2012,12,04, Tuesday
日時:2012年11月24日(土) 12:00〜16:00
場所:[昼食]平家の里(平家そば)香美町香住区余部2980
[例会]香美町香住区御崎 御崎公会堂
講師:岡辻増雄さん(御崎地区語り部)
■語り部
講師の岡辻さんは大正14年生まれの88歳。子どものころから歴史が好きで、おじいさんの語ってくれる昔話を何度も聞いて育った。それが頭に残り、求められて話をするようになり、今ではそれが生きがいとなっているという。耳が少し遠い、声にも張りがないとおっしゃりながら、背筋をピンと伸ばし、筋道立ててわかりやすくお話してくださった。
今回資料に使わせていただいた小冊子『御崎 平家村のおはなし』も岡辻さんのお話をベースに作られたものだ。
■平家落人の里
1185年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将が散り散りに落ち延びた。そのうち、門脇宰相平教盛、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門の乗った小舟が季節風によって西へ流され、伊笹岬の突端を曲がったあたりで山中に煙が上がっているのを見つけてたどり着いたのが、当時修行の場であった美伊神社である。そこで出会った森本浄実坊という荒野聖に諭され、この地に落ち着くことになった。三氏は当初、別々に分かれて住み、折に触れて集まっていたが、400年ほど経ったころ「源氏の追手が来ることももうないだろう」との判断で集まって住むことになり、今の御崎村が形成されたという。詳しい内容は上記小冊子を参照されたい。
■ 平家蕪(かぶら)
昼食に出されたお漬け物は平家蕪。この地に古くから自生している蕪で、森林を切り開いたところにも自然に生えてくる。農業試験場が持ち帰って栽培を試みたこともあったが同じものはできなかった。漬け物の商品化も試みたが、今でも山に入って採ってくる必要があるため量産できず、訪れたお客さんに提供する程度しか作られていないそうだ。岡辻さんの長男のお嫁さんが切り盛りされている蕎麦処「平家の里」でいただくことができる。
■ 百手(ももて)の儀式
毎年1月28日に行われる「百手」の儀式。平家の再興を祈念して、源氏に見立てた的に向けて101本の矢を射る行事である。地区の平内神社で行われるが、岡辻さんによると神事ではなくあくまでも「訓練」であるとのこと。「百手」という名前には「何回も繰り返して矢を射る」という意味があるそうだ。各地の平家村にも同じような行事が伝わっており、本数も様々だが、御崎の場合は、打ち初め(1本)+33本×3家(門脇・伊賀・矢引)+打ち終い(1本)で合計101本となっている。源氏がどうのという思いは今となってはまったくないが、これで負けん気が養われたのは確かだという。ちなみに、儀式の際などに使われる旗には揚羽蝶の紋が描かれているが、3家のうちの伊賀家の家紋を村の紋として使用しているという。
■ 近年の暮らし
現在、御崎地区には16世帯、約70人が住んでいる。昭和20年頃は48戸あったが、次第に減り、昭和35年頃までに35、6戸に。その後一気に24、5戸まで減ったが、近年の減少は緩やかである。現在住んでいる人は一度村を出て帰ってきた人も多く、そういった人は村に誇りを持っている。若いお嫁さんが意外と多い。御崎の子供は、小学校3年生まで余部小学校の御崎分校に通い、4年生からは本校に通う。現在の分校の児童数は小1、小2がひとりずつ。来年は各学年1人ずつになる予定だ。
村の大きな収入源になっているのは山椒の葉。山で自生している山椒を採って個人で出荷していたが、現在は苗を育てて栽培し、農協を通じてまとめて出荷している。岡辻さんはハウス栽培の先駆けでもある。ハウスで栽培すると10日早く出荷できる。トゲがあるので収穫が大変だが、少量で高い値が付くという。村全体で7、8haほど栽培している。例会後、案内していただいた平内神社への参道脇にも山椒が栽培されていた。
漁業は、2ヵ所(御崎と鎧)に定置網を設置しているが、近年は収入が減っている。観光客もそれほど来ない。
昔から水が貴重な地区で、火事は大きな被害になっていた。昭和11年に上水道が敷設され、今ではその問題は解消している。
自動車道の計画は昭和24年からあった。昭和45年に砂利道が敷設され、舗装道路が完成したのは昭和49年。昭和63年には灯台から浜坂までの海岸道路も開通し、便利になっている。
昔は烽火を上げて安否を確かめ合ったという話を聞いたことがあるが、自分の手で上げたとか実際に見たという話は聞いたことがないという。役場の方から、落人村として知られる畑、御崎、田久日でやってみようかという話が上がっているそうだ。
■ 歴史とともに
各地の平家落人村には同じような伝承が伝わっている。遠い昔のことでもあり、真偽のほどはよくわからないというのが正直なところだ。そのことについての岡辻さんの応えは明快だ。「歴史は信じるものです」。家でも地区でも歴史は大事。信じないことには地区の活性化もないですよと。ブームに乗じて作ったようなものでなく、家々に代々伝わってきたものを真摯に守り伝えている村の誇りがしみじみと伝わってきた。
(文責:木村)
場所:[昼食]平家の里(平家そば)香美町香住区余部2980
[例会]香美町香住区御崎 御崎公会堂
講師:岡辻増雄さん(御崎地区語り部)
■語り部
講師の岡辻さんは大正14年生まれの88歳。子どものころから歴史が好きで、おじいさんの語ってくれる昔話を何度も聞いて育った。それが頭に残り、求められて話をするようになり、今ではそれが生きがいとなっているという。耳が少し遠い、声にも張りがないとおっしゃりながら、背筋をピンと伸ばし、筋道立ててわかりやすくお話してくださった。
今回資料に使わせていただいた小冊子『御崎 平家村のおはなし』も岡辻さんのお話をベースに作られたものだ。
■平家落人の里
1185年、壇ノ浦の戦いに敗れた平家の武将が散り散りに落ち延びた。そのうち、門脇宰相平教盛、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門の乗った小舟が季節風によって西へ流され、伊笹岬の突端を曲がったあたりで山中に煙が上がっているのを見つけてたどり着いたのが、当時修行の場であった美伊神社である。そこで出会った森本浄実坊という荒野聖に諭され、この地に落ち着くことになった。三氏は当初、別々に分かれて住み、折に触れて集まっていたが、400年ほど経ったころ「源氏の追手が来ることももうないだろう」との判断で集まって住むことになり、今の御崎村が形成されたという。詳しい内容は上記小冊子を参照されたい。
■ 平家蕪(かぶら)
昼食に出されたお漬け物は平家蕪。この地に古くから自生している蕪で、森林を切り開いたところにも自然に生えてくる。農業試験場が持ち帰って栽培を試みたこともあったが同じものはできなかった。漬け物の商品化も試みたが、今でも山に入って採ってくる必要があるため量産できず、訪れたお客さんに提供する程度しか作られていないそうだ。岡辻さんの長男のお嫁さんが切り盛りされている蕎麦処「平家の里」でいただくことができる。
■ 百手(ももて)の儀式
毎年1月28日に行われる「百手」の儀式。平家の再興を祈念して、源氏に見立てた的に向けて101本の矢を射る行事である。地区の平内神社で行われるが、岡辻さんによると神事ではなくあくまでも「訓練」であるとのこと。「百手」という名前には「何回も繰り返して矢を射る」という意味があるそうだ。各地の平家村にも同じような行事が伝わっており、本数も様々だが、御崎の場合は、打ち初め(1本)+33本×3家(門脇・伊賀・矢引)+打ち終い(1本)で合計101本となっている。源氏がどうのという思いは今となってはまったくないが、これで負けん気が養われたのは確かだという。ちなみに、儀式の際などに使われる旗には揚羽蝶の紋が描かれているが、3家のうちの伊賀家の家紋を村の紋として使用しているという。
■ 近年の暮らし
現在、御崎地区には16世帯、約70人が住んでいる。昭和20年頃は48戸あったが、次第に減り、昭和35年頃までに35、6戸に。その後一気に24、5戸まで減ったが、近年の減少は緩やかである。現在住んでいる人は一度村を出て帰ってきた人も多く、そういった人は村に誇りを持っている。若いお嫁さんが意外と多い。御崎の子供は、小学校3年生まで余部小学校の御崎分校に通い、4年生からは本校に通う。現在の分校の児童数は小1、小2がひとりずつ。来年は各学年1人ずつになる予定だ。
