継ぎが出来るか、途絶えるかになる。関心があるか、ないかでも違う。今、自分の息子に話すと「ああそう」ぐらいでそっけない。

絵笛を訪問した時、印象に残ったことは、豊岡では「江谷 えだに」なのに絵笛では「江谷 ごうや」と呼び方が違っていたこと。理由は、豊岡を逃げて出てきたような状態なので、豊岡に迷惑にならないように無関係を装うために違う名乗りをしているとのこと。移住のさまざまな背景が見えるようだ。

120年間、世代交代が続き、開拓移住史は風化してきている。今後、北海道絵笛を訪問する機会があっても、迷惑になろうから、多分もう行けないだろう。

 

■フリートーク
(高石)絵笛は但馬人が開いた。北海道には他にもこんな例があるのか。

(峠)明治初年の北海道の人口は58,000人。今は570万人。開拓移住者で人口が増えた。東北、北陸からの移住が多いようだ。福祉先進市といわれる伊達市は伊達氏が開拓移住したのだろう。

(中奥)Tさん、血縁があってないような中で、仏壇を拝み、墓で移住のいきさつが刻まれた墓石を抱きかかえて泣いておられた光景には感動した。

(守山)時代の経過はいろんなものを消してゆく。

(山本)英さんはおばあさんの話をしている中で、但馬弁の「おっとろっしゃ」が話題になり、英さんは泣き出された。ことばも移住している。

(中奥)川越清夫さんは成功者で、この大地は先祖が開いてきたという気持ちがある。内地とは全く違う感覚がある。

(岸田)集落の生い立ちがはっきり証明されていることは貴重だ。

(峠)ふるさととは何か。ふるさとは遠くにありて思うものという詩があるが、豊岡市の振興計画のキャッチフレーズはコウノトリ悠然と舞うふるさとという。豊岡に住む者としては、ここでふるさとを使うのにはいささか違和感がある。

(守山)豊岡から離れた人へのフレーズだろう。

(飯尾)家を新築した際、叔母は古い前の家なら行くがと、新築の家には来なかった。大事な自分のふるさとは古い家だったのだと思う。

■その他の覚書

* メイン講師に予定していた川越匠氏が体調不良で欠席された。但馬の縁故者名簿整理に東奔西走された苦労話が聞けなかったのが残念だった。
* 浦河町の銘菓を取り寄せ、コーヒータイムに味わった。
* 食シリーズ番外編の例会ではあったが、昼食は豊岡の駅弁にした。案外地元の駅弁を食べることは少ないのではとの発想である。
* この例会は、「こころ豊かな美しい但馬推進会議」の補助対象事業として実施した。

【報告者 峠 宗男】

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2007年12月例会・忘年会 「こだわりの農業に取り組む」
講師:橋本幹夫さん(はし本農園主人)

食事:「手作り豆腐料理のおもてなし」谷 敏夫さん(谷常製菓社長)

日時:平成19年12月8日(土)
場所:養父市稲津 「四季旬彩」
参加者:峠、中安、宮元、成田、能登、谷岡、友田、木村、島垣、高石、会員外 1名
担当:幹事会(報告:高石)

■講師の橋本幹夫さんは、30年勤めたJAを52歳で辞めて、本格的に農業に取り組む。農会長のときに集落営農、転作を進め、転作田を預かりいろいろな作物を作ってきた。請け負い農業をして、田んぼが拡大し15町歩になった。
現在では、水稲8ha、大豆2ha、その他果樹(ぶどう、イチジク、ブルーベリーなど)、野菜(ネギ、ミズナ、ミニトマトなど)などを作っている。夜久野ではソバ、大豆を作ったが、いのしし、シカでやめた。

■農薬を使わない農業
化学農薬を使わない農業を目指してきた。稲作りでは、鳥取の農事試験場から紙マルチをいち早く取り入れ、また、アイガモ、鯉、糠ペレット、冬季湛水なども行ってきた。
「むらさきの舞」は紫黒米(赤米=古代米)の新品種で、アントシアニン色素とポリフェノールが豊富に含まれ栄養価が高く、発芽玄米の形でも販売している。
8種類の米(古代米(赤米)、セダカ、極小米、紫黒(しこく)米など)を配合した米、「手選り」方式で選りすぐりの米は「産玉(うぶたま)米」と名づけて販売している。
6つの道の駅やコープ神戸などで販売しているほか、都会の契約者との提携により、販路を拡げている。大阪などのイベントに出品、展示会場で購入してくれた人やインターネットで知った人が固定会員になって契約してくれる。個人の方が長く続く。イチジクは健康食として売れる。また、道の駅でのグループ作りにも取り組んでいる。

