2011~2012年度 12月例会報告
■□  但馬学研究会 2011年度~2012年度 12月例会報告  □■

日時:2011年12月3日(土)14:00〜17:00
場所:鷹野神社とその周辺・奥城崎シーサイドホテル
講師:山田寿夫(やまだとしお)氏

神誕生

 通称「猫崎半島」との付け根に『誕生』の碑が建っている。今、まちおこしの一環で「誕生の塩」が注目されている。この「誕生」の意味を探るべく山田寿夫氏にお伺いした。

 竹野駅から海岸方面に竹野川を超え、真っ直ぐ行くと、鷹野神社にぶつかる。ここに祀られている祭神こそ「誕生」の鍵を握る神(人物?)武甕槌神(タケミカヅチ)だ。彼の名は別名、建御雷男神(タケミカヅチオノカミ)または「鹿島神(かしまのかみ)」と呼ばれ、茨城県鹿嶋市にある鹿島神宮の祭神で、また塚原卜伝が剣聖として全国に鹿島神を広めたことで今では武道の神様として知られている。

 プレヤマト王権時代、武甕槌神は経津主神(フツヌシノカミ)と共に高天原の使者として出雲へ赴き、大国主神の息子である建御名方神(タケミナカタノカミ)と戦い勝利し、これにより「国譲り神話」が出来上がるのである。

 晴れて使命を全うした武甕槌命は出雲から船で帰る途中に立ち寄ったのが猫崎半島の付け根であることから、ここが神誕生の地と言うことで「誕生」の碑が建てられた。猫崎半島というのは通称であり、本来は鹿島半島と呼ぶ。

 またこの鹿島半島の東は西風をよく防ぐので船の風除けとして、多い時は800艘もの船が係留したらしい。それほどの良港なので北前船の寄港地として栄えたのだとか。
また「誕生」の碑の裏には「誕生之浦」と書かれているが、山田先生によると本来は「神誕生之浦」と書かれるべきだったと話されていた。

 この他にも、鷹野神社に纏わることやら竹野の歴史を沢山お聞きしたのだが、今回は「誕生」に絞って報告させて頂いた
以上

文責 太田伸吾












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2011~2012年度 但馬学11月例会報告                           「へぇー、ほぉー、笑いと涙の香味煙物語」 ~ 村岡名物おじさんのしゃべりが炸裂~
日時:2011年11月26日(土) 13時30分~16時
場所:兎塚地区公民館

テーマ :  「 へぇー、ほぉー、笑いと涙の香味煙物語」 
        ~ 村岡名物おじさんのしゃべりが炸裂~


講師:生活工房香味煙 煙長 井上利夫さん

 最近「おはよう朝日です」に出た。すると電話とファックスがたくさんきた。普通は1月2月は仕事がないが、2月まで注文がある。
家の中では、これでいいのだ、としている。味噌汁が水くさくてええなぁ、しょっぱくてええなぁ、眉間に皺が寄ってええなぁ、と言って会話を楽しもうと思っている。



  学校卒業後に大阪の茨木に就職したが、親父の養鶏を継ぐために田舎に帰ってきた。養鶏は借金ばかりで、いったん借金の歯車に入るとどうしようもない。死ぬかとんずらするか考えたが、お金を追及する人生のむなしさ、はかなさに気がついた。死ぬのをやめて、人がやっていないハムづくり、燻製づくりに向かった。但馬でハム・燻製づくりは僕が初めてだ。「食が変われば経済が変わる」という高校の時の先生の言葉が蘇ってきて、取り組み始めた。

 しかし、売れなかった。味もしっかりしていない。それでも今日に至っている。やってよかった。死ぬほどの思いは必要だったと思う。但馬は燻製に適したところだ。また、但馬は各地に村が点在しドイツとそっくりだと言う人もいる。