村の大きな収入源になっているのは山椒の葉。山で自生している山椒を採って個人で出荷していたが、現在は苗を育てて栽培し、農協を通じてまとめて出荷している。岡辻さんはハウス栽培の先駆けでもある。ハウスで栽培すると10日早く出荷できる。トゲがあるので収穫が大変だが、少量で高い値が付くという。村全体で7、8haほど栽培している。例会後、案内していただいた平内神社への参道脇にも山椒が栽培されていた。
漁業は、2ヵ所(御崎と鎧)に定置網を設置しているが、近年は収入が減っている。観光客もそれほど来ない。
昔から水が貴重な地区で、火事は大きな被害になっていた。昭和11年に上水道が敷設され、今ではその問題は解消している。
自動車道の計画は昭和24年からあった。昭和45年に砂利道が敷設され、舗装道路が完成したのは昭和49年。昭和63年には灯台から浜坂までの海岸道路も開通し、便利になっている。
昔は烽火を上げて安否を確かめ合ったという話を聞いたことがあるが、自分の手で上げたとか実際に見たという話は聞いたことがないという。役場の方から、落人村として知られる畑、御崎、田久日でやってみようかという話が上がっているそうだ。
■ 歴史とともに
各地の平家落人村には同じような伝承が伝わっている。遠い昔のことでもあり、真偽のほどはよくわからないというのが正直なところだ。そのことについての岡辻さんの応えは明快だ。「歴史は信じるものです」。家でも地区でも歴史は大事。信じないことには地区の活性化もないですよと。ブームに乗じて作ったようなものでなく、家々に代々伝わってきたものを真摯に守り伝えている村の誇りがしみじみと伝わってきた。
(文責:木村)
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2012,10,25, Thursday
日 時 2012年10月27日(土)
場 所 香美町香住区 畑 (畑公民館)
講 師 青山喜一さん 畑区長 (香美町消防団長)
■テーマの狙い
全国で数多い平家伝説の地の中心で、史跡に指定されている所。この土地の人は、矢立の松と共に今日まで暮らしてきた。樹齢数百年を経た老松が海抜500m余の山頂に、どーんと陣取っていた。それは正しく平家の象徴、赤い幟旗とを重ね合わせた心の情景は、今も変わってはいない。通常平家の落人部落といえば「隠れ里」のイメージが強いが、畑地区は広々とした平地である。そのあたりを学ぶことにする。
■はじめに
平家の落人伝説のある地は,大概 あまり人も通わぬへき地にあるが、今回お邪魔した香美町畑地区は海岸から佐津川沿いに6キロ海抜100m、谷のゆったりと平らけたところにある。この谷の一番奥は、三川権現のある三川地区であり、畑はそのずっと手前にありへき地と言う感じはあまりない。それもそのはずで、平家伝説の地は、畑地区の背後の標高500mほどの山の中にあり、それがいつの頃からか現在地に移り住んだと言われている。今回は畑地区区長、青山喜一さんから、その伝説のことや地域の発展への取り組みの熱い思いを伺った。
■畑地区の状況
地区の入り口に「平家之史跡畑」の石碑が立っている。地名は養蚕から始っている。大綺里→大綺村→機→畑。昭和16年当地の将来を見越して、桑畑を水田に変え稲作を提唱され実現されたのが、当地区平家の末裔と言われる伊賀平内左衛門氏である。
当時サイホンの技術なども使って水路も整備され、桑畑はすべて今の田んぼにされた功労者であり畑公民館には「火 田 豊 寧」の額がかかっていた。何代か前の香住町町長さんの揮毫とお見受けしたが、畑の地名の言われつまり、焼畑→火 田→「畑は豊かで平和である」と言う意味だろうと解釈した。地区を見渡しても平家の落人伝説を思わせるものは全くない。畑地区はかって64軒あったが明治44年6月13日火災で19軒焼けた。土蔵で残っていたのは2軒、壁下は竹ではなく全て木であった。今は33戸である。川を挟んで西畑、東畑と称している。
■落人が住みついたと言われる所
畑地区の裏山の山頂近くを平家平と総称し、御所が平、お屋敷、矢立松、走る場、陣ヶ平、馬冷し場,峰火場、烏帽子岩、古屋敷、天神屋敷と呼ばれる場所がある、地籍上の小字名ではない、烏帽子岩は夜、武具等を干す夜干し岩という説もある。この辺りは約30ヘクタールあり、地区民の生活と結びついていた生産の場、焼畑などの場所で平家かぶらが採れた。墓はこの場所では見つかっていない。整地をしたら饅頭石が出土したことがある(墓は元禄以降でないと作らない)。鎧刺しや刀の折れたもの、つぼ、食器なども出土した。刀に禄の字が読める。鎧刺しは今もある人が所有している。
■矢立の松
陣ヶ平に1本そびえ立っていた樹齢300年の古松、武士たちが弓矢の的にして訓練していたと伝えられる松を言う。畑地区のシンボルだったが松喰い虫の被害にあい、昭和58年12月に村の関係者数人の立会いのもとに伐採された。その幹の一部が地区公民館に据え置かれている。
矢立の松は地区民の農林生産活動の拠点だった平家平に登る途中にあり、目印し、休憩場所、落ち合い場所、物の一時置き場所として地区民の生活に深く根付き愛着を持たれていた。
■伊賀平内左衛門家
文治元年(1185年)壇の浦で源平争乱のクライマックス、壇の浦の合戦で安徳天皇が入水し、侍大将の伊賀平内左衛門も戦死したと言うのが平家物語のストーリーだが、そうではなくて天皇も一部の公達、武士たちもうまく生きのび各地に隠れ住んだと言うのが、いわゆる平家落人伝説である。伊賀平内左衛門は、はじめ香住の御崎に隠れ住み、のちに畑の山中に移り住んだと言われている。そしていつの頃か山を下り現在の畑に住むようになったそうである。その当時畑は養蚕、織物で暮らしていた。六軒衆と呼ばれる家系があり今でも三軒が現存している。
畑地区内では伊賀家の分家があるが、伊賀ではなく「垣」を貰い「井垣」「谷垣」などの姓になっている。御崎や田久日は全村が落人の家という構成になっているようだが、畑では伊賀家一軒のみが平家の末裔であることが特徴的である。
畑の氏神様、八柱神社の境内の近くに、伊賀家先祖の墓と言われている台石のみ残る古墓がある。現当主は神戸に住んでおられ、畑では八柱神社の手前に広大な屋敷跡が残っている。伊賀家の家紋は本家分家とも同じである。
■今地元では
地区民の落人部落であるという関心はあまり高いとは言えないようである。伝統行事もなく落人伝説を通じて地区の振興に役立たせる振興組織もないが、区長の声かけには全戸が協力してくれている。町の補助により「平家落人の村?」という看板も立てた。
この佐津谷?の地区の運動会では、畑地区は赤い旗(平家の旗)で必ず優勝する、赤は戦う勇気を示す色である。それから伝説にもとずいて、畑、御崎、田久日の、のろし台からのろしを上げ合うイベント開催の話もある。実現すれば一躍脚光を浴びるであろう。
■ おわりに
但馬学研究会の平成24年度のテーマは但馬平家物語で、8月例会は海の田久日だったので今回は山の畑を選んだ、山と言っても畑は交通至便な平地で伝説の受け継がれ方の一つとして面白い地区だった。かっての士の夢の跡平家平へは、今では四駆車で登れるようなので、いつか番外編として登ってみたいと思っている。その際は皆さんのご参加をお願いしこのレポートを閉じることにする。
【担当者】久保、藤井、飯尾 【文 責】飯尾文男
場 所 香美町香住区 畑 (畑公民館)
講 師 青山喜一さん 畑区長 (香美町消防団長)
■テーマの狙い
全国で数多い平家伝説の地の中心で、史跡に指定されている所。この土地の人は、矢立の松と共に今日まで暮らしてきた。樹齢数百年を経た老松が海抜500m余の山頂に、どーんと陣取っていた。それは正しく平家の象徴、赤い幟旗とを重ね合わせた心の情景は、今も変わってはいない。通常平家の落人部落といえば「隠れ里」のイメージが強いが、畑地区は広々とした平地である。そのあたりを学ぶことにする。
■はじめに
平家の落人伝説のある地は,大概 あまり人も通わぬへき地にあるが、今回お邪魔した香美町畑地区は海岸から佐津川沿いに6キロ海抜100m、谷のゆったりと平らけたところにある。この谷の一番奥は、三川権現のある三川地区であり、畑はそのずっと手前にありへき地と言う感じはあまりない。それもそのはずで、平家伝説の地は、畑地区の背後の標高500mほどの山の中にあり、それがいつの頃からか現在地に移り住んだと言われている。今回は畑地区区長、青山喜一さんから、その伝説のことや地域の発展への取り組みの熱い思いを伺った。
■畑地区の状況
地区の入り口に「平家之史跡畑」の石碑が立っている。地名は養蚕から始っている。大綺里→大綺村→機→畑。昭和16年当地の将来を見越して、桑畑を水田に変え稲作を提唱され実現されたのが、当地区平家の末裔と言われる伊賀平内左衛門氏である。