■農業者の苦労として
・米価の低下が続いていること
・共同防除をしないと自分のところだけで無農薬は難しい。
・イノシシ、シカとの戦いが大変。いま107枚の田んぼを持っているが、これさえなければと思う。いまではヌートリア、アライグマ、サルなども出てくる。
・最近では食品の表示問題がある。安全性をめぐって「有機」や「無農薬」の表示をどうするかということ。
・安全で信頼性があれば2割高までなら買ってくれる。
・経営は個人経営で、従業員は3人と私たち夫婦。シルバー人材センターからきてもらったり、以前は障害(児)者の方を預かってやっていた。

■土作りへのこだわり
化学農薬を使わず、化学肥料は一切使わない無化学肥料栽培を続けている。昔ながらの堆肥などを使用するほか、有機肥料として「ずばり有機」(鶏糞、米ぬか、EM菌など配合)を推奨されていた。

(報告者:高石)

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2007年11月例会 「但馬発、ブロイラー秘話」
開催月日 2007年11月24日(土)
開催市町 豊岡市日高町
テーマ  「但馬発、ブロイラー秘話」
講師   岸田直正さん(但馬養鶏農業協同組合代表理事 組合長)
場所   但馬養鶏農業協同組合
参加者  中田 能登 島垣 峠 中安 高石 谷岡 木村 大田 成田 高倉 宮元(12名)
      会員外 1名
担当   中田 能登 宮元



<工場見学>
 白衣・帽子・マスクを着用。備え付けの長靴を履いて足を洗浄し、さらにエアシャワーを浴びる。その上で、作業場を窓越しに見学し、説明を受ける。

 工場の室温は常に一定(15~16℃)に保たれている。隣室でばらされた鶏肉がコンベアで流されて処理され、ムネ肉やモモ肉などを自動計測し、2kg毎にパックされる。金属探知機などによる検査を実施している。
 1日に約2万羽を処理している。丸のまま専門店に行く肉と解体される肉との2種類がある。



<岸田代表理事のお話>
 平成16年の台風23号の時には、工場が高さ3mまで水没し貴重な資料が流された。

・ブロイラーとは
 米国で品種改良された鶏で、あぶり焼きするので「ブロイラー」という名前が付けられた。戦後、進駐軍が日本に持ち込んだ。あまり大きくない鶏で、飼育期間を短くする。

・但馬と養鶏の歴史
 一時は但馬の生産量が全国1位の時もあったが、今は8位ぐらいである。
 但馬は山間地が多く谷間に人が住むが、5反未満の農地が多いため副業が必要である。 昔は養蚕や出稼ぎで生計を立てていたが、化学繊維の普及や海外からの輸入で絹の需要が減ったため、養蚕に変わる産業として、早く換金でき回転率が良い養鶏が盛んになった。 但馬はブロイラー養鶏の発祥の地である。

 流通面では京都という大きな市場があった。鶏肉を食するのは福岡県が一番早かったそうだが、京都は鶏肉の食事が多く、江戸時代からカシワと呼ばれていた。
 元々1羽1羽手でさばいていたが、アメリカやオランダから自動処理機が輸入され、大量生産できるようになり急激に生産が拡大した。この工場でも1日2~3万羽処理している。

 余剰穀物を日本に輸出したいという米国の思惑があった。
 「畜産を振興せよ。酪農をして牛乳を飲め。」
 当時の厚生省が子供に動物性蛋白質を与えて、体を大きくしたいという国策があった。
 「安価で良質な蛋白=鶏」

 昭和30年代に但馬でブロイラー飼育が急速に拡大し、産業として成立した。全国的にも鹿児島県、宮崎県、岩手県などに生産団地が造られる。農家の所得の低い所が産地となった。昭和30年代から昭和50年代初めまで但馬が全国1位であったが、九州や東北勢に負けて8~9位に下がった。

・現在の養鶏
 最初は小さな鶏小屋だったが、九州や東北で米国型の無窓鶏舎に変化する。但馬もそれにならった。
 最近、鶏舎が見あたらなくなったが、実は山の上にある。鶏は皮膚呼吸しないため、夏の高温に弱いためである。現在、但馬で300万羽飼育され、月100万羽が出荷されるが、八鹿・建屋・出石の奥などに30万羽飼育する団地がある。

 餌は米国からの輸入がほとんどで、とうもろこし、コウリャン、魚の粉末などだが、相場、市況で価格が左右される。販売についても同様であり、農家が一定の所得を得るためには、安定した供給を行う必要がある。

 マスコミで肉の偽装について報じられているが、同業者として困ったことだと思う。
 米国からヒヨコの種を輸入するが、病気がすぐに伝染する。1週間で半分の鶏が死んだこともあった。最近は鳥インフルエンザで、鴨とかの渡り鳥が病原菌を運ぶ。農水省が生ワクチンを認定しないため自己防衛するしかない。