 今、一番僕が一生懸命やっていることは「癒しの森」構想だ。そして、「ハーブ アンドスモーク」。ハーブ園を経営して高校生とハーブと煙で満たしたい。100年かかるかもしれないが、生徒にも日当を与えて一緒に検討する。(今、有害鳥獣が課題となっているが)鹿が近寄らない、ぶとが近寄らない、ムカデが近寄らない、蛇が近寄らないハーブなど、様々なハーブがある。また、心に病んだときにはハーブティーがいいし、胃や腸がおかしいときにはハーブで癒す。

但馬をハーブで満たしたい。その間にスモークが点在する。
癒しの森は、金儲けするかどうか分からん感じでやる。但馬は、真面目だけどがつがつしすぎだ。儲けとるか、儲けなあかん、が(商売人の間の)挨拶になっている。しかし、病院や行政に対してこのような挨拶はしない。使命感があるということだろう。
人が喜ぶものを出さないといけない。

 山でも鹿でも利用したらいいが、町会議員や市会議員に頼ったらあかん。自分ですることだ。行政に頼ってもあかん。頼るから文句をいいたくなる。補助金をもらわずにやるのだ。県の部長や県民局長に宣伝のお願いはするが、補助金はいらん、見つめてください、と言っている。自分の人生だから自分でする。頼らない。

 学校の先生にも優秀な人間はいらんと言っている。落ちこぼれを送ってくれれば、学校・家庭で教えてくれないことをする。
 但馬中が色とりどりのハーブの香りと色があればすごいことだ。輸出もできる。サフランは花びら一枚3000円する。難しいからするのだ。ピーマンは簡単にできるが、儲からない。難しいから儲かる。1個5000円のメロンなどいいものを研究する。但馬牛は高価な餌がいるが、もっと安上がりで高級品を作るのだ。

 この話をしていたら、養父市の市長、副市長、農林課長がある晩に来た。大屋に第2香味煙を学校か養蚕の廃屋のどちらかに作らせてもらう、必要な資金は市が出す、と言ってきた。今の構想は、燻製大学、燻製道場を作ろうとするものだ。
香美町は反応がない。町長・町議も関心がない。銭がないと言うが、銭がなければ作れ、知恵がなければ出せ、と言っている。

 大切なのは情熱だ。落ちこぼれと一緒にバーと来年やる。例えば、ミントは鹿がきらいだ。ムカデや借金取りが近寄らないハーブがある。借金取りは儲けたら来ない。
但馬を天国みたいなところに変えよう、と思ってから楽しい。

 県の農政環境部長には宣伝をしてくれ、製薬会社や化粧品会社、百貨店をつないでくれと言っている。
 但馬がおしゃれでかっこいい、としたい。そして、視察に来てもらう。
観光型ハーブ園をすると言ったら、同級生や恩師から田んぼ(を貸してやろう)の声がかかっている。

来年から香味煙を株式会社にする。そして、必要な資金以外は、すべて従業員にいい目をさせる。従業員はベンツ、社長は軽トラとしたい。
 続いて煙の話だが、食物のすごさは木ごとに煙が違うということだ。うまく組み合わせたのが燻製。美しい花や葉っぱは心をいやす香りのいい煙だ。リンゴのような果物は、何とも言えない甘酸っぱい煙だ。栗は苦みがある。
今度、煙の不思議をご覧にいれよう。

 そして、水戸黄門の話。水戸黄門は自国を周る前に助さん格さんに宿を調査させたという。夫婦仲のいい旅館、店主と従業員の仲がいいところを選んだという。
 続いて武田信玄の話。彼は燻製の名人だ。戦いを制する人は食を制する。戦をするには、腸を活性化する食物が必要で、これが脳を活性化し、決断ができるのだ。梅干を燻製にしておにぎりにし、味噌をくるんで燻製にする。これが意思の力、直観力を育てる。梅干の燻製、味噌の燻製は400年前からあり、今でも食べられる。賞味期限をつけないといけないときに400年とつけようとしたら、保健所につけてくれるなと言われ、12か月とした。先を見通すためには過去を見ないといけない。