当時サイホンの技術なども使って水路も整備され、桑畑はすべて今の田んぼにされた功労者であり畑公民館には「火 田 豊 寧」の額がかかっていた。何代か前の香住町町長さんの揮毫とお見受けしたが、畑の地名の言われつまり、焼畑→火 田→「畑は豊かで平和である」と言う意味だろうと解釈した。地区を見渡しても平家の落人伝説を思わせるものは全くない。畑地区はかって64軒あったが明治44年6月13日火災で19軒焼けた。土蔵で残っていたのは2軒、壁下は竹ではなく全て木であった。今は33戸である。川を挟んで西畑、東畑と称している。
■落人が住みついたと言われる所
畑地区の裏山の山頂近くを平家平と総称し、御所が平、お屋敷、矢立松、走る場、陣ヶ平、馬冷し場,峰火場、烏帽子岩、古屋敷、天神屋敷と呼ばれる場所がある、地籍上の小字名ではない、烏帽子岩は夜、武具等を干す夜干し岩という説もある。この辺りは約30ヘクタールあり、地区民の生活と結びついていた生産の場、焼畑などの場所で平家かぶらが採れた。墓はこの場所では見つかっていない。整地をしたら饅頭石が出土したことがある(墓は元禄以降でないと作らない)。鎧刺しや刀の折れたもの、つぼ、食器なども出土した。刀に禄の字が読める。鎧刺しは今もある人が所有している。
■矢立の松
陣ヶ平に1本そびえ立っていた樹齢300年の古松、武士たちが弓矢の的にして訓練していたと伝えられる松を言う。畑地区のシンボルだったが松喰い虫の被害にあい、昭和58年12月に村の関係者数人の立会いのもとに伐採された。その幹の一部が地区公民館に据え置かれている。
矢立の松は地区民の農林生産活動の拠点だった平家平に登る途中にあり、目印し、休憩場所、落ち合い場所、物の一時置き場所として地区民の生活に深く根付き愛着を持たれていた。
■伊賀平内左衛門家
文治元年(1185年)壇の浦で源平争乱のクライマックス、壇の浦の合戦で安徳天皇が入水し、侍大将の伊賀平内左衛門も戦死したと言うのが平家物語のストーリーだが、そうではなくて天皇も一部の公達、武士たちもうまく生きのび各地に隠れ住んだと言うのが、いわゆる平家落人伝説である。伊賀平内左衛門は、はじめ香住の御崎に隠れ住み、のちに畑の山中に移り住んだと言われている。そしていつの頃か山を下り現在の畑に住むようになったそうである。その当時畑は養蚕、織物で暮らしていた。六軒衆と呼ばれる家系があり今でも三軒が現存している。
畑地区内では伊賀家の分家があるが、伊賀ではなく「垣」を貰い「井垣」「谷垣」などの姓になっている。御崎や田久日は全村が落人の家という構成になっているようだが、畑では伊賀家一軒のみが平家の末裔であることが特徴的である。
畑の氏神様、八柱神社の境内の近くに、伊賀家先祖の墓と言われている台石のみ残る古墓がある。現当主は神戸に住んでおられ、畑では八柱神社の手前に広大な屋敷跡が残っている。伊賀家の家紋は本家分家とも同じである。
■今地元では
地区民の落人部落であるという関心はあまり高いとは言えないようである。伝統行事もなく落人伝説を通じて地区の振興に役立たせる振興組織もないが、区長の声かけには全戸が協力してくれている。町の補助により「平家落人の村?」という看板も立てた。
この佐津谷?の地区の運動会では、畑地区は赤い旗(平家の旗)で必ず優勝する、赤は戦う勇気を示す色である。それから伝説にもとずいて、畑、御崎、田久日の、のろし台からのろしを上げ合うイベント開催の話もある。実現すれば一躍脚光を浴びるであろう。
■ おわりに
但馬学研究会の平成24年度のテーマは但馬平家物語で、8月例会は海の田久日だったので今回は山の畑を選んだ、山と言っても畑は交通至便な平地で伝説の受け継がれ方の一つとして面白い地区だった。かっての士の夢の跡平家平へは、今では四駆車で登れるようなので、いつか番外編として登ってみたいと思っている。その際は皆さんのご参加をお願いしこのレポートを閉じることにする。
【担当者】久保、藤井、飯尾 【文 責】飯尾文男
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2012,05,30, Wednesday
日時 : 2012年5月27日(土) 12:00~16:00
場所 : 山田風太郎記念館(養父市関宮605-1)
講師 : 有本倶子 様
・関宮在住の作家・歌人。歌集、前田純孝や山田風太郎の評伝、編著書等多数。
・山田風太郎の会副会長
■テーマの狙い
知る人ぞ知る山田風太郎。忍者もの、怪奇もの、明治もの、エッセー、日記文学等々で一世を風靡した但馬関宮が生んだ稀代の小説家である。関宮の医家で生を享け、多感な20年を但馬で過ごした。東京で医学生の時作家としてデビューし、大成してからも常に望郷の人であった。風太郎の虜になり、山田風太郎記念館の建設に奔走し、「あんたぼくより、ぼくのこと詳しいねぇ」と氏をして言わしめた作家、歌人でもある有本倶子さんから山田風太郎の世界をひもといてもらう。
■レポーター峠のひとり言
このレポートを綴るに当たり、唐突で我ながら古いとは思うが、はしだのりひことシューベルツの「風」を口ずさんでいるところだ。昭和44年、いまから43年前に大ヒットしたフォークソングである。そんな昔、まだ生まれていないという会員もいらっしゃるかもしれない。♪人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴりさみしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ♪ 勿論、山田風太郎とこのフォークソングとは何の関係もない(と思う)。後期高齢者の峠の感傷に過ぎない。齢をとると午前中何をしたか日記を書くときさっぱり忘れているが、昔のことは結構覚えているものだなと我ながら不思議でならない。それでは、メモと記憶と若干の資料を頼りに、思い出すまま、思いつくままをレポートすることにする。
1、山田風太郎略歴
1922年(大正11年)1月4日、兵庫県養父郡関宮村(現・養父市)生まれ。本名・誠也。父は医者、母は医者の娘。父は1927年(昭和2年)に死亡、享年41歳。風太郎5歳。母は、後に父の弟と再婚したが、風太郎が中学1年から2年に上がる春に死亡、享年38歳、風太郎まだ16歳。後年、この当時を振り返ると「魂の酸欠状態」だったようだ。1943年(昭和18年)夏、家出。東京の沖電気に就職、医学校進学を目指し、仕事の傍ら受験勉強を続ける。昭和19年、召集令状が来るが、「肺湿潤」により徴兵検査不合格、即日帰郷。直後に受験、医学校入試合格、東京医学専門学校(後の東京医科大学)に入学し、医学生3回生、24歳の時、探偵小説専門誌「宝石」に「達磨峠の事件」が入選し、探偵小説家山田風太郎が誕生。卒業後、結局医師にはならず作家生活に入った。2001年(平成13年)7月28日肺炎のため東京都多摩市の病院で死亡、享年79歳。
2、風
(ア) 風太郎にとって、「風」とはなんだったのか。風はどこかで生まれ、どこかに消えてゆくもの。裕福ではあっても淋しい境遇で育った風太郎は、そんな風を自分だと思ったようだ。豊岡中学校時代、四人の仲間をつくり、この仲間同士がお互いに連絡するのに、それぞれ雨、風、霧(想とも)、雷と言う隠語を使った。風は風太郎であった。「風」は「ふう」ではなく「かぜ」であり、世に出たころは「かぜたろう」と自分では称していたのだが、世間では「ふうたろう」と読まれ出したので、まあいいやと言うことになってしまったようだ。むしろ風太郎自身「ふうたろう」が気に入っていたかもしれない。自分の戒名に「ふうふういん」などと読ませている。なお、当時の豊岡中学校は、但馬一円から秀才が集まる名門校だった。
(イ) 遺書に、葬式はするな、坊主は呼ぶなとあったとか。生前の平成8年8月30日の「週刊朝日」に自筆の死亡記事が掲載されている。それによると、戒名は「風〃院風〃風〃居士」と自分で作ったとある。事実その通り、風太郎の墓は、東京都八王子市上川霊園にある。墓石には「風ノ墓」、墓誌には「風〃院風〃風〃居士」と刻まれている。近くには、戦後のラジオドラマ「君の名は」の菊田一夫の「忘却とは忘れ去る事なり、忘れ得ずして・・・」と刻まれた大きな墓があり、なんとも対照的だったとは有本さんの感想。