<工場についての説明>
 工場で1時間に3700~3800羽を処理する。MAXは4800羽である。ISO9001を取得している(兵庫県認定1号)。
 見学したのは加工課。処理工程として、生鳥搬入→懸鳥→湯漬→脱羽→内臓検査(1羽ずつ獣医が行う)→冷却(鳥肌を立てるため1~2度の水槽で)→解体→整形→真空包装→金属探知機、X線探知機→箱詰め→保管
 1羽が処理されるのに2時間5分。県の立ち入り検査が年2回。トレーサビリティはHASEPの条件。

<質疑応答>
Q.条件に適合していたのは但馬だけではないはずで、1番になれた理由についてもっと踏み込んで詳しく教えていただきたい。
A.カシワは京都で一番多く食されていた。日高町十戸のK氏は元々卵の鶏を飼っていたが、ある時鶏舎が燃えてしまった。そこで京都の料亭に勤めていた従兄弟に相談したところ、ブロイラーを飼えばどうかということで、大きな問屋を紹介された。ただし、そのためには鶏の供給量が必要だったので大勢の農家に協力してもらった。そのため日高が最大の生産地になり、日高に工場を建設した。K氏は創業者であり、初代社長である。
 京都は鶏(カシワ)を食する文化があり、大阪は軍鶏や家鴨を食する文化がある。景気の良い頃で2000羽飼っている人は校長先生ぐらいの収入があった。

Q.昔「山岸会」というのがあったが。
A.卵を取る鶏を共同で飼育し、卵を販売していた。元々三重県発祥で会員を増やした。  ノウハウがあったので大屋谷で大勢の会員がいた。鶏舎が同じ形だった。出石の一宮、奈佐、美方郡で養鶏をしていたし、表日本にも大きな鶏舎があったが、競争に負けて消滅した。

Q.ヒヨコの種を米国から輸入しているとはどういうことか。
A.米国は農業国であり、改良が進んでいる。米も穀物も世界の種を手中に収めている。 ブロイラーを何代も交配しており、日本は追いつけない。原種鶏といい、成長スピードが速く、肉質が柔らかい。
 ニクソン大統領が中国と国交を結ぶために訪中した際に、お土産としてブロイラーの種を持参した。今や中国はブロイラーの大生産地となり、世界3位。日本にブロイラーを輸出している。
 日本は種鶏を米国や英国から輸入する。これは雄・雌のヒヨコで、孵化場で1羽を100羽に増やす。種鶏はとても値段が高い。

Q.地鶏とは?
A.国内で昔から飼われていた。名古屋コーチン、比内鶏、鹿児島軍鶏など。江戸時代武士が庭で飼っていたため、明治になっても種が残った。他の種と掛け合わせて1/4の血でも地鶏と表示してもよいことになっている。純粋なものは少ないはずである。ブロイラーとは異なる。
 ブロイラーの60日間飼育は柔らかい。80(または90)日飼育は少し堅いがおいしい。値段も高い。「地べたを歩いていたら地鶏」なのではない。
 世界中にブロイラーがあり、日本への輸出は、ブラジルが一番多く、次いで中国・タイの順。

Q.廃棄物について
A.梁瀬に「レンタリング」という蛋白再生工場がある。羽毛、血液、骨を処理して、肥料や飼料にする。鶏糞は肥料にする。チキンオイルで石鹸を作る。「赤い羽根」は鶏の羽根。ブロイラーの羽根は水気がくっつき、鴨や家鴨の羽根は水をはじく。

Q.飼い方について
A.温度、湿度、空気量を管理する。コンピュータでエアコンをコントロールする。無窓なので照明は電気。夜は1日のサイクルと同じく照明を消している。

Q.塩素処理について
A.薬は塩素のみ許可。(厚労省)肉には菌がいないため表面のみ殺菌する。京都ではカシワを生で食べる文化があり、料亭でササミを刺身で食べる。ムネ肉の皮をフライパンで1~2ミリの厚さで焼いてタタキにし、ポン酢で食べる。表面だけ焼けば食中毒はない。

Q.どのようなクレームがあるか。
A.一番多いのは軟骨が入っているケース。

Q.病気を防ぐために抗生物質の使用について
A.無薬を前提、原則とする。生物を薬なしで育てることは大変難しい。残留許されない。 飼料には遺伝子組み換えの穀物は使わない。サルファ剤などの抗生物質も入れていない。 ヒヨコは専門商社や総合商社が仕入れる。日本で検疫を行い、1~2週間飼って発病しないか検査する。保菌しないものが流通する。

<最後に一言>
 但馬フーズのブランド「すこやか鶏」は量販店で売っている。最寄りの店、サトウのスーパー、全糧、神戸や関西のスーパー、イトーヨーカ堂。

(報告者:宮元清人)

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