 質疑応答
質問)畜産のものと野生のものとどちらが多いか。
答え)豚、鶏が多い。
鹿肉はものすごくきれいで、C型肝炎はない。豚・牛にはある。山の木など健康食を食べているようなものだからだろう。
野生は鹿のみだ。だが、商売にならない。イベントやサンプルのみやっているだけで、力をいれるものではない。
質問)ハーブの用途は。
答え)瓶詰め、袋詰め、お香、お風呂に入れるものなど。収益性の高いものを作っていかないといけない。
質問)ハーブ アンド スモークでハーブとスモークの関係は。
答え)ハーブ園の中に工房を作っていく。燻製やハム、ソーセージにハーブを利用する。但馬農高とハーブをまぶしたチキンの燻製を作った。おしゃれな農業にして若者が帰ってくる形を作りたい。
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2011年~2012年度 8月例会報告
■□  但馬学研究会 2011年~2012年度 8月例会報告  □■

日時:2011年8月27日(土)10:00〜12:00
場所:山陰海岸ジオパーク遊覧
講師:谷本 勇(たにもといさむ)氏

竹野港から但馬御火浦までの海岸地形を見学します。
下記の動画と一緒にご覧下さい



http://www.youtube.com/watch?v=noKROpKHPIY

1分
竹野川河口から出発です。
河口左岸は日本列島が大陸東端にあったころの火砕岩からなる角礫岩の地層です。

2分
大浦湾北部一帯の角礫岩層からなる地域を大マン、小マンといいます。


3分
切浜湾先端部の下山中央部の淀洞門です。洞門は山の中央を縦に走る断層に沿ってできています。

4分
切浜湾のはさかり岩です。ここは花崗岩の角礫を含んだ角礫岩からできています。亀裂によって上部の岩が崩落し、挟まったものと思われます。

5分
須井洞門です。付近にはいくつかの洞門や甌穴など亀裂沿いに侵食された地形が見られます。

相谷の貝殻島です。花崗岩の白い角礫が貝殻に見えるところから名付けられています。

6分
安来松島です。小島が一列に並ぶこの付近の景観を安来松島と呼んでいます。

7分
佐津海岸先端部の小山は柴山湾への目印となるため「柴山」と呼ばれます。
北側の岩壁を「柴山赤壁」といいます。

8分  
この洞門は「朝日洞門」といいます。

8分30秒
柴山港口の金鉱山の入り口です。

9分30秒
北前船の寄港地、現在の漁港「沖の浦」です。




http://www.youtube.com/watch?v=ilbgk9Vv2xY

0分
火成岩にできた亀裂部が侵食されてできた香住キャニオンです。付近には大穴洞門があります。


0分40秒
湾口の波消しのケーソンです。

0分56秒
香住湾内、中央の、泥岩砂岩からなる白石島です。


1分20秒
香住湾西部一帯を香住松島といいます。

柱状節理が美しい弁天島です。

湾の奥が三田浜海水浴場です。

2分30秒
この付近は栃三田です。(この付近でも動物の足跡化石が発見されています。)泥岩砂岩の地層と上部の火成岩が重なる垂直の岩壁です。

4分
黄色の二つの島は「兄弟赤島」といいます。

この入り江をオッパセ浜といいます。

背後の壁は天然記念物「鎧の袖」です。

崖の前の小島は天然の造形「蜂の巣岩」、「鷹巣岩」です。

「鎧の袖」付近の全景です。



6分
泥岩砂岩の重なり合った地層が「松ヶ崎百層崖」です。

この付近を「水の浦」といいます。動物の足跡化石を含む泥岩砂岩層に割り込んだ黒い岩石が弁天島火成岩です。さらに、この二つの岩石を切って割り込んだのが「鎧の袖」をつくる岩石で、付近越智走の重なりが最もよく解かる場所です。