(ウ) もう一つ「風」について書く。風太郎の通った関宮尋常小学校は一部は残っているが廃校になり、国道9号をはさんで反対側に移転している。鉄筋コンクリート造りの立派な校舎であるが、今は隣の小学校に併合されてこれまた廃校になっている。その校門の近くに、関宮小学校創立百周年記念の堂々たる記念碑が立っている。碑文には、「風よ伝えよ 幼き日の歌」「山田風太郎題文 細川泰翆書」。裏側には「昭和五十五年二月 同窓生一同建之」とある。細川泰翆氏は、風太郎の小学校時代の恩師、風太郎の実家の近くに下宿しており、風太郎はいつも遊びに行き可愛がられた。細川氏は後年、豊岡の書道教室「風信」の創始者となり、子息の二代目細川翆楠氏は、風太郎の墓石の「風ノ墓」の題字を書いている。なお「風信」の「風」と、風太郎の「風」とは全くの偶然で、関係はない。
3、山田風太郎記念館
(ア) 風太郎が少年時代に通った旧関宮尋常小学校の跡地に、平成15年(2003)に建てられた。小さいながらも明治時代の蔵風の建物である。地元の有志15人が結成した「山田風太郎の会」が1年半運動をつづけ1年半かかって完成した。銀杏や桜の古木がいかにも学校跡らしい。入館料、大人(高校生以上)200円、小、中学生100円。年間の入館者は約3000人。記念館の管理、運営は、「山田風太郎の会」が養父市から委託されている。市からは6000人をめざせと言われている。館内では、ロビーで大画面のテレビで晩年の風太郎の映像を見ることができる。生前の風太郎から寄贈を受けた初版本、直筆原稿、創作ノート、書簡、写真、衣類など約1500点の資料のほか、執筆に使われていた机、椅子、書棚も寄贈され、書斎の一部も再現されている。小学生時代、誰も裸足かぞうりの時代に、風太郎が身に着けていた衣服、革靴、ランドセルなど如何にもハイソサエティの生活ぶりだったかが分かる。それで友達からいじめを受け、身に着けるのを嫌がり、そのお陰でお蔵入りになっていたのがいま日の目を見たとのこと。
(イ) 記念館建設の立役者である有本さんは多くは語られないが、成就までには地元サイドの理解を得るまでに相当の苦労があったようである。まず時間の経過もあって山田風太郎その人に対する関心、なじみが薄くなっていたこと、知っている人でも多くが、関宮に居た頃の風太郎が豊岡中学校を何回も停学させられたりする相当の悪(わる)だったことやお色気映画の原作者としての誤解もあったようである。20歳で地元を離れ、大成後も殆ど帰省せず、地元唯一の山田医院も閉鎖されている。氏は郷土を嫌っているのではないかとか、郷土のために何もしてくれていないではないか、税金を使って作るべきではないなどの意見もあった。さらに、平成の市町村大合併を控えて、各市町とも施設建設事業が縮小されている時期的な悪条件もあった
(ウ) 風太郎自身も、記念館なんて恥ずかしい、記念館に飾れるような本は書いていないし、地元には何の貢献もしていないので、受け入れてもらえないだろうと謙遜されていたが、とても楽しみにされていた。町長や議長、教育長、担当課長などを建設目的を理解してもらうために風太郎邸に連れて行ったら、風太郎は大変喜んで会っていただけて、町長たちも一遍に風太郎フアンになってしまった。結局記念館の完成は平成15年4月で、風太郎の没後2年が経っていた。
4、風太郎に関する覚書あれこれ
(ア) 豊岡中学校時代、寮の屋根裏に秘密の隠れ家を作り、悪の仲間たちとたむろした。風太郎は絵が上手で女の裸の絵をかいて、屋根裏からそれを糸でぶらさげ、それを覗いた下級生から観覧料をせしめた。右手の中指にペンだこができたのは、当時絵を書きすぎたからで、仲間は風太郎は画家になるものと誰も思っていた。当時の絵が豊岡中学校の達徳会発行の機関誌「達徳」の表紙を飾っている。勿論、女の裸の絵ではなく、鎧と刀の絵である。風太郎の絵の才能は、母方の祖先が鳥取藩のお抱え絵師の小畑稲升であったと言う血筋を引いているのかも知れない。
(イ) 東京での医学校入学前の浪人生活中、受験雑誌「蛍雪時代」に何回か小説が当選し、賞金を得ている。ペンネームが今までの山田風太郎から「春獄久」になっている。受験雑誌の編集者が、風太郎の作品があまりに大人びており、プロの作家が受験生の名で投稿しているのではと疑っていると聞き、名を変えたとの説もあるようである。その春獄久の由来だが、有本さんは風太郎の両親の戒名ではないかと言われた。父親の戒名は慶昭院春獄瑞宝居士、母親は宝寿院徳慧照大姉。ここから春獄と寿をとり、寿を久に置き換えたのではないかと言われる。
(ウ) 風太郎が幼年のころから20歳で上京するまで暮らした元山田医院・母屋が今は義妹の名義で残されている。近村の陣屋を移設されたと伝えられる母屋は、重厚で文化財的建築物のたたずまいを今も保っている。車庫も残っている。お抱え運転手も母屋の2階に部屋が与えられていた。風太郎の家から小学校までは歩いて1分ばかりだが、遅刻の常習者だった。近くには関神社がある。関宮の語源ともいわれる、拝殿と本殿を構えた古い神社である。母屋の隣には明治から今も続く古い酒蔵、銀海酒造がある。風太郎のエッセ―にはしばしば登場する。
(エ) 家系は出石藩の仙石騒動と関係がある。仙石騒動の主人公仙石左京の姉の夫山田八左衛門(騒動に連座、中追放となり自刃)が風太郎の祖に当たる。風太郎は、この家系については有本さんから教えられるまでは知らなかったようだ。「それにしてもあんたぼくよりぼくのこと詳しいねぇ」と有本さんはこの時風太郎から言われたそうである(もう一人の山田風太郎)。
(オ) 平成22年に角川書店と角川文化振興財団の主催による「山田風太郎賞」が創設された。今年は生誕90年にあたり、神戸で1か月間「風太郎展」が開催される。地元の風太郎記念館では7月28日の命日に「風〃忌」を営む。その際、風太郎が豊岡中学校5年生の時書いた「橘伝来記」を紙芝居にして公開される予定。また7月28日には平凡社から「別冊太陽 山田風太郎」が発行される。
【例会担当者】 安達、久保、福井、峠
【文 責】 峠 宗男
場所 : 山田風太郎記念館(養父市関宮605-1)
講師 : 有本倶子 様
・関宮在住の作家・歌人。歌集、前田純孝や山田風太郎の評伝、編著書等多数。
・山田風太郎の会副会長
■テーマの狙い
知る人ぞ知る山田風太郎。忍者もの、怪奇もの、明治もの、エッセー、日記文学等々で一世を風靡した但馬関宮が生んだ稀代の小説家である。関宮の医家で生を享け、多感な20年を但馬で過ごした。東京で医学生の時作家としてデビューし、大成してからも常に望郷の人であった。風太郎の虜になり、山田風太郎記念館の建設に奔走し、「あんたぼくより、ぼくのこと詳しいねぇ」と氏をして言わしめた作家、歌人でもある有本倶子さんから山田風太郎の世界をひもといてもらう。
■レポーター峠のひとり言
このレポートを綴るに当たり、唐突で我ながら古いとは思うが、はしだのりひことシューベルツの「風」を口ずさんでいるところだ。昭和44年、いまから43年前に大ヒットしたフォークソングである。そんな昔、まだ生まれていないという会員もいらっしゃるかもしれない。♪人は誰もただ一人旅に出て 人は誰もふるさとを振り返る ちょっぴりさみしくて振り返っても そこにはただ風が吹いているだけ♪ 勿論、山田風太郎とこのフォークソングとは何の関係もない(と思う)。後期高齢者の峠の感傷に過ぎない。齢をとると午前中何をしたか日記を書くときさっぱり忘れているが、昔のことは結構覚えているものだなと我ながら不思議でならない。それでは、メモと記憶と若干の資料を頼りに、思い出すまま、思いつくままをレポートすることにする。
1、山田風太郎略歴
1922年(大正11年)1月4日、兵庫県養父郡関宮村(現・養父市)生まれ。本名・誠也。父は医者、母は医者の娘。父は1927年(昭和2年)に死亡、享年41歳。風太郎5歳。母は、後に父の弟と再婚したが、風太郎が中学1年から2年に上がる春に死亡、享年38歳、風太郎まだ16歳。後年、この当時を振り返ると「魂の酸欠状態」だったようだ。1943年(昭和18年)夏、家出。東京の沖電気に就職、医学校進学を目指し、仕事の傍ら受験勉強を続ける。昭和19年、召集令状が来るが、「肺湿潤」により徴兵検査不合格、即日帰郷。直後に受験、医学校入試合格、東京医学専門学校(後の東京医科大学)に入学し、医学生3回生、24歳の時、探偵小説専門誌「宝石」に「達磨峠の事件」が入選し、探偵小説家山田風太郎が誕生。卒業後、結局医師にはならず作家生活に入った。2001年(平成13年)7月28日肺炎のため東京都多摩市の病院で死亡、享年79歳。
2、風
(ア) 風太郎にとって、「風」とはなんだったのか。風はどこかで生まれ、どこかに消えてゆくもの。裕福ではあっても淋しい境遇で育った風太郎は、そんな風を自分だと思ったようだ。豊岡中学校時代、四人の仲間をつくり、この仲間同士がお互いに連絡するのに、それぞれ雨、風、霧(想とも)、雷と言う隠語を使った。風は風太郎であった。「風」は「ふう」ではなく「かぜ」であり、世に出たころは「かぜたろう」と自分では称していたのだが、世間では「ふうたろう」と読まれ出したので、まあいいやと言うことになってしまったようだ。むしろ風太郎自身「ふうたろう」が気に入っていたかもしれない。自分の戒名に「ふうふういん」などと読ませている。なお、当時の豊岡中学校は、但馬一円から秀才が集まる名門校だった。
(イ) 遺書に、葬式はするな、坊主は呼ぶなとあったとか。生前の平成8年8月30日の「週刊朝日」に自筆の死亡記事が掲載されている。それによると、戒名は「風〃院風〃風〃居士」と自分で作ったとある。事実その通り、風太郎の墓は、東京都八王子市上川霊園にある。墓石には「風ノ墓」、墓誌には「風〃院風〃風〃居士」と刻まれている。近くには、戦後のラジオドラマ「君の名は」の菊田一夫の「忘却とは忘れ去る事なり、忘れ得ずして・・・」と刻まれた大きな墓があり、なんとも対照的だったとは有本さんの感想。
(ウ) もう一つ「風」について書く。風太郎の通った関宮尋常小学校は一部は残っているが廃校になり、国道9号をはさんで反対側に移転している。鉄筋コンクリート造りの立派な校舎であるが、今は隣の小学校に併合されてこれまた廃校になっている。その校門の近くに、関宮小学校創立百周年記念の堂々たる記念碑が立っている。碑文には、「風よ伝えよ 幼き日の歌」「山田風太郎題文 細川泰翆書」。裏側には「昭和五十五年二月 同窓生一同建之」とある。細川泰翆氏は、風太郎の小学校時代の恩師、風太郎の実家の近くに下宿しており、風太郎はいつも遊びに行き可愛がられた。細川氏は後年、豊岡の書道教室「風信」の創始者となり、子息の二代目細川翆楠氏は、風太郎の墓石の「風ノ墓」の題字を書いている。なお「風信」の「風」と、風太郎の「風」とは全くの偶然で、関係はない。
3、山田風太郎記念館
(ア) 風太郎が少年時代に通った旧関宮尋常小学校の跡地に、平成15年(2003)に建てられた。小さいながらも明治時代の蔵風の建物である。地元の有志15人が結成した「山田風太郎の会」が1年半運動をつづけ1年半かかって完成した。銀杏や桜の古木がいかにも学校跡らしい。入館料、大人(高校生以上)200円、小、中学生100円。年間の入館者は約3000人。記念館の管理、運営は、「山田風太郎の会」が養父市から委託されている。市からは6000人をめざせと言われている。館内では、ロビーで大画面のテレビで晩年の風太郎の映像を見ることができる。生前の風太郎から寄贈を受けた初版本、直筆原稿、創作ノート、書簡、写真、衣類など約1500点の資料のほか、執筆に使われていた机、椅子、書棚も寄贈され、書斎の一部も再現されている。小学生時代、誰も裸足かぞうりの時代に、風太郎が身に着けていた衣服、革靴、ランドセルなど如何にもハイソサエティの生活ぶりだったかが分かる。それで友達からいじめを受け、身に着けるのを嫌がり、そのお陰でお蔵入りになっていたのがいま日の目を見たとのこと。
(イ) 記念館建設の立役者である有本さんは多くは語られないが、成就までには地元サイドの理解を得るまでに相当の苦労があったようである。まず時間の経過もあって山田風太郎その人に対する関心、なじみが薄くなっていたこと、知っている人でも多くが、関宮に居た頃の風太郎が豊岡中学校を何回も停学させられたりする相当の悪(わる)だったことやお色気映画の原作者としての誤解もあったようである。20歳で地元を離れ、大成後も殆ど帰省せず、地元唯一の山田医院も閉鎖されている。氏は郷土を嫌っているのではないかとか、郷土のために何もしてくれていないではないか、税金を使って作るべきではないなどの意見もあった。さらに、平成の市町村大合併を控えて、各市町とも施設建設事業が縮小されている時期的な悪条件もあった
(ウ) 風太郎自身も、記念館なんて恥ずかしい、記念館に飾れるような本は書いていないし、地元には何の貢献もしていないので、受け入れてもらえないだろうと謙遜されていたが、とても楽しみにされていた。町長や議長、教育長、担当課長などを建設目的を理解してもらうために風太郎邸に連れて行ったら、風太郎は大変喜んで会っていただけて、町長たちも一遍に風太郎フアンになってしまった。結局記念館の完成は平成15年4月で、風太郎の没後2年が経っていた。
4、風太郎に関する覚書あれこれ
(ア) 豊岡中学校時代、寮の屋根裏に秘密の隠れ家を作り、悪の仲間たちとたむろした。風太郎は絵が上手で女の裸の絵をかいて、屋根裏からそれを糸でぶらさげ、それを覗いた下級生から観覧料をせしめた。右手の中指にペンだこができたのは、当時絵を書きすぎたからで、仲間は風太郎は画家になるものと誰も思っていた。当時の絵が豊岡中学校の達徳会発行の機関誌「達徳」の表紙を飾っている。勿論、女の裸の絵ではなく、鎧と刀の絵である。風太郎の絵の才能は、母方の祖先が鳥取藩のお抱え絵師の小畑稲升であったと言う血筋を引いているのかも知れない。
(イ) 東京での医学校入学前の浪人生活中、受験雑誌「蛍雪時代」に何回か小説が当選し、賞金を得ている。ペンネームが今までの山田風太郎から「春獄久」になっている。受験雑誌の編集者が、風太郎の作品があまりに大人びており、プロの作家が受験生の名で投稿しているのではと疑っていると聞き、名を変えたとの説もあるようである。その春獄久の由来だが、有本さんは風太郎の両親の戒名ではないかと言われた。父親の戒名は慶昭院春獄瑞宝居士、母親は宝寿院徳慧照大姉。ここから春獄と寿をとり、寿を久に置き換えたのではないかと言われる。
(ウ) 風太郎が幼年のころから20歳で上京するまで暮らした元山田医院・母屋が今は義妹の名義で残されている。近村の陣屋を移設されたと伝えられる母屋は、重厚で文化財的建築物のたたずまいを今も保っている。車庫も残っている。お抱え運転手も母屋の2階に部屋が与えられていた。風太郎の家から小学校までは歩いて1分ばかりだが、遅刻の常習者だった。近くには関神社がある。関宮の語源ともいわれる、拝殿と本殿を構えた古い神社である。母屋の隣には明治から今も続く古い酒蔵、銀海酒造がある。風太郎のエッセ―にはしばしば登場する。
(エ) 家系は出石藩の仙石騒動と関係がある。仙石騒動の主人公仙石左京の姉の夫山田八左衛門(騒動に連座、中追放となり自刃)が風太郎の祖に当たる。風太郎は、この家系については有本さんから教えられるまでは知らなかったようだ。「それにしてもあんたぼくよりぼくのこと詳しいねぇ」と有本さんはこの時風太郎から言われたそうである(もう一人の山田風太郎)。
(オ) 平成22年に角川書店と角川文化振興財団の主催による「山田風太郎賞」が創設された。今年は生誕90年にあたり、神戸で1か月間「風太郎展」が開催される。地元の風太郎記念館では7月28日の命日に「風〃忌」を営む。その際、風太郎が豊岡中学校5年生の時書いた「橘伝来記」を紙芝居にして公開される予定。また7月28日には平凡社から「別冊太陽 山田風太郎」が発行される。
【例会担当者】 安達、久保、福井、峠
【文 責】 峠 宗男
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2012,03,14, Wednesday
■□ 但馬学研究会 2011年度~2012年度 2月例会報告 □■
日時:2012年2月25日(土) 12:00〜16:00
場所:コウノトリ文化館 (豊岡市祥雲寺127)
講師:松島興治郎 氏 (コウノトリ文化館名誉館長)
【昼食】
コウノトリ郷公園内コウノトリ本舗食堂。ありふれた会席料理だがお品書きにも食材の生産者の氏名が書かれており主として北但・丹後の業者がかかわっていることがわかった。
【はじめに】
縁あってこの度特別天然記念物コウノトリの人工飼育と自然界放鳥に導かれたコウノトリ文化館名誉館長の松島興治郎氏、見方を変えればコウノトリに捕獲された人間松島興治郎氏のお話を伺うことができた。十分にまとめきれていないがその内容を感想も含めて記してみた。
【コウノトリ 一口メモ】
東南アジアからの渡り鳥でアムール川流域から行き来していた。中国南東部、朝鮮半島、日本に住む。
食べ物 魚類、ヘビ、カエル、ネズミ等を食す。
生 体 全長約110cm、羽根を広げると約200cmにもなる。
1.まれに裏返しで空を舞うことがある。
2.大きな赤松の樹上に巣を作ることから松上の鶴と云われることが多くあった。
3.昭和34年豊岡地方で最後のヒナが生まれた以後、繁殖を見なくなってついに滅亡へと進む。
4.コウノトリは風上に向かって立ちすくむ。