7分22秒
四角い穴が「衣笠洞門」別名「百間洞門」です。

8分
松ヶ崎百層崖の全景 縞模様が美しい海食崖です。

9分 
「余部橋梁」 余部鉄橋に変わってつくられた余部橋梁です。狭く険しい谷間は但馬の地形を代表する地形といえます。

9分30秒
伊笹岬と御崎、陸の孤島といわれたへき地の村、平家伝説の村「御崎」が急斜面にへばり付くように立地しています。




http://www.youtube.com/watch?v=Xoo4RCuCWHQ


0分
伊笹岬の先端部、260mの山頂部には日本で最も高い場所の灯台が航行安全を図っています。

1分30秒
そそり立つ岩壁の亀裂に沿って洞門が並びます。そのうち釣鐘洞門は高さ約50m余の洞門です。

1分50秒
火成岩からなる鋸岬は硬いため、侵食に弱い周囲の礫岩が侵食されて残った地形です。

岬中央の洞門は離水洞門の「旭洞門」です。

3分
鋸岬と大島の間は「三尾松島」といわれます。ここは絶好の磯漁場です。

4分
約三百万年前に割り込んだ流紋岩の岩床の柱状節理が美しい三尾大島です。

島には厳島神社が祭られ、灯台が置かれています。

三尾の村は沿岸、磯漁業の村です。船はここで折り返します。

       

7分
竹野に帰ってきました。

陸繋島の猫崎半島です。

8分
半島先端部には流紋岩の節理が無数に発達してできた大仏、小仏といわれる奇岩の岩壁です。

9分
流紋岩が泥岩砂岩層の上に重なっている様子が見られます。

半島西側には半島のすそを取り巻くように波食棚が発達しています。

10分
泥岩砂岩層の傾きがよくわかります。


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7月例会案内
■□ 但馬学研究会 2011年度~2012年度 7月例会(総会)案内 □■

──────────◇◆ テーマ ◇◆───────────────────
23年度定期総会

日時: 平成23年7月23日(土)13:00~16:00
場所: 但馬文教府 研修室A
    豊岡市妙楽寺41-1 (TEL)0796-22-4407
集合: 12:00 (但馬文教府内食堂にて食事)

総会の議事予定
・報告事項
 (1)平成22年度事業報告について
 (2)その他
・協議事項
  (1)平成22年度一般会計決算の承認について
  (2)平成22年度特別会計決算の承認について
  (3)幹事の選任と承認について
  (4)平成23年度事業計画について
  (5)平成23年度一般会計予算の承認について
  (6)平成23年度特別会計予算の承認について
  (7)その他

なお、今回の総会では「会の現状と今後の方向について」を主題に会員トークを行います。
会の20年を振り返る中で、スタディ例会の運営方法、年間テーマ、会の進むべき方向、また、
会員の現状と今後の活動方針などについて、会員全体でじっくり話し合う予定です。

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2010年~2011年度3月例会報告『「但馬のくみ」か「丹後のくみ」か』~「一遍聖絵」を中心にして~
日時 : 2011年3月26日(土)     12:00~16:00
場所 : 立誠舎(養父市八鹿町八鹿610番地)
講師 : 大森惠子氏(日本民族学会評議員、説話・伝承学会委員、旧浜坂町出身)

《会場について》
 大森先生のお話の前に、会場である立誠舎の改修に奔走された八鹿地区自治協議会会長山根功暉氏から、その概要について説明を受けた。立誠舎は、但馬聖人池田草庵が開いた幕末の漢学塾で、後の青谿書院の前身施設である。池田草庵は、いずれ当会としても人物シリーズで是非とも取り組みたいテーマでもあり、今回はその予告編として位置付けている。なお、山根氏には、会場の無償提供や奥様までお手伝いをいただくなど多くのご配慮をいただいたことを附記し、感謝申し上げたい。