5.平成元年(1989)飼育25年目、初めてヒナ誕生。
6.平成17年(2005)9月24日最初の試験放鳥5羽。
【兵庫県北部 コウノトリ生息数】(資料より抜粋)
天保年間1830~ 出石鶴山に一つがい営巣(仙石久利 絶対禁獲区とする)
明治初年頃~ 鶴山付近に飛来するものあり
25年(1892) 鶴山のコウノトリ捕獲の勅令
27年(1894) 鶴山にひとつがい営巣
37年(1904) 同上
大正 9年(1920) 30羽内外 3巣
10年(1921) 鶴山天然記念物に指定
昭和 2年(1927) 11巣
5年(1930) 100羽内外 10巣 親鳥32 ひな22
9年(1934) 20巣 41羽
10年(1935) 18巣 38羽
18年(1943) 鶴山松樹伐採 19年からは1巣もなし
31年(1956) 22羽 30年に円山川に30羽集合
33年(1958) 10巣 21羽
34年(1959) 11巣 20羽
38年(1963) 14羽 文部省文化財保護委人工飼育保存決定
40年(1965) 11羽 2羽を捕獲して人工飼育始める
46年(1971) 野生最後の1羽が捕獲されるも死亡
61年(1986) 捕獲飼育されていた最後の個体が死亡
平成24年(2012) 143羽(野生48羽 センター内95羽) (2月25日現在)
【捕獲したコウノトリ】(資料より抜粋)
豊岡市内
昭和40年(1965) 2月11日 2羽 豊岡市福田地内
42年(1967) 1月11日 2羽 出石町伊豆地内
2月1日 2羽 飼育所内(野上)
44年(1969) 1月11日 2羽 出石町鳥居地内
46年(1971) 4月15日 1羽 豊岡市香住地内で捕獲
(小計) 9羽
その他での保護捕獲入数
昭和46年(1971) 2月28日 1羽 福井県武生市から
3月1日 1羽 鹿児島県徳之島町から
(小計) 2羽
捕獲した合計 11羽
【コウノトリ(鶴)の一声】(松島語録)
○ 昨今、自然のあり方(土水空気)をこわしているのは人間だけだ。鳥魚獣などの動物はそんなことはしていない。私はそんな人間の傲慢さは許せないと思っている。地球と云う生命共同体に優しい心で接してきた旧人類のそんな生き方に対して今後我々はどのような行動で答えていくべきか反省しないければならない。
○ 方法が分からない時は鳥に相談した。
○ 私は職人である。
○ 神の領域には手を出すな。
【質疑応答】
Q: 松島さんがコウノトリを今日まで育てられた功績の大きさは云うに及ばないが、今後どのように生きて行かれるのか?
A: 一市民として今後何が出来るか。お世話になった市民の方々に恩返しができればと思っているが、日々コウノトリの環境も変わってくる。それに対して人間が手助けをするしないと言うことに関しては肯定も否定もしない。
Q: 今までどんな思いでコウノトリと接して来たか、またそれを支えたのは何だったのか?
A: その時々の考え方を話すが、動物的な考えが下地にあったし、これはいけると思った。また引くに引けない場合が度々あったが自分の責任で行ったこともある。私はその頃から願えば叶うではなく叶うまで願う、と云う言葉を心の糧にしている。
Q: 今後野生に帰ったコウノトリが昔の様に松の樹上に巣を作ると思われるか?
A: 作らないだろう。なぜかと言うと赤松の樹が十分にない。赤松は大樹になるまでに永い年月を要する、それまでは他の樹に巣を作るしか方法はないと思える。(外国では白樺の樹に営巣している所もある。)
【あとがきにかえて】(後日余話)
○ 今回昔ながらの囲炉裏を囲んでの講演であった。体の暖は赤々もえる炭の火で心の暖は水辺で鮒、鯛、うなぎ等が体を休めるが如くにやさしく包む氏の話術で時を忘れた。これまでの道は二者択一といったそんなやさしい選択ではなく進む道は只ひとつ一所懸命(ひとつの所に命を懸けると云う意味)その仕事をするのみだったとキッパリと云われる口元からは「和して同じず」の何事にもぶれない強い姿勢が感じられる。(しかしそんな中でも母がくれたやさしさが全ての生き物に通じることが大切なんですよ、、、と云われた時はこぼれ落ちそうな笑顔であった。
○ コウノトリ人工飼育事業の 歴史的変遷、組織、予算など人間相手のわずらわしさ無責任さにも笑顔でサラット触れられた。
○ 世にこんな俗謡がある「駕にのる人担ぐ人そのまたわらじをつくる人」コウノトリ事業の一連の快挙に駕にのる人担ぐ人はわんさといる。わらじをせっせと編んできた人松島氏にもやっと陽がさした。
○ 功なり名を遂げられた氏であるコウノトリ文化館名誉館長としての処遇は至極当然で、しかし氏には尻こそばゆく迷惑であろう「やはり野に置けれんげ草」である。我々は氏と接した3時間余りで野に咲くれんげ草黙々と「わらじ」を編む氏こそが良く似合うと思った次第である。
【文責:飯尾】
日時:2012年2月25日(土) 12:00〜16:00
場所:コウノトリ文化館 (豊岡市祥雲寺127)
講師:松島興治郎 氏 (コウノトリ文化館名誉館長)
【昼食】
コウノトリ郷公園内コウノトリ本舗食堂。ありふれた会席料理だがお品書きにも食材の生産者の氏名が書かれており主として北但・丹後の業者がかかわっていることがわかった。
【はじめに】
縁あってこの度特別天然記念物コウノトリの人工飼育と自然界放鳥に導かれたコウノトリ文化館名誉館長の松島興治郎氏、見方を変えればコウノトリに捕獲された人間松島興治郎氏のお話を伺うことができた。十分にまとめきれていないがその内容を感想も含めて記してみた。
【コウノトリ 一口メモ】
東南アジアからの渡り鳥でアムール川流域から行き来していた。中国南東部、朝鮮半島、日本に住む。
食べ物 魚類、ヘビ、カエル、ネズミ等を食す。
生 体 全長約110cm、羽根を広げると約200cmにもなる。
1.まれに裏返しで空を舞うことがある。
2.大きな赤松の樹上に巣を作ることから松上の鶴と云われることが多くあった。
3.昭和34年豊岡地方で最後のヒナが生まれた以後、繁殖を見なくなってついに滅亡へと進む。
4.コウノトリは風上に向かって立ちすくむ。
5.平成元年(1989)飼育25年目、初めてヒナ誕生。
6.平成17年(2005)9月24日最初の試験放鳥5羽。
【兵庫県北部 コウノトリ生息数】(資料より抜粋)
天保年間1830~ 出石鶴山に一つがい営巣(仙石久利 絶対禁獲区とする)
明治初年頃~ 鶴山付近に飛来するものあり
25年(1892) 鶴山のコウノトリ捕獲の勅令
27年(1894) 鶴山にひとつがい営巣
37年(1904) 同上
大正 9年(1920) 30羽内外 3巣
10年(1921) 鶴山天然記念物に指定
昭和 2年(1927) 11巣
5年(1930) 100羽内外 10巣 親鳥32 ひな22
9年(1934) 20巣 41羽
10年(1935) 18巣 38羽
18年(1943) 鶴山松樹伐採 19年からは1巣もなし
31年(1956) 22羽 30年に円山川に30羽集合
33年(1958) 10巣 21羽
34年(1959) 11巣 20羽
38年(1963) 14羽 文部省文化財保護委人工飼育保存決定
40年(1965) 11羽 2羽を捕獲して人工飼育始める
46年(1971) 野生最後の1羽が捕獲されるも死亡
61年(1986) 捕獲飼育されていた最後の個体が死亡
平成24年(2012) 143羽(野生48羽 センター内95羽) (2月25日現在)
【捕獲したコウノトリ】(資料より抜粋)
豊岡市内
昭和40年(1965) 2月11日 2羽 豊岡市福田地内
42年(1967) 1月11日 2羽 出石町伊豆地内
2月1日 2羽 飼育所内(野上)
44年(1969) 1月11日 2羽 出石町鳥居地内
46年(1971) 4月15日 1羽 豊岡市香住地内で捕獲
(小計) 9羽
その他での保護捕獲入数
昭和46年(1971) 2月28日 1羽 福井県武生市から
3月1日 1羽 鹿児島県徳之島町から
(小計) 2羽
捕獲した合計 11羽
【コウノトリ(鶴)の一声】(松島語録)
○ 昨今、自然のあり方(土水空気)をこわしているのは人間だけだ。鳥魚獣などの動物はそんなことはしていない。私はそんな人間の傲慢さは許せないと思っている。地球と云う生命共同体に優しい心で接してきた旧人類のそんな生き方に対して今後我々はどのような行動で答えていくべきか反省しないければならない。
○ 方法が分からない時は鳥に相談した。
○ 私は職人である。
○ 神の領域には手を出すな。
【質疑応答】
Q: 松島さんがコウノトリを今日まで育てられた功績の大きさは云うに及ばないが、今後どのように生きて行かれるのか?