《予備知識として》
 この例会報告を初めてお読みいただく方には、若干の予備知識があった方が分かりやすいと思い、2点ばかり解説しておくこととする。(出典:角川日本史辞典)
① 一遍 鎌倉時代の僧。時宗の開祖。伊予の豪族河野通広の子。各寺で修行、巡拝して他力念仏の確信を深め、勧進帳と念仏札を携えて、死に至るまで全国各地を念仏遊行し250万人に結縁、世に遊行上人といわれる。その間、宗教的感興にまかせて踊念仏を勧め、特に農民・漁民などの尊信を集めたが、同時に禅的傾向をも有していたため、武士層もまた一遍に近づいた。
② 一遍上人絵伝(一遍聖絵) 絵巻。時宗の開祖一遍の教化遍歴の生涯を描いたもの。(中略)伝記としても、芸術的にも歓喜光寺本がすぐれ、特に自然描写は宋元画の描法を摂取して傑出、鎌倉時代、社会・風俗研究の好資料。

《但馬のくみか丹後のくみか》
 さて、本論である。何ともミステリアスなタイトルで、門外漢の私は「くみ」は「くに」の間違いではないか、失礼ながら大森先生たる方が何というミスをされるのかと思った。   
しかし、周到で豊富な資料をいただき、お話をお聞きするにつれ、私の不明を認識するに至った。素人とはいえ汗顔の至りである。

 学問というものは、謎解きだと思ってきたが、民俗学もとりわけ大森先生の歴史民俗学の系統のなかでは、資料で検証し、現地で確認し、頭であれこれと想定していく時間のかかる世界だと思った。それだけに謎が解けだしてきた時は雀踊りし、まして学会で一定の評価を得られるとなるとそれこそ研究者冥利に尽きるだろうなと感じた。

『一遍聖絵』のなかの「くみ」の地と龍の宗教性

◇『一遍聖絵』のなかの「くみ」の地
 
1 「丹後の久美」と「但馬のくみ」をめぐる諸説

 一遍聖絵 第八の中で、『(前略)「同八年五月上旬に丹後の久美の浜にて念仏申給けるに、龍なみの中より出現したりけり。(中略)又同年但馬国のくみといふ所にて、海より一町あまりのきて道場をつくりたりけるに、おきのかたより電のするをみ給て、龍王の結縁にきたるぞとの給て(中略)因幡国をめぐり給けるに、或老翁結縁のこころざし(後略)』の記述がある。この下線を引いた箇所が今例会のメインタイトルの元になっている。

 さて、この一遍聖絵に記載された道場所在地「久美」と「くみ」はどこか。①「但馬国」は「丹後」国の書き間違いで、2か所とも丹後国の久美浜とする説、②但馬国の時宗寺院として有力な竹野町竹野の興長寺とする説、③「但馬国のくみ」は「但馬国のいぐみ」と仮定する説などがある。結論としては、「丹後の久美」は今の京丹後市久美浜の浦明(うらけ)であり、「但馬のくみ」は現在の新温泉町居組だろうと大森先生は言われる。

 2か所とも丹後国とする説はご当地思いのご愛嬌のようであるが、「又同年但馬国の…」と「又」とあるので、丹後以外の地を指すと思われる。しかし丹後の久美の浜は間違いなく丹後の国だろう。竹野の興長寺は古来、但馬の有力な時宗寺院で今なお現存しているので、同寺所在地を「但馬のくみ」などと誤記することは考えられないので採らない。大森先生の恩師五来重氏が地名と竜神の祠をもとに、新温泉町の居組と推定されているが、この説に同意したいと先生は言われる。

 中世の丹後国における時宗の道場

 宮津市妙立寺は、貞和以降天文のころまでは遊行派に属する「橋立の道場」だったと推定されている。同寺の厨子裏屏風腰板部分には、丹後の久美浜の東側に当たる浦明に「臨阿弥陀仏」の法名を名乗る宗教者が存在し、浦明に念仏の道場があったことが明らかになった。つまり、天橋立道場と久美浜の浦明道場の交流から、文殊菩薩が教化した竜神の説話伝承も久美浜へ伝播されていったと思われる。