A: 一市民として今後何が出来るか。お世話になった市民の方々に恩返しができればと思っているが、日々コウノトリの環境も変わってくる。それに対して人間が手助けをするしないと言うことに関しては肯定も否定もしない。
Q: 今までどんな思いでコウノトリと接して来たか、またそれを支えたのは何だったのか?
A: その時々の考え方を話すが、動物的な考えが下地にあったし、これはいけると思った。また引くに引けない場合が度々あったが自分の責任で行ったこともある。私はその頃から願えば叶うではなく叶うまで願う、と云う言葉を心の糧にしている。
Q: 今後野生に帰ったコウノトリが昔の様に松の樹上に巣を作ると思われるか?
A: 作らないだろう。なぜかと言うと赤松の樹が十分にない。赤松は大樹になるまでに永い年月を要する、それまでは他の樹に巣を作るしか方法はないと思える。(外国では白樺の樹に営巣している所もある。)
【あとがきにかえて】(後日余話)
○ 今回昔ながらの囲炉裏を囲んでの講演であった。体の暖は赤々もえる炭の火で心の暖は水辺で鮒、鯛、うなぎ等が体を休めるが如くにやさしく包む氏の話術で時を忘れた。これまでの道は二者択一といったそんなやさしい選択ではなく進む道は只ひとつ一所懸命(ひとつの所に命を懸けると云う意味)その仕事をするのみだったとキッパリと云われる口元からは「和して同じず」の何事にもぶれない強い姿勢が感じられる。(しかしそんな中でも母がくれたやさしさが全ての生き物に通じることが大切なんですよ、、、と云われた時はこぼれ落ちそうな笑顔であった。
○ コウノトリ人工飼育事業の 歴史的変遷、組織、予算など人間相手のわずらわしさ無責任さにも笑顔でサラット触れられた。
○ 世にこんな俗謡がある「駕にのる人担ぐ人そのまたわらじをつくる人」コウノトリ事業の一連の快挙に駕にのる人担ぐ人はわんさといる。わらじをせっせと編んできた人松島氏にもやっと陽がさした。
○ 功なり名を遂げられた氏であるコウノトリ文化館名誉館長としての処遇は至極当然で、しかし氏には尻こそばゆく迷惑であろう「やはり野に置けれんげ草」である。我々は氏と接した3時間余りで野に咲くれんげ草黙々と「わらじ」を編む氏こそが良く似合うと思った次第である。
【文責:飯尾】
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2012,02,04, Saturday
■□ 但馬学研究会 2011年度~2012年度 1月例会報告 □■
日時:2012年1月28日(土) 12:00〜16:00
場所:但馬米穀(株) (豊岡市)
講師:下垣 巧氏
中西 寛氏
【中西氏】
まず、昔の但馬の稲作の話。大東亜戦争が終わる頃、とにかく食べるものがなかった。
三菱で魚雷艇の新型ロケットエンジンを造っていたが、空襲で焼け、悲惨な暮らしをし
ていた。餓死寸前という状況だった。これでは駄目だという事で、農業をすることにな
った。稲作は政府の方針で、「食味」より「収量」が優先されていた。たくさんとれる
お米22号・23号・ニホンバレを作っていた。コシヒカリは後に明石の試験場で出来たも
の。
当時はまだ牛で田んぼを鋤いていた時代。牛を動かすのにも、餌を食べさせた後、
牛の反すうを待って、複数ある胃袋の最初の胃袋より二番目から後に餌が移るのを待た
なければ、お腹がぶぅっと膨らんで、死んでしまう事になった。人から牛を借りて農作
業をしたが、牛のケアを心配され、なかなか思ったように仕事が出来ず、牛を買って飼
う事にした。牛に鋤かせた土は、干からびると、土の悪いバクテリアが死んだり、土の
成分が出て、多くの肥料を必要としなかった。今のトラクターでの耕運だと、土が干か
らびないので、そんな効果が無い。
当時の日本政府からは、机上での収量予測で、一反
あたり6俵の供出を求められたが、出来ずに困った。強権発動で、ひどい目にあったこ
ともある。しかし、多くとれる年もあった。23号のお米で、一反あたり9俵もとれた場
合も。それは、肥料でも農法でもなく気候によった。お金に余裕が出来、肥料をたくさ
ん撒いた場所もあったが、稲が吸収する養分は決まっているので、肥料の撒き過ぎはも
ったいないし、稲が倒れるし、病気にもなる。また、肥料が少ないと、収量が足らなく
なる。真ん中あたりで稲作をするのが良いと、昔から聞いている。
現在の稲わらを田ん
ぼにコンバインでまくやり方をやるだけで、土は肥えていく。堆肥はムラになってまき
にくい。田んぼ全体が同じように稲が育ちにくい。
稲は自家受粉。花が咲くのもわずかに2時間程度。それも、開花時が「まん」が良く、
晴れ。植物がその時期を何故か知っている。稲は、今の多くの種子がそうであるように
F1というわけではない。自家受粉の特徴だが、何世代か同じ種籾で稲作を続けると、そ
の親の種の特徴を帯びるようになる。今のコシヒカリという品種は、収量がとれだした
後、食味が求められて出来た品種。しかし今後変わっていくと思う。但馬でも、ツヤヒ
メなどの種が多くなるのではないかと思う。
【下垣氏】
但馬の美味しいお米の条件
● 土質 蛇紋岩のある土はやはり美味しい。食味計でも、数字がでる。
● 気候 稲のでんぷん質が出来る時期に、夜の気温が25℃以下の暖かさがないといけ
ない。高いと、米が乳白米という白い状態になる。低いと不稔にも。年にもよるが、夏
の大事な時に熱帯夜が長く続くと悪い。しかし、但馬の気温差はむしろ良い。
● 水質と水温 円山川の水は、今は生活雑排水が入り込んだりして良くない。また、
六方田んぼの夏場の水温は、お湯のように高くて良くない。昔は、山田の棚田の方が美
味しくなかったものだが、温暖化も影響してか、棚田の水温が丁度良くなっている。生
活雑排水もなく、良い。神鍋や村岡などの標高が高いところが、美味しい。
農法あれこれ
V字農法 への字農法 あいがも農法と色々ある。それぞれ利点欠点がある。詳しくは
、ネットで調べる事が出来る。今の但馬では、無農薬より低農薬の方が食味は良い。
これから生き残る米農家
大きすぎる農家は、コストが合わないように感じる。小さすぎても合わない。2-3町歩
の規模が、日本の米農業に合っている。そんな農家が、但馬には多い。勘でやる農業よ
り、きちんとパソコンで計算して農業をすることが求められる。兼業農家や趣味でやる
農業は絶対に生き残る。TPPで米の関税が無くなることが考えられるが、大規模農家は
厳しいと思う。
アメリカやカナダでは日本の米が研究されていて、安いジャポニカ米が
入ってくる事は予想される。それを日本人が美味しいと思うかどうか、ふたを開けてみ
ないとわからない。日本で作る米がやはり美味しいと民衆が判断すれば、過度に心配す
ることもない。
【中西氏】
コウノトリ育む農法のお米について
豊岡市とJAの決め事に従った農法を実践し、許可を得ないと、そのブランドは認められ
ないが、農家なら誰でもブランドをとれる。問題は食味。あんなもの、美味しいはずが
ない。ブランド名が先走っている。食味は決して良いとは言えるものではない。まず、
作り方が問題。ほんとうに美味しいお米作りの条件では作っていない。野鳥などの生き
物の環境を良くするという物語があるので、それは人に伝えても良いと思うが・・・・
。(実際にコウノトリ育む農法のお米を人に食べてもらうと、ネガティブな意見が多い)