 中世の「丹後国の久美」の地と「但馬国のくみ」の地

丹後国の久美浜
 京丹後市久美浜町。丹後国の西端、但馬国との境界線に該当する地域。古代は「久美郷」中世には「久美庄」と記録されている。京の長講堂(後白河法皇の御所六条殿内の持仏堂)の所領だった。久美庄には「十楽」の地名もあり(今でもある)港町として楽市楽座が存在していたことが窺え、陸路、海路の交通の要地だった。。

但馬国のくみ
 居組は鎌倉時代は京都の長講堂領大庭庄の一部に該当。「但馬国太田文」には「伊含浦」とある。居組の浜辺に道場があった史料はないが、丹後国の久美浜も但馬国の伊含も、鎌倉時代には京都の長講堂の所領であったことから、「伊含」と時宗の道場があった久美浜の浦明との間で交流があった可能性も考えられる。居組は因幡国に隣接する港である。弘化2年(1845)「但馬国村々船往来運上取立一村限帳」(久美浜 東稲葉家文書)によると、但馬国村々の廻船数が記録されており、竹野の56艘に次ぎ居組の24艘が第2位であった。今日の居組港の状況から考えると、近世末期に廻船の出入りで賑わった港とは到底想像できないが、「一遍聖絵」巻八に描かれた「くみ」の地が居組であった可能性がある。

ここまでの報告者(峠)の感想
 聖絵の作者は「但馬国のくみ」と書いただけで、これだけ後世に話題を提供しているとは思いもしないだろう。「くみ」=「居組」に至る研究者たちの研究の足どりが分かった。講義をお聞きしながら、私も貧弱ながら想像力が湧いて、当時「居組」「伊含」は公式には「いくみ」と発音するのだが、普段は「い」を省略して「くみ」とか「ぐみ」などと発音していたのかも知れないなどと思った。

◇「一遍聖絵」のなかの龍と踊り念仏

1 「九世戸縁起)の中の文殊菩薩と龍

 なぜ「一遍聖絵)の丹後の久美の浜にまつわる詞章で、一遍上人の前に出現した龍が語られ但馬のくみの浜の場面に龍が描かれたのか。宮津市字文殊の智恩寺が所蔵する「九世戸縁起」では、天橋立における文殊信仰について説いている。風雨を生じ、海難事故を引き起こすのは龍神が暴れるからだと信じられていたが、文殊菩薩がその龍神を鎮め海の安全を保障した霊験譚である。丹後には文殊信仰に関わる伝承地が多い。

2 文殊・善光寺・薬師の各信仰と龍宮の龍神・龍王

 文殊菩薩は、龍王(龍神)や龍女(乙姫)を鎮める功徳を持つ仏、海上交通の安全祈願に霊験あらたかな仏として信仰されていた。再度、海難を引き起こす龍神に戻らないように、一万巻のお経を納めて祈願した場所を「経ケ岬」と呼ばれている。また、丹後久美浜付近は古くから浦島伝説が流布している。興味深いことに、但馬の居組周辺もそうである。

3 葬具の龍頭に見られる宗教性

 但馬や丹後地方では、葬列の葬具である龍頭(たつがしら)は木製の龍の頭に紙製の舌や胴体を張り付けたものを親族が手に持って野辺送りをする。五来重氏は、龍頭は死者の霊が浮遊しないように、この中に納めておく容器ではないかといわれている。つまり龍(龍宮の主である龍王)は「霊」を象徴したものである。
 次に中世の面影を残す但馬海岸部の墓地についてみると、海辺に埋め墓、高所に詣り墓を持つ両墓制があった。海辺に遺体を埋葬する。時には遺体が海に流されることもあろう。漁場では遭難することもある。だから現在でも漁村地域では海上・海中他界信仰が盛んである(大森先生は、いくらあの世でも空気がないと生きていけないので岩のトンネルの底の世界::岩中他界と造語されている)。この宗教観念が中世でも存在していたので、「一遍聖絵」に描かれたような一遍上人や時衆が海中に足を浸した状況で、空中に出現した龍のために一心に踊り念仏を修し、龍の供養を行っている姿が描かれたといえよう。
                              
                                    【文責 : 峠 宗男】

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