古い農家の方の意見は辛らつ。例えば、湛水にすることにより、土が乾かされて初め
て得られる養分の効果が期待できない。また、トラクターが踏み込んでしまう田んぼが
あるのも問題。このあたり、農家さんは言いたい事がたくさんあるようだが、言うに言
えない世の雰囲気だという。
JAに高く買い取ってもらおうと思えば、米の水分量を14.5%まで乾燥しないといけない
が、本当はそんなに乾燥させてしまうと、ガクンと食味が落ちる。16パーセントくらい
が良いが、それだと保存の関係か、JAは高く買い取ってくれない。
【下垣氏】
美味しいごはんの炊き方
とはいえ、但馬のお米は美味しい。ごはんの炊き方をきちんとすれば、なお美味しい。
今頃は昔と違い、精米が上手に出来ているので、ヌカがあまり着いていない。昔のよう
によくといで洗う必要はない。気になれば、ササッと洗って、冬ならせめて1時間は水
に漬けておくこと。普通の炊飯ジャーで、好みの水量で美味しく炊ける。但馬の米は但
馬の水で炊くのが美味しい。現在高額で高性能の炊飯ジャーが色々出ているが、あれは
まずいお米を美味しく炊くのには良いが、但馬の米を炊くと、表面がベチャベチャにな
って良くない。
【文責:岩本】
日時:2012年1月28日(土) 12:00〜16:00
場所:但馬米穀(株) (豊岡市)
講師:下垣 巧氏
中西 寛氏
【中西氏】
まず、昔の但馬の稲作の話。大東亜戦争が終わる頃、とにかく食べるものがなかった。
三菱で魚雷艇の新型ロケットエンジンを造っていたが、空襲で焼け、悲惨な暮らしをし
ていた。餓死寸前という状況だった。これでは駄目だという事で、農業をすることにな
った。稲作は政府の方針で、「食味」より「収量」が優先されていた。たくさんとれる
お米22号・23号・ニホンバレを作っていた。コシヒカリは後に明石の試験場で出来たも
の。
当時はまだ牛で田んぼを鋤いていた時代。牛を動かすのにも、餌を食べさせた後、
牛の反すうを待って、複数ある胃袋の最初の胃袋より二番目から後に餌が移るのを待た
なければ、お腹がぶぅっと膨らんで、死んでしまう事になった。人から牛を借りて農作
業をしたが、牛のケアを心配され、なかなか思ったように仕事が出来ず、牛を買って飼
う事にした。牛に鋤かせた土は、干からびると、土の悪いバクテリアが死んだり、土の
成分が出て、多くの肥料を必要としなかった。今のトラクターでの耕運だと、土が干か
らびないので、そんな効果が無い。
当時の日本政府からは、机上での収量予測で、一反
あたり6俵の供出を求められたが、出来ずに困った。強権発動で、ひどい目にあったこ
ともある。しかし、多くとれる年もあった。23号のお米で、一反あたり9俵もとれた場
合も。それは、肥料でも農法でもなく気候によった。お金に余裕が出来、肥料をたくさ
ん撒いた場所もあったが、稲が吸収する養分は決まっているので、肥料の撒き過ぎはも
ったいないし、稲が倒れるし、病気にもなる。また、肥料が少ないと、収量が足らなく
なる。真ん中あたりで稲作をするのが良いと、昔から聞いている。
現在の稲わらを田ん
ぼにコンバインでまくやり方をやるだけで、土は肥えていく。堆肥はムラになってまき
にくい。田んぼ全体が同じように稲が育ちにくい。
稲は自家受粉。花が咲くのもわずかに2時間程度。それも、開花時が「まん」が良く、
晴れ。植物がその時期を何故か知っている。稲は、今の多くの種子がそうであるように
F1というわけではない。自家受粉の特徴だが、何世代か同じ種籾で稲作を続けると、そ
の親の種の特徴を帯びるようになる。今のコシヒカリという品種は、収量がとれだした
後、食味が求められて出来た品種。しかし今後変わっていくと思う。但馬でも、ツヤヒ
メなどの種が多くなるのではないかと思う。
【下垣氏】
但馬の美味しいお米の条件
● 土質 蛇紋岩のある土はやはり美味しい。食味計でも、数字がでる。
● 気候 稲のでんぷん質が出来る時期に、夜の気温が25℃以下の暖かさがないといけ
ない。高いと、米が乳白米という白い状態になる。低いと不稔にも。年にもよるが、夏
の大事な時に熱帯夜が長く続くと悪い。しかし、但馬の気温差はむしろ良い。
● 水質と水温 円山川の水は、今は生活雑排水が入り込んだりして良くない。また、
六方田んぼの夏場の水温は、お湯のように高くて良くない。昔は、山田の棚田の方が美
味しくなかったものだが、温暖化も影響してか、棚田の水温が丁度良くなっている。生
活雑排水もなく、良い。神鍋や村岡などの標高が高いところが、美味しい。
農法あれこれ
V字農法 への字農法 あいがも農法と色々ある。それぞれ利点欠点がある。詳しくは
、ネットで調べる事が出来る。今の但馬では、無農薬より低農薬の方が食味は良い。
これから生き残る米農家
大きすぎる農家は、コストが合わないように感じる。小さすぎても合わない。2-3町歩
の規模が、日本の米農業に合っている。そんな農家が、但馬には多い。勘でやる農業よ
り、きちんとパソコンで計算して農業をすることが求められる。兼業農家や趣味でやる
農業は絶対に生き残る。TPPで米の関税が無くなることが考えられるが、大規模農家は
厳しいと思う。
アメリカやカナダでは日本の米が研究されていて、安いジャポニカ米が
入ってくる事は予想される。それを日本人が美味しいと思うかどうか、ふたを開けてみ
ないとわからない。日本で作る米がやはり美味しいと民衆が判断すれば、過度に心配す
ることもない。
【中西氏】
コウノトリ育む農法のお米について
豊岡市とJAの決め事に従った農法を実践し、許可を得ないと、そのブランドは認められ
ないが、農家なら誰でもブランドをとれる。問題は食味。あんなもの、美味しいはずが
ない。ブランド名が先走っている。食味は決して良いとは言えるものではない。まず、
作り方が問題。ほんとうに美味しいお米作りの条件では作っていない。野鳥などの生き
物の環境を良くするという物語があるので、それは人に伝えても良いと思うが・・・・
。(実際にコウノトリ育む農法のお米を人に食べてもらうと、ネガティブな意見が多い)
古い農家の方の意見は辛らつ。例えば、湛水にすることにより、土が乾かされて初め
て得られる養分の効果が期待できない。また、トラクターが踏み込んでしまう田んぼが
あるのも問題。このあたり、農家さんは言いたい事がたくさんあるようだが、言うに言
えない世の雰囲気だという。
JAに高く買い取ってもらおうと思えば、米の水分量を14.5%まで乾燥しないといけない
が、本当はそんなに乾燥させてしまうと、ガクンと食味が落ちる。16パーセントくらい
が良いが、それだと保存の関係か、JAは高く買い取ってくれない。
【下垣氏】
美味しいごはんの炊き方
とはいえ、但馬のお米は美味しい。ごはんの炊き方をきちんとすれば、なお美味しい。
今頃は昔と違い、精米が上手に出来ているので、ヌカがあまり着いていない。昔のよう
によくといで洗う必要はない。気になれば、ササッと洗って、冬ならせめて1時間は水
に漬けておくこと。普通の炊飯ジャーで、好みの水量で美味しく炊ける。但馬の米は但
馬の水で炊くのが美味しい。現在高額で高性能の炊飯ジャーが色々出ているが、あれは
まずいお米を美味しく炊くのには良いが、但馬の米を炊くと、表面がベチャベチャにな
って良くない。
【文責:岩本】